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HELPを言わせない日本型コミュニケーション

「もう無理」「限界」そう感じた時、もしくはそう感じる少し手前で「これ以上無理」と言えない。何がどう無理なのか、上手く伝えることができず、張りつめた状態で仕事を続けている人が年々増えている。その要因は日本型コミュニケーション手法にありそうだと思っていたが、イングランドでのミーティングでそれは確信になった。グローバル化とAI化が加速するこれから、日本型コミュニケーションの大きな転換が急務なように思う。



上手く伝えられない日本人

経営コンサルタントという仕事柄、組織の人間関係の調整をすることがある。その際いつも、考えや意見を整理して人に伝えることが苦手な人が多いと感じる。多少ながらも海外の団体や企業との繋がりがあり、日本人以外の人とのミーティングにも参加するのだが、彼らは自分の意見を伝えることがとても上手い。加えて他者の意見を理論的にとらえて考え判断する。

日本にもそういう人はたくさんいるが、外資系やいわゆる大手、ベンチャー系の企業など以外では、あまりお目にかかった記憶がない。地方都市の中小企業では、やはりまだまだ少ないように思う。上手く伝えられない主な原因は、感情による判断と、否定から入る会話、言葉の意味を正しく理解していない。この3つにあるように思う。


1,感情で判断する

感情で判断するとはどういうことか、なかなか理解されにくい。
言い換えるとすれば、共通のエビデンスに基づかない個人の主観(自分一人の考え)で判断すること。そもそも人は感情で捉え感情で判断すると言われるように、物事を決定するのは感情であることが多い。自分一人のことならそれでいいとは思うが、複数人で何かを相談し決定しなければいけない場合はとても困る。

例えば
店舗ごとにメニューと調理方法の異なる洋食店を複数展開してきた企業が、ラーメン店の複数展開を始めることになった。試行錯誤を繰り返し透けそうに薄いチャーシューを、ラーメン鉢いっぱいに敷きつめたオリジナルラーメンが完成。どこの店舗で食べても同じ味、同じ盛り付けにして、誰でもすぐ作れる調理方法で提供時間を短くすることで決定。それならチャーシューのカットには、ミートスライサーがいいのではと誰かが提案したとする。そして一人を除いては、その提案に同意。

ところが最終決定権をもつ社長だけが、同意を拒否。理由を聞くと「ずっと以前に、一人のシェフがミートスライサーで指先を飛ばしたことがあり大変だった。それにラーメン店とは言え、調理に関わる気があるなら均一の厚みに切れるようになってもらわないと困る」と言う。

これは過去の経験に基づく「ミートスライサーはとても危険」「料理に関わるなら技術を習得すべき」という個人の考え。つまり主観。長年それでやってきた人ほど、どんなに安全性を説明しようと、時代が違う、コンセプトから逸れると言ったところで、聞く耳すら持たなくなる。

その結果、その気持ちは大事にするべきだと主張する人がでてきたり、説得しても仕方がないと周りが譲る状況が生じることになる。特に決裁権をもつポジションにある人の主観には、反対意見すら憚られる空気がその場を包むことも少なくない。


2,悪気なく否定する

2つ目は、否定から入る会話が多いということ。
クライアントの会議に同席すると、従業員に「業務の改善になるような意見があれば、どんどん言ってほしい」「忌憚なき意見を聞きたい」と社長や管理職者が言うシーンをよく目にする。

聞かれた側が「こうすれば今よりもっと働きやすい」「こうすればもっと効率が良くなると思う」などの意見を言った場合、返ってくる典型的なパターンが否定。具体的には、以下のように返ってくる。
 ・それは本筋から外れた意見だ
 ・その提案では別の問題が発生するから無理だ
 ・もっと多角的にとらえた意見がほしい
 ・それは上がいい顔をしないだろう
 ・いい考えだが相手の立場がなくなるから難しい

人は否定されると自尊心を傷つけられ、自信が持てなくなる。何度も否定されると、言っても無駄だと思うようになる。だから意見を言わなくなっていく。だが否定的なことを言う側に悪気はない。否定したつもりもない。だから相手が嫌な思いをしたり、萎縮し何も言わなくなっていっても、否定から入る言い方が原因だとは気づかない。

否定から入る言い方は、いつしか日常的になっていて「でも」がその典型。
日本では子どもの頃から他者と異なる意見を肯定される機会が少なく、どんなにエビデンスに基づいていても、自分の意見に自信をもてない人が多い。それに追い打ちをかけるかのような否定的な表現は、精神的には大きな負担となってしまうことがある。

