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プラトニック・ライフ どう生きたいですか?


どんな人生を歩みたいですか?

どんな人間になりたいですか?

「お金持ちになったり、大成功させたい」
「もっと楽しく、好きなことだけして生きたい」
「ステキな家族や仲間に囲まれて過ごしたい」

人それぞれ、いろいろあると思います。


僕の場合は、
少し変わっているかもしれません。

『善い人間』になりたいです。

『善』
①正しい。道徳にかなった。
②立派な。すぐれた。

岩波国語辞典 第七版より引用

道徳的に正しく、立派な人
究極の“いい人”
それも“純粋”で“完全”に、、、

そんなイメージでしょうか?


道徳の教科書的で、眉をひそめるかもしれません。
意識高い系的で笑っちゃうかもしれません。

僕自身もそう思います。


けれど、それでも

『純粋な善』

を目指して生きていきたいのです。



『純粋な善』


『純粋な善』とは
裏表のない、偽りのない、完全な『善』です。

「人に好かれたい」
「みんなに褒められたい、承認されたい」
「モテたい、尊敬されたい」

そんな不純?な動機や目的をもたず、
理由なく、
無条件に“いいこと”ができる人です。

無理難題な理想主義ですね。



『偽善①』


それって、どう考えたってムリじゃない?

そう思います。

どうしたって、
必ず『偽善』になると思います。


たとえば、
お金持ちでない僕は、
できるだけ安い買い物をするんです。

でも、
その買ったものって、
ひどいブラック企業でつくられたものかもしれません。
貧しい国の人が奴隷のように使われてできたものかもしれません。

でも僕は生活のため買います。
その安さの背景をなんとなく感じながら、、、


「純粋な助け合いだけだったらいいな」
と思います。

けれど、
誰かの犠牲や我慢なしにこの生活は成り立たないんです。



『偽善②』


また、

「人にもっと認められたい」
「いい人って思われたい、ほめられたい」

とか

「“善い自分”に酔いたい」
「自信のなさを埋め合わせたい」

そんな思いがこころの中にあります。
むしろ、そっちの方が大きいと思います。


それに、
自分の守るため、利益を得るため、
言い訳や嘘やごまかしをしてしまうことも多いです。



”あえて”『純粋な善』をめざす


生活のため、
『完全な善』とはほど遠い行動をしています。

自己満足のため、
『純粋な善』からほど遠い動機を持っています。

生きるとは、そういうことだと思うんです。
生きていると、どうしても『偽善』になってしまうんです。

そうでないと、生きていけない、、、

でも、
それでも、

『純粋な善』を目指したいんだ。

けっしてたどり着けないとわかっていても、
どんなに『偽善』にしかならなくても。。。



生きることは回転運動


人生って、
ゴールを目指すものではないと思います。
目標となるマイルストーンはあるかもしれません。
けれど、
それは人生の目的ではないと思っています。

やっぱり僕は、人生で『善』をめざしたい

だけど、
『善』は決してたどりつけないゴールです。


楽しんで生活したり、
それどころかただ生きるだけでも、
『純粋な善』からは、遠ざかってしまいます。

生きること、
楽しむことに必死になりすぎると、
めざすべき『善』が見えなくなっていきます。


だから、『