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人生をゴールから「逆算」して自分を追い詰めるの、そろそろやめませんか?

私の愛しいアップルパイへ

「こころざし高くヴィジョンを持って、そのために命を使うべく、今日やることを決めよう!」

家と会社の往復にうんざりした当時26歳の私は、トニー・モンタナにでもなったつもりで力強く立ち上がり、人生を逆算的に考えることを始めました。人生に対する不満から、自分の人生を価値あるものだと信じさせてくれる根拠のようなナニカが欲しかったというのが実情です。

「あなたの人生にはどれほどの価値があるのですか?」

と誰かに問われたとき

「私の人生には無限の価値がありますよ!ほらご覧なさい!私はこれからこれほどのことを実現できるのですよ!!!」

と自信を持って答えられるものが欲しかったのです。不安だったからです。

私は休日を使って人生のゴールを決めて5年間の計画を作り、1年の目標を設定しました。そのプロセスに何時間も、何十時間もかけました。

はじめて作った人生の五カ年計画(2012年、26歳の頃)
はじめて作った人生の年次計画(2012年、26歳の頃)
当時制作した逆算プロセスを図示したもの

半分冗談、半分本気で死ぬまで(100歳まで)の10年ごとの計画を作ったこともあります。もちろん「死ぬまでにやりたい100のこと」も同じ頃に洗い出しました。

もちろん中にはうまくいったものもありますが、今振り返ればそれは計画を作ったからとかそれを愚直に実行したからというより、たまたま運が良かったと考えた方が妥当なものばかりです。

当時、ものごとを逆算的に進めること、それを人生にも適用することは、私にはとても自然な流れでした。ゴールから次にやることを逆算するのは、効果的なやり方のスタンダードだと思い込んでいましたし、そう教わってもきました。その方法以外は思いつかないくらいでした。

学生時代の教育でも、はじめて就職した会社でも、成功哲学と呼ばれるようなビジネス書でも、それが称賛されるべき方法として説かれているものばかりでした。

ゴールを決めて、目標を設定し、計画を立て、今日やることを決める逆算的なプロセスは分かりやすいです。人生というカオスに一貫性をもたらし、一時的にせよ自分を気持ちよくしてくれます。特に初期のフェーズでは何かを行動に移すモチベーションとなることもあるでしょう。

しかし、そのようなメリット以上に、暗い影を人生に落としてしまうことも十分にあり得ることが、この記事で言いたいことです。

この12年間の気づきを凝縮しましたから、少し長くなります。さぁ、上質なブラックティーを用意しましたので、こちらでゆっくりしていってください。


逆算でうまくいってますか?

そもそも逆算的に考えてうまくいったことがどれほどあるでしょうか?小さなプロジェクトから人生そのものを対象とする大それたものまで、ほとんどうまくいったためしがないというのが実際のところでしょう。

それもそのはずです。当然、逆算というのは実現が難しいことを掲げるのですから。毎日、当たり前にできていることをゴールに設定したり、目標に掲げたりすることはないでしょう。

そのうえ、どんなゴールも目標も身の回りの環境や状況の変化を無視できません。しかし、未来予測はことごとく外れます。5年前はコロナもウクライナ侵攻もChatGPTもなかったのです。

つまり、逆算というのはそもそも実現できる見込みがほとんどないのです。そもそも誰もうまくいった試しがないはずのものなのです。

ここまで聞いて、あなたほど賢いお方であれば「いやいや…」とお思いでしょう。設定したゴールをそのまま達成できることはないかもしれないけれど、それに近付こうと努力するのだから無駄にはならないと。もちろんそういう考えもあります。

かつては私自身も逆算的な方法論を「うまくいったら御の字」「ダメでも無駄にはならない」という気持ちで取り組んでいました。まず方向性がカッチリと決められること、そしてなにより一歩前に進めることが大事で、環境や状況が変わったらその都度計画を修正すれば良いと考えていました。

しかし、ここで2つの疑問が湧きます。

第一に「ほとんどうまくいく見込みもなければそのとおりにいくという確実性もないゴールと自分を比較して、その差を埋めようとすること」にどれほどの意味と妥当性があるのでしょうか。

第二に「方向性を決めて、一歩前に進むため」にそんな大それたことが必要なのでしょうか?アメリカ大陸の発見を目指さなければ、家から一歩も出られないというのは、実におかしなことです。

逆算的なアプローチはそれなりに面倒です。それこそ人生全体のゴールを決めて、中長期的な計画を立て、それを日々の行動に落とし込み、状況に応じて計画を修正するといったことを徹底的にやり始めたら、月に何時間も、年に何十時間も必要です。実際、私は何十時間もかけていました。

