見出し画像

vol.18 三島由紀夫「午後の曳航」を読んで

10代の頃、読んだ記憶がある。その時の感想はおそらく、

「13歳の少年黒田登の大人たちを見るまっすぐな視線は、かっこいい。社会の調和を乱さないよう静かに生きている自分は、恥ずかしい。でもこんなに清く正しく美しく感性を保てない」ぐらいだったと思う。

あれから数十年、今改めて読んでみた。そして、三島由紀夫はこの作品でなにを描いたのか、そんな風に考えるようになった。

「午後の曳航」を読み終わって、東大全共闘と討論している1969年5月のYouTubeを見た。とても健康的でリラックスしている三島由紀夫の姿があった。その翌年にあの割腹自殺。

この作品はその7年前に書かれたもので、主人公は、世の大人は生きているだけで「罪を犯している」と考えている13歳の黒田登少年。

あらすじは、登は、世界の海で働く塚崎竜二を「英雄」として憧れる。しかし、その竜二は母親と結婚し、登の父親になると、教師のようなつまらないことばかり言う。それは登にとって、この世の凡俗に属していくことで、裏切りと感じる。「英雄」だった存在が「父親」になった塚崎竜二を子どもたちのグループで処刑する。

登は「塚崎竜二の罪科」として、
第一項、ひるまあったとき、僕にむかって、卑屈な迎合的な笑い方をしたこと。
第ニ項、濡れたシャツを着ていて、公園の噴水を浴びたことなどと、ルンペンのような言訳をしたこと。
第三項、『今度はいつ出航するか』ときいたら、意外にも『まだわからん』と答えたこと。
第四項、彼がそもそも、又ここに帰ってきたこと。をノートに書く。僕にはこれがなかなか面白かった。

この登たち子ども6人グループの首領はこう言っている。「父親というのは真実を隠蔽する機関で、子どもに嘘を供給する機関で、それだけならまだしも、1番悪いことは、自分が人知れず真実を代表していると信じていることだ」と。そして「父親はこの世界の蝿なんだ。あいつらはじっと狙っていて、僕たちの腐敗につけ込むんだ。・・・僕たちの絶対の能力を腐れさせるためなら、あいつらはなんでもする。あいつらの建てた不潔な町を守るために」と。

この小説の背景を考えた。登は、アメリカの占領軍に接収された家に住んでいて、母親は、舶来洋品店に勤めており、その店の常連客の女優は西洋にかぶれている。そして子どもたちの集会場所は、処刑の場所としても選んだ元米軍用地で立ち入り禁止エリア内(乾ドッグ)。三島由紀夫のことだから、アメリカの価値観を押し付けられた、戦後日本社会の欺瞞を織り込んでいるように思った。そして、登の部屋はいつも鍵をかけられ、外と隔てられている。

鍵をかけているのはアメリカで、その閉ざされた社会の中でしか生きられない日本の大人たちの言葉は全てが嘘っぱちで、そんな大人になんかなりたくない。何かをするのは刑法にかからない13歳の僕たちに与えられた権利なのだと中二病みたいなことを描いていると思った。

戦後、アメリカが持ち込んだ社会秩序の中で生活している子どもたちは、とっくに社会の嘘に気がついていて、子どもたちにその偽善を押し付けている大人たちは、生きているだけで「罪を犯している」、そう描いたのだと思った。

文芸評論家の田中美代子氏は、「海の男だった竜二が陸に上がり、商店経営者の〈父親〉になることは、少年たちにとって、〈大義〉のために〈死と栄光〉に向かうことを放棄した姿であり、それは他ならぬ『去勢された男の代表』、『つね日ごろ自分たちが少年の夢と純潔とを絞殺している殺人者』だとして、少年たちが「自分たちの未来の姿」でもあるその男を処刑している」と、解説している。(ウィキペディア参照)

なるほど。でも僕は、三島由紀夫みたいな観念的小説はやっぱり苦手だ。もっと本質的な人間の醜さをガンガンに描いている谷崎や田山などの自然文学の方がとっつきやすい。また、あの短髪で肉体改造っぽい体で、憲法改正論や自衛隊論、天皇論、愛国心などを熱く議論する姿が印象的でなんだか近づきたくない。考え方を強要されそうで、辛い印象がある。

この小説が書かれたのは昭和真っ只中の55年前だけど、平成最後の晩秋の今、大人になりたくない30歳、40歳の「登君」がたくさんいそうで、これもちょっと怖い。

この小説を読んでそんなことを考えた。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?