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理性とは喜びの感情そのもの スピノザ哲学から学ぶ(前編)

 人間は理性的な生き物である、ということが言われる。「理性」とは、一般的にはどのような意味を持っているのだろうか。日本国語大辞典では「感情に走らず、道理に基づいて考えたり判断したりする能力」とされている。

 Wikipediaでは、以下のようにある。

理性(りせい、希: λόγος、羅: ratio、仏: raison、英: reason、独: Vernunft)とは、人間に本来的に備わっているとされる知的能力の一つである。言い換えれば推論(reasoning)能力である。知識・認識や判断の源泉として、この理性に依拠する態度を理性主義と言う。

Wikipediaより

 これ以降は、主に哲学者によって語られてきた「理性」の説明が続く。

 哲学において「理性」は、時代や哲学者によってさまざまな意味で使われており、それぞれ異なる概念が存在する。有名なのはカントだろうか。カントにとって理性は、人間の認識や行動を導く根本的な力であり、その役割は「純粋理性」「実践理性」と二つある。

 本記事においては、この「理性」について、十七世紀の哲学者スピノザはどう考えていたのかをお伝えしていこうと思う。

 そもそも、人間という生物は、理性的なものなのだろうか。「感情に走らず、道理に基づいて考えたり判断したりする能力」が理性といわれているように、われわれの社会では、感情が理性に対置され、比較される。感情的になってしまうものは未熟であり、理性的な人間ほど優秀だ、という見方もなされている。

 しかし、「あなたは理性的な人間ですか?」と問われた時、自信を持って肯定できる者はどれほどいるであろうか。それは、なんとも心もとないものではないだろうか。少なくとも私はまったく自信がない。むしろ、感情に常にふりまわさている(笑)。

 理性的であればあるほど、人は立派なのだろうか。有徳とされるのだろうか? スピノザにおいても、これ自体はYesである。

 だが、これまでのいくつかの記事でも紹介してきたように、スピノザはそうだからといって、感情というものを排除したり、下にみるということはない。

 むしろ感情は捨てることもできなければ逃れられないものだとする。そして、それは人間の本質なのであるとさえいう。むしろ、理性的であるほうがきわめて稀なことなのである。

 スピノザ哲学におけるこの「理性」の位置づけは、感情と不可分である、ということはのちに示したいと思うが、まずはスピノザの感情について、基本的なところを振り返っておく。

 スピノザ哲学の中で、もっとも重要な概念の一つが、「コナトゥス(Conatus)」である。『エチカ』第三部ではこのように定義される。

どのようなものでも、それ自身のうちにとどまるかぎり、自己の存在に固執しようと努力する(第三部定理六)

あらゆるものが自分の存在(ens)に固執しようとする努力は、そのものの現実的(生きた)本質に他ならない(第三部定理七)

『エティカ』中央クラシックスより

 コナトゥスとは、存在に固執しようとする力や傾向というような意味合いである。スピノザはこの世界はすべて必然的な法則に従っているとしたが、コナトゥスはまさに必然的な自然の法則である。すべての動物は生存を維持しようと活動し、すべての物体は常に動き続ける。

 石にも机にも、魚にもコナトゥスがある。石は石たらんとする。机も机たらんとする。同じように、人間も人間たらんとする。人間をやめたいといっても、やめられるものではない。どんなに人間であることが嫌でも、悲しくとも、もがき苦しもうとも、絶望しようとも、人間であろうとすることに変わりはない。

 このコナトゥスは、全自然(世界)に及ぶところまで及ぶ。それが、存在を産出する神の力だ。神(=自然)は、自らを産み出し、さらに存在するものとして自らを表現する

 スピノザの神が「自己原因」において定義されるのは、こういうところだ。

「実体とはそれ自身において存在し、それ自身によって考えられるもののことである(『エチカ』第一部定義三)

 自らを産み自ら表現する(存在しようとする)ものが、神。その神である自然を、自然たらしめる力、働きかけ、運動こそが、コナトゥスである。コナトゥスとは、存在そのもの、活動そものと言ってもよいかもしれない。