無駄にはならないと考えるにしては、メンテナンス負荷が高いのです。

「野暮なことを言うな!」と怒られるかもしれません。あなたほどエレガントなお方であればそんなことはしないでしょうけれど。

なるほど「本人が効果を感じているのなら、それで良いじゃないか」と考えるのも私には理解できます。

そうなんです。逆算的なアプローチは効果性が低く、たとえ随分と回りくどいやり方に陥っていたとしても、本人が効果を感じていれば口を挟む必要はないのかもしれません。非効率な努力も「本人が効果を感じている」という一点において、驚くほどうまく機能することは十分にあることです。うまくいっていると感じているなら是非続けましょう!

でも、そうでない場合はどうでしょうか。逆算的な方法が単にうまくいかなかったり、徒労に終わったりするだけでなく、悪影響を及ぼすことがあるということです。私が今日言いたいのはこのことなのです。

人生を逆算的に考えることで、苦しんでいる自覚があるのでしたら、続きを読んでみてください。

逆算して自分を追い詰めていませんか?

逆算は達成が難しい前提で、かつ未来予測が必要なのでほとんどうまくいかないことは前述したとおりです。それでも逆算した計画と現実を比較して、行動を「改善」することが求められます。

これを人生に適用してしまうと、まじめな人ほど「自分を追い詰めてしまうこと」が少なからずあるのです。理想と現在を比較して、現在にダメ出しばかりしていると精神的、心理的なダメージを結構受けるのです。

幸か不幸か、私の場合、人生を逆算的に考えるようになって最初の5年間は予想以上にうまくいきました。その間、"少なくとも表面的には"深刻な事態に陥りませんでした。

その後、逆算が通用しなくなりました。それもそのはずで、逆算で掲げるゴールや目標は達成するたびにエスカレートしていきます。5年も経てば周囲の環境も時代も様変わりしますし、いよいよそれまでのやり方が通用しなくなりました。

うまくいかないときほど力が出ることもあるでしょう。しかし、背水の陣のようなやり方は長続きしません。逆算をしてうまくいかず、日々自分にダメ出しをしているうちに、奮い立つどころか意気消沈してくるのです。

どんなに良い言葉で取り繕っても、逆算は足りないことを埋める思考です。人生を減点方式で考えるようになります。そのうちうまくいかない理由を自分に求め始めます。それを続けていると「自分は無能だ」「なにをやってもうまくいかない」「どうにもならない」といった気分になってきます。

こうなると逆算した目標や計画に掲げたことへ手がつけられなくなります。現実逃避、というより理想からの逃避ばかりが捗ります。

行動がゆがむと、環境もゆがみます。具体的には家庭や同僚との関係が悪化したりするのです。すると、さらにダメ出しの口実が増えます。こうして、まさに逆算する行為そのものによって、理想とした目標や計画から遠ざかるような負のスパイラルに陥ります。

それでも逆算的なやり方しか知らなければ、身動きが取れなくなってしまうでしょう。逆算の対象が人生なら、もう生きていたくないと思うようになります。かつての私のように。

日常に満足はありますか?

極端な例だと思うかもしれません。実際、私の例は極端だと思います。大まじめに人生の5ヵ年計画を作って何十時間もかけてメンテナンスしたり、死ぬまでの人生計画を作るようなことはあまりしないかもしれません。それによって身動きが取れなくなってしまうほど自分を追い詰めてしまうケースもまれかもしれません。

2年ほど前から、私は積極的に「逆算をやめよう」と語りはじめました。最初は独り言に近い、つぶやきのようなものでした。それ以降、最も驚いたのは「実は逆算によって苦しんでました」「やっと気付けました」と報告してくれる人がかなりいたことです。

逆算で苦しんでいるのは自分だけでないと分かったのは大きな救いになりました。

逆算はなぜうまくいかないのでしょうか。うまくいかないどころか、なぜダメージを与えてしまうのでしょうか。

先ほど、当初は逆算も"少なくとも表面的には"問題がなかったといいました。しかし、表面下では、私が気づいていないレベルの部分では、ずっと問題があったと今では分かります。

それは、人生から「安らぎ」と「楽しさ」、そして「満足すること」を奪ってしまうからです。

逆算している間、私の人生には不思議なほど「満足」がありませんでした。動き続けるために「満足してはいけない」と思っている節すらありました。その代わり「期待」が人生の大部分を占めていました。