3,言葉の意味を正しく理解していない

前述の1と2もさることながら、言葉の意味を正しく理解していないことが円滑なコミュニケーションの、最も大きな問題ではないかと思っている。

新しいビジネス用語や、職場の人間関係をよくするための手法に用いられる用語などは特に、曖昧な理解のまま使われていることが多い。同じ単語でも共通の意味を理解してなければ、表面上の会話は成立しても真に理解しあうことは難しく、何度話し合ってもすれ違いは埋まらない。それどころから溝が大きくなる原因になる。

それだけでなく、時には意図せず他者の感情を取りこみ、正しい判断ができなくなることがある。感情移入と言われるものだ。このところ、聞く姿勢に大事な要素として広く知られるようになった「傾聴」「受容」「共感」という単語。本来の意味が正しく理解されていないまま使われていることに、大きな懸念を抱いてきた。もともと心理学の上では以下の意味をもつ。

 傾聴:聞く側が自身の主観にとらわれず相手の話を聞く
 受容:無条件な積極的関心、認める姿勢を示す
 共感:相手の視点で同じ景色を見る、疑似体験をする

簡潔にまとめるとこうなるのだが、実はもっと奥が深く、一言で言い表せるものでもない。なぜなら心理学はドイツで生まれ、日本に入ってきたのは明治の頃。ドイツ語で書かれたものを日本語にあてはめた、もしくは近い意味になるように漢字を組み合わせ新しい単語をつくったかのどちらかなので、今もまだ学者の間では聞く姿勢のあり方の追及が行われている。

一方で、一般的には以下の意味となる。

 傾聴:耳を傾けて、熱心に聞くこと、心に聞くこと
 受容:受け入れて、取りこむこと、取りいれること
 共感:他人の考え、主張、感情を自分もその通りだと感じること

心理学上の意味との違いがわかるだろうか。
これでは相手の感情を取り込むような意味になる。そして相手の考えや主張を肯定することになる。ただでさえ感情で捉え感情で判断しがちなところに、他者の感情まで取り込むと、客観的で理論的な思考と判断が難しくなる。これは、公平で公正な視点をもつことが難しくなることを意味する。

臨床心理士のように人の気持ちに寄り添う仕事をする人は、相手の話に耳を傾けるが感情で捉えるべきではない。ただただ相手を認める、理解する姿勢を示すのが基本。感情で捉えると、人は情に流されるからだ。彼らは感情整理と論理的思考の訓練を重ね、クライアントの感情に翻弄されない、客観的な視点での適格な見立てと治療計画を組立てるスキルを磨く。聞く姿勢の確立は、本来それほど単純で簡単なものではないことを、多く人は知らないまま本来の意味とは異なる使いかたをしているように見える。


イングランドでのミーティング

ではイングランドはどうだったのか。十年近く前のことながら、国籍の異なる複数人と初めて行ったミーティングを今も鮮明に覚えている。それほど違いが大きかったからだろう。それまで日本で経験してきた会議とはいわば真逆で、客観的で理論的な意見が飛び交った。

著作者:rawpixel.com</a>/出典:Freepik

1,軸にそった客観的で理論的な議論

日本でも、大手企業を含む外資系や比較的若いベンチャー系の企業などでは、客観的で理論的なミーティングがあたりまえになってはいるが、中小企業となるとそうなっていないところがまだまだ多い。

客観的で理論的に考え議論とは…
 1,明確な目的が共有されている
 2,決定に必要なエビデンスが共有されている
 3,個々の経験に基づいた提案をする際エビデンス資料が共有される
 4,共通の認識を確認しながら議論がなされる
簡潔にまとめるとこういうことで、自社でもやっているとよく言われるのだが、実は大きな違いがある。

例えば「目的」
ミーティングの目的の共有はあたりまえだが、事業の目的(日本で言うところの理念)を明確に共有していたのがイングランドでのミーティング。事業の目的の達成とは、その事業が社会にどんな効果をもたらしたいかと同義。それを大前提として議論が進む。途中どんなにいい案がだされても、目的から逸れることは採択されない。

そして「エビデンス」
これまで関わってきた企業や団体などは、エビデンス資料は売り上げなど数字のデータのことだと思っていたところが多かった。他には中央省庁や著名な企業の統計資料、法的根拠を示す法令、その時々の潮流になっているノウハウ本からの引用などだ。売上アップなどのような「目標」達成のための資料としては有効だが、これらは時に「目的」を見失わせることがある