 このコナトゥスは、人間においては「身体」のみにとどまるのではない。身体の観念とされる「精神」もまた、人格的な同一性を維持しようとし続ける。

 スピノザは言う。

いかなるものも、自分を破滅に導くもの、あるいは自分の存在を除去してしまうようなものをどんなものであれ、自分の内部にふくむことはない。むしろ反対に、その存在を除去してしまうようなすべてのものに抵抗する。このようにして個物は、できるだけ、しかも自分のうちにとどまるかぎり、自分の存在に固執しようと努力するのである(第三部定理六の証明)

『エティカ』中央クラシックスより

 コナトゥスは、自己の存在に固執しようと努める。自分の存在を除去しようとしたり、あるいは存在を消滅させてしまいたいという衝動は、人間の内部においてはありえない。あるとすれば、コナトゥスを弱めるまでに破壊的な、外部の力によるものである。

 このコナトゥスが、精神にのみ関係づけられる時、それは「意志」と呼ばれ、精神と身体の双方に関係する時は「衝動」と呼ばれる。この「衝動」を自ら意識化したものは「欲望」と名付けられる。

 意志と欲望は対立したものではない。これらは同じ、自己を維持し向上させようとるする基本的な動因の表現である。そして、人間の活動の本質である。

 また、コナトゥスは現実的な活動において、増大したり減少したりする。先述したように、内部的な力だけでなく、他の存在とともに活動がある以上、外部の影響に応じて強まったり弱まったりする。

 このコナトゥスによる、自己の維持の力が、身体において活動力を増大させているように見える時は、精神においては「喜び」として現われ、身体において活動力が減少しているように見える時は、精神においては「悲しみ」として現われる。

 この「欲望」「喜び」「悲しみ」が、スピノザの感情の基本的な形態であり、その他の感情というものは、これらの組み合わせや、何に起因するかによるバリエーションである。

 例えば「愛」は外部原因の観念を伴う喜びであり、「憎しみ」とは外部原因の観念を伴う悲しみである、といったように。

 スピノザにおいては、この感情に対して受動的であり、それに支配されている状態を「隷従」と呼ぶ。

反対に感情に対して、能動的な状態を「自由」と呼ぶ。能動的な感情は、その喜びに満ちていればいるほど、自己を維持し、発展させる力を得る。

 そして、この感情の悲しみをもたらす原因は、スピノザにおいて「悪」と呼ばれ、反対に、喜びをもたらす原因は「善」と呼ばれる。

 スピノザにおいての善・悪は、普遍的な概念ではない。私(私たち)にとっての活動を促進するものか、妨害するものかによって判断される、主観的かつ相対的なものである。ただし、これは人間が自己の感覚や主観的なものとして判断する「表象知(imaginatio)」においてはそのようなものとされる。のちに述べるように、この善悪の普遍的な認識は、「理性」にかかっているのである。

 そう。スピノザにおける「理性」の位置づけとは、まさにこの能動的な感情、喜び、その喜びをもたらす善といったものに関わるのである。ここまでコナトゥスおよびスピノザの三つの感情についてくどくど書いてきたことには理由がある。

 フランスの哲学者、アレクサンドル・マトゥロンが言うように、「コナトゥスが理性と感情の共通の唯一の源泉であり、認識への欲求はコナトゥスの真理」なのである。(参照:論文「スピノザにおける理性・自由・徳」


「認識」と唐突に出てきたが、この認識とは、スピノザ哲学においてはこちらも重要な概念で、非十全な認識、十全な認識とあるのだが、この十全な認識に、「理性知(ratio)」がかかわる。先ほど「表象知(imaginatio)」という単語も出したが、これらを含めて、スピノザにおいては認識は三種類ある。

第1種の認識=表象知 臆見、表象、想像などによる認識。受動的な認識
第2種の認識=理性知 共通概念、理性による認識。能動的な認識
第3種の認識=直観知 本質の直観的な認識。能動的な認識

 この認識の詳細についての説明は省略する。私も理解しているとは言い難いくらいに難しいからだ(笑) 

