「遊び」の大切さ
宮本武蔵がその著「五輪書」の中で、「死に手」・「生き手」ということについて述べている。
「死に手」とは、刀の柄の鍔元を両の手でしっかりと握り締める状態をいうのである。十本の指に等しく力を入れていると、当然のことながら肘に余裕がなく、突っ張った状態となり、しかも肩に力が入るためにとっさの対応が鈍り、斬突の動作が遅れるだけでなく、敵の刃を受け止めることもかなわなくなるのである。
それに対して「生き手」とは、刀の柄を鍔元から離して左右の手の小指と薬指で握り、それぞれの親指のつけ根で押さえ、特に右手は一切の力を抜き、柄に軽く添えるだけにしておく状態をいうのである。こうしておけば、肘にも肩にも無駄な力が加わることもなく、手首のスナップも利き、自在な動きも可能になるのである。
人の性格についても同様のことがいえる。常朝が「丈夫窮屈ばかりにては、働きなきものなり」と言っているように、謹厳実直だけで融通が利かない者は仕事の事務処理においては間違いはないかも知れないが、杓子定規な対応では人の心を惹き付けることもできないために、目覚ましい働きはできないのである。それに比べて「すてものも尽したる者にてなければ用に立たず」と言っているように、徹底した落伍者ほど役に立つと常朝は見る。なぜなら、底辺に在って、辛い思い悔しい思いをさんざん体験してきたことで、他人の心の痛みが理解でき、柔軟な対応もできるからである。そんな親しみやすさが人間的魅力となって、仕事面でも大きな実績に繋がっていく場合が多いからである。
臨機応変な対応が求められるのはいつの世も同じである。挫折を経験し、絶望感を味わい、且つそれらを乗り越えたとき新しい視野が開け、心に余裕も生まれてくるのである。人は逆境に在るときにこそ、人間としての成長を遂げているのかも知れない。
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