2,他者を認める姿勢と否定にならない言い回し

もう一つ、欧米の人たちが長けていることがある。
それは他者の考えと意見を認める姿勢と言い回し。議論の際も他者の意見を肯定する、認める、否定にならないような言い回しをよく使う。自分の意見を言うのはそれからだ。日常の会話でも相手を認める言葉がよく使われ、学校でもディスカッションの時間が多くある。こうして他者を否定しないで自身の意見を言うスキルが身についていく。だからだろう、ミーティングで真逆のような意見がでても、否定的な議論になりにくく建設的だ。

前述の否定から入る日本とはかなり違う。
例えば、誰かが本筋から少し外れた意見を言ったとする。それに対する反応は「それがいいアイデアなのは認める」「よく思いついたね」などから入り、「それを実行した場合、どんな結果がでると想定してる?」とか「そのアイデアと、今回の事業の目的の関連をもう少し説明してほしい」と投げかける。当時は今よりもっと英会話のスキルが低かったからかもしれないが、日本でよく聞く「でも」というニュアンスの接続詞を聞いた記憶がない。


日本人と西欧人のコミュニケーションの違い

これまでの経験から、日本人と欧米人のコミュニケーションの違いがどこからくるのか探ってきた。疑問にぶつかるたびに、学術論文や古典文学、言語学や民俗学の本などを何度も読み、歴史的背景の違いであることを知った。

日本人のコミュニケーションと日本語

島国で山の多い日本では、山間に比較的少人数の集落が形成されていた。それらは生産の共同体でもあり、仲たがいをしていては農作業に影響する。農作業の影響は収穫量にも影響する。それに小さな村では生きづらい。だから他者の醸しだす空気感で感情を敏感にキャッチして、感情を逆なでしないよう曖昧な表現で返すのがあたりまえだった。だから日本語には相反する意味を持つ言葉や、ハッキリしない曖昧な表現も多い。

例えば理屈という単語。
  物事の筋道、道理(物事のそうあるべきこと、正しい論理)
  無理につじつまを合わせた論理、こじつけの理論
いわば真逆のような二通りの意味がある。単語だけでなく「結構です」などのように、真逆の意味をもつ文も多い。これが英語であれば「私」というような主語が必要だ。

主語がなくても、真逆の意味を併せもつ単語や文でも、その場の空気でニュアンスを汲み取り会話が成立するのは、そういった背景からのようだ。


欧米人のコミュニケーションと英語

日本とは違い、広い大陸に複数の国がひしめきあう欧米。何千年も昔から、戦いの繰り返しだった背景がある。いつどこから他国が侵略してくるかわからない。一国のなかでも権力や領地の奪いあいなどがあり、誰が敵か味方かわからない。そんな状況だったので、相手の感情を刺激しないよう理論的な会話が必要だったのだろう。早くに銃が使われるようになったことも、相手を否定せず自分の意見を理論的に伝えるコミュニケーション手法につながっているようだ。

それは今の日本から見ると、とてもいいコミュニケーションの取りかたのように感じるが、英語には人を罵倒したり屈辱的な言葉が日本語よりも多い。一冊の辞書ができるほどとも言われる。だからこそ使いかたを誤ると、予期せぬ事態になりかねず、肯定的な言いまわし、理論的な意思表示、言葉に感情表現が根づいたのではないだろうか。


母国語を正しく理解することの重要性

日本語は共感を大事にする言語と言われる。
つまりそれは他者の感情をキャッチしやすいことを意味し、空気を読む文化を形成しているとも言える。それは日本語の特徴であり、日本人の優れた感覚でもある。だからできればこのまま、大事に残していきたいと思う。

だが残念ながら、社会は英語に傾き始めている。
グローバル化のさらなる加速からだろう。英語でコミュニケーションがとれるにこしたことはない。ただ長い年月をかけてDNAに刻まれた感情に敏感な気質は、簡単には変わらない。だからつい、相手の空気に合わせてしまいがちになる可能性は決して低くない。ビジネス上は特に好ましくない。

特に母国語である日本語を正しく理解できていないと、英語の意味とニュアンスを正しく理解するのは難しく、あらゆるシーンでネックになる。どんなに自動翻訳の技術が進歩しても、翻訳された日本語の意味を取り違えることも考えられる。果たしてそれでコミュニケーションが成立するのかという疑問より、心配のほうが大きい。同じ言語を話す日本人同士でさえ上手くコミュニケーションできない状況なのだから。

これからますます変化するコミュニケーション手法。
もう一度、日本語の正しい意味と使いかたを理解し習得することが、何より必要なことではないだろうか。


参考文献
※津田幸男 著「日本語肯定論」
※田中圭一 著「百姓の江戸時代」
※西部邁 著「昔、言葉は思想であった ~語源から見た現代~」
※成松佐恵子 著「庄屋日記にみる江戸の世相と暮らし」


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