見出し画像

メディア加害 オウム真理教と安倍晋三暗殺

わたしがマスコミ業界に入ったばかりの、1989(平成元)年。

いまから35年前だ。

35年前だが、その年に出たサンデー毎日の「オウム真理教の狂気」という表紙はよく覚えている。

そして、それを見たときの「いやな感覚」も、よく覚えている。

わたしは、その報道こそが「狂気」に思えた。

こんな報道をしたら、ひどいことが起こる、という予感にふるえた。


当時、あの報道に違和感を覚えた人は、かなりいた。

信者せいぜい数千人の新興宗教を、信者1000万人の創価学会をバックに持つ毎日新聞社がバッシングするのはどうなのか、とか。

信者の若者たちにも信教の自由があるのだから、親が騒ぐのはおかしい、とか。


しかし、そうした不審の声も、弁護士一家「失踪」事件が起こると、消えていった。「たしかに変なことが起こっている」と世間に思わせることになった。

もっとも、毎日新聞自身は、「失踪」事件で怖気づいたのか、積極的にオウムを扱うことはなくなった。TBSなどのテレビも、オウムの敏腕弁護士におどされて、逆にオウムに協力的になる始末だった。

代わりに、文春などの出版メディアが、オウムの追及をつづけることになる。


そして、サンデー毎日の初報から6年後、1995年の地下鉄サリン事件で、麻原ふくむオウム幹部が逮捕され、「狂気」の事件の全貌が明らかになる。

それによって、サンデー毎日の報道の正当性が、証明されたことになった。


しかし、わたしは、サンデー毎日が最初から正しかったとは思わない。

むしろ、サンデー毎日の行き過ぎた報道が、オウムを「怪物」に育てたのではないか。

サンデー毎日にネタを持ち込んだ江川紹子や、サンデー毎日編集長の功名心が関与して、報道を異常な形にゆがめたのではないか。

(わたしは、事件を未然に防いだのならともかく、事件のきっかけをつくったジャーナリストが、いまだ英雄あつかいされていることに納得できない。子供を含む、20人以上が死んだのである)


異常な刺激が、異常な反応を生む。

つまり、サンデー毎日こそが、オウム真理教事件を生んだのではないか。

わたしは30年間、そう思い続けてきた。

その観点から、わたしは小説「平成の亡霊」を書いた。


それというのも、35年前、最初にサンデー毎日の表紙を見たときの「いやな感じ」を、ずっと忘れることができなかったからだ。

「これは、ひどいことが起こるぞ」という予感も。



わたしがマスコミ業界をやめるころは、安倍晋三が集中砲火を浴びていた。

安倍をめぐる「もり・かけ・桜」報道についても、同様な「いやな感じ」をわたしは感じ続けた。

そして、ここでも、「こんなことを続けていたら、ひどいことが起こるぞ」と思い、実際にひどいことが起こった。


人は後知恵だと言うだろう。

実際、わたしもその「いやな感じ」を、簡明に、論理的に説明するのはむずかしい(だから、「小説」にするしかなかった)。


だが、メディアの異常性は、同時代にも感じられるものではないだろうか。

おかしい、と多くの人が思いながら、しかし日々の流れのなかで放置されていたのではないか。



後世、歴史家は、メディアの報道をもとに「歴史」を書くだろう。

その歴史のなかでは、メディアはまるで公正な証言者のようにあつかわれ、疑われないかもしれない。

その異常性や作為はすっぽりと抜け落ち、同時代の人々がそれに対してもった違和感は記録に残らないだろう。


アカデミズムの「メディア研究」も、マスコミの退職者が「天下り」でやることが多く、メディア寄りである。

今回の能登半島地震も、メディアの問題を浮き彫りにしているが、最近、こんなポストを見た。


文系の社会学、マスコミ論等は左派「マスコミ真理教」だらけなので、理系の社会医学系や比較的新しい災害研究系を勧めます。未来に必要な分野ですが、まだフロンティアです。若い人頑張ってください。


わたしが書いているようなことも、ワンチャン、奇跡的に、歴史家の目にとまるかもしれない、と思い、メディアの悪口を書き続けている。(でも、疲れてきた)



<参考>









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?