「理性知」は、ものすごく単純化すると、「共通概念」とも呼ばれるのだが、神(=自然)を永遠の相のもとに見た、すべての人間にとって共通な、普遍的な概念である。

 感覚による表面的な捉え方ではなく、物事の本質や因果関係を理解するための基本的な枠組みで、「自然の光のもとで見る」とスピノザがいう時のこの認識は、理性知であると思う。

 ただ、この「理性知」を知らずとも、スピノザ自身の「理性」についての説明をみていけば、「理性知」というものがなんであるかは、なんとなく掴めてくるのではないかと思われる。

 スピノザは「理性の指図」という言葉を使うのだが、「理性」というなにか偉いものがあって、そういった偉いものが、感情からぬけだせない人間を正していく・・・ そんなイメージは、スピノザにはない。あるいは、人間が「理性」という道具を、いかに上手に使いこなせるか、そういったイメージもない。

 スピノザにおける「理性」とは、感情同様に、人間の本質そのものに含まれたものだからである。

理性は自然に反するようないかなるものも要求しない。したがって、理性が各人に要求することは、各人が自分自身を愛すること、自分自身のためにほんとうに役だつような有益なものをもとめること、また人間をより大きな完全性へ真に導いてゆくものを欲求すること、要するに端的にいえば、各人が自分のすべてをつくして自分の存在を維持しようと努力することを要求しているのである。このことは、いうまでもなく、全体がその部分より大であるというのと同じように、必然的に真である(第四部定理十八注解)
※強調引用者

『エティカ』中央クラシックスより

 この個所を読めば、スピノザは理性が要求することは、自己を維持しようという力、コナトゥスである、とはっきりと言っている。その自己の維持とは何かというところで、「自分自身のためにほんとうに役だつような有益なものをもとめること、また人間をより大きな完全性へ真に導いてゆくものを欲求すること」と説明していて、これこそまさに自然の法則、自己の法則の認識である。

 もっと端的に言ってしまえば、よりよく生きよ、ということである。そしてこの自己を維持しようという力こそは「徳(virtus)」の基礎でもあると、スピノザは続けて説明するのである。

 コナトゥス(よりよく生きること)は、よりよく認識することであり、このコナトゥスも、認識することも、この「徳」の基礎である。そして、「徳」とは、「力」そのものである。

私は徳と力とは、同じものであると解する。いいかえれば、徳がただ人間に関していわれているときは、人間の本質、あるいは本性そのものである。ただし、そのような人間は、自己の本性の法則によってのみ把握されうるようなあることをなす能力をもつときにかぎる(第四部定義八)

『エティカ』中央クラシックスより

「あることをなす能力をもつときにかぎる」とは、まさに、コナトゥスのままに、よりよく生きるためによりよく認識することにおいてのみ、ということだと思う。

 いろいろこんがらがりそうだが、すべて同じことに対して言っているのだと思われる。「よりよく生きる」。そのことを認識すること。それが「理性知」だ、とひとまず言っておく。

 単に感情や衝動に従うのではない。感情、それも負の感情に捉えられているうちは、そこに自由はない。世界に対して、不確実な認識のままでは、「感情」がなんたるかも認識できず、感情に捉われたままである。

 その感情の原因、人間がなぜ感情を本質とするのかも含めて、自然の法則をただしく認識することで、感情からも自由になれる。その認識は「理性」と呼ばれるが、喜びの感情をもたらすものに他ならない。

 なぜなら、知ること、認識することは、より自由になる、より幸福になるということにつながるからである。

 スピノザは言う。

われわれが理性に従って努力することは、すべて認識するということである。精神が理性を用いるかぎり、精神は認識に役だつもの以外は自分にとって有益であると判断しない(第四部定理二十六)

われわれは、認識にじっさい役立つものだけが善であり、また他方認識をじゃまだてしうるものだけが悪であると認める(第四部定理二十七)

(後編に続く)


<参考文献>・『エティカ』スピノザ/工藤喜作・斎藤博訳(中公クラシック)


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