研究授業におけるツッコミという名の指摘〜目標の達成編〜

小学校の先生は研究授業をやっている。
これは間違いなく中学校や高等学校より数が多い。
学期末にも関わらずこんなことをやっています。
どっかの記事でもないが休憩時間も授業の空き時間もなくそして個人懇談の最中なのに・・・・

研究授業におけるツッコミというかもはやイチャモン。
自分もたまにやってるなぁという自戒も込めて。

というかこれしかないのかなぁという目標が達成できていたのかというハナシ。これが達成できているかいないのかというのは最早主観でしかないのではないかというシビアな感覚があります。

授業を作るにあたって目標を立てる必要があることはよくわかります。〇〇ができるようになる。〇〇がわかる。そうしないと教える側が何をしたいのかが分からないからです。これは人に見せるときはなおさらです。教科書のアンチョコには全てこれが書いてあります。しかしそもそもクラスルームの子どもに全く合っていないこともあるので意識的に変えることもあります。

ここでいつも思うこと。できるとかわかるという目標設定はいかにして達成が可能かということです。
教える側が触れればわかったのか?教える側が促して一度やればできたことになるのか?クラス内の数人が分かればできればいいのか?全員が書き切るまで粘らないといけないのか?そういったことです。

昨日は期せずして話の中に古典的な日本の実践家の名前が出てきたのですが、正直言えば無着成恭、斉藤喜博、東井、大村はまその他諸々の実践で名を挙げた方々を話のネタとして紹介する時に形容する言葉として相応しくない言葉というのがあると思います。
よくあるのは、子どもの感想、子どもの表情、観衆のまなざし、実践者の語り、記録者の記録といったものです。こうしたものは編集の加えられた加工物であって何重にもバイアスがかかっている上に加工がなされたノンフィクションであるということなんです。
こうしたことを持ち上げて、ありがたがりすぎることは本来のモノの見方を歪めてしまうことになるということです。もちろん目安としては良いのでしょう。しかしそれはあくまでも目安であって基準にならないということです。なぜこうした実践上の盲信が起こってしまうのかということです。

結論から言ってしまえば我々のショーバイというのは結果が全てということです。
子どもに力がついたことを最終的な判断基準とするしかないということです。
積み重ね論者のように一点一点が全て結果につながっていくなどという妄想を信じることはできません。その一点は所詮その一点です。その一点が積み重ねの小さな礎で終わるのか?それとも大きな飛躍のジャンプ台になるのか?もし後者が選べるなら、私は喜んで研究授業ごときの目標など打ち捨てます。どんなに訳知り顔の大学教員に的外れな攻撃を加えられようとも歯牙にも掛けないということです。

もし私がそういう的外れをやらかしたら、無視していただいて結構ですよという自戒も込めた授業方法へのツッコミの話でした。

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