逆算は未来への期待を原動力とします。「期待」と「満足」は違います。それどころか、同じ線上の対局に位置するものと考えることもできます。「期待」に偏りすぎると「満足」は遠ざかってしまうのです。

「これさえ手に入れば」と期待していたものが手に入ったとたん、満足する間もなく「次に欲しいもの」のことばかり考えているような事態に陥ってしまうのです。

私は人生に退屈していました。人生に膿んでいました。逆算をして人生にゴールと目標、計画を作ったとき、人生が金色の太陽の光で照らされて、眩しく輝いたように感じられました。

未来に期待することで退屈をしのごうとしていたわけです。痛みを一時的に和らげるモルヒネのようなもので、「今は不本意な生活をしているけれど、未来はもっとよくなるはず」と考えれば少しは気分が晴れたのです。

この生き方はどう考えてもいびつな気がします。未来へ期待を膨らませて、現在を蔑ろにしているからです。しかし、時間というのはいつだって「現在」という形でしか体験できません。

では、なぜ人生を逆算したいのでしょうか?そのモチベーションはなんでしょうか?端的にいえば「幸福」のためではないでしょうか。

未来に期待することが原動力になってしまうと、現在、この瞬間に得られるはずの「安らぎ」「楽しさ」「満足」がなくなっていきます。これでは倒立して歩こうとしているようなものです。

「安らぎ」「楽しさ」、そして「満足」なくして「幸福」を得られるとは私には思えません。

人生をゴールから逆算するの、そろそろやめませんか?

「成功」と「幸福」は二律背反で、ワクワクする理想の未来を捨て、ズルズルと不本意な現在に甘んじなさいと言っているように聴こえるかもしれません。実はまったくそんなことはありません。

白か黒かで考えたくなるのは思考の悪い癖です。

私は「人生をゴールから逆算して、自分を追い詰めるような生き方をそろそろやめてみませんか?」と提案したいだけです。

理想のゴールを描き、目標を立て、計画を作り、必要なことを洗い出して優先度をつけ、次にやることを逆算で決める以外、うまいやり方を思いつかないということもあるかもしれません。

実はそんなに難しい話ではないのです。幼いころは逆算なんてしなかったはずです。理論的には、逆算の努力をやめれば良いだけです。

最初、私は「あなたの人生にはどれほどの価値があるのですか?」という問いに答えたくて逆算をはじめました。今ならよく分かります。これは問い自体が無意味なのです。なぜなら、私たち人生は完全無欠で、無条件に価値があるからです。ここに疑いの余地はありません。

逆算は方向性を決めて一歩前へ進むために役立つという話もしました、しかし、方向性を決めて一歩前に進むためにはそれほど大それたことは必要ありません。「逆算」の努力さえやめれば、一歩踏み出すのは簡単です。歩き始めるために必要なのは目的地ではありません。バランスを崩すことです。

「しかし、それで本当にうまくいくのでしょうか?」と疑問に思うかもしれません。ゴールも決めず、目標も立てず、計画も作らずにどれだけのことが達成できるのかと。

心配は無用です。それどころか、逆算していたころよりずっと多くのことを成し遂げられると驚くはずです。その理由は「自分を追い詰めることによるダメージがなくなること」が1つ。

それ以上に輪をかけて大事なことがあります。

私が逆算でものごとを進めていたとき、中にはうまくいったものがありましたが「たまたま運が良かっただけだった」と最初にお話したのを覚えていますでしょうか。運が良い!これこそがなにかものごとを成し遂げる、最も偉大なパワーではありませんか?

私の言うことが信じられないようでしたら、偉人や成功者と呼ばれる人の伝記を1つか2つ読んでみてください。そこには「適切なゴールを決めて目標を立て、計画にもとづいて日々精進することだ」などとは書かれていないはずです。

それより「運が良かった」「偶然が重なった」「思いもよらなかった」「予想外だった」「自分だけではとてもなし得なかった」といった言葉が踊っているはずです。(もしそうでない場合、謙虚さに欠けている点で真の成功者とはいえないため、別の伝記を手にとってください)

では、どうすれば運をよくすることができるのでしょうか。

「逆算」せずにものごとに取り組むアプローチを我々は「順算」と呼んでいます。私はこれを「運が良くなる方法」だと思っています。

具体的な方法論は、この記事が掲載されているnoteマガジン「ユタカジン」に100以上の記事が掲載されていますので、そちらを読んでもらうと良いでしょう。

また、今週末にはまさにこの記事で書かれていることをテーマとした「ユタカジンLive」というオンラインイベントも開催します。ご興味あればぜひこちらにもいらしてください🔥

貴下の従順なる下僕 松崎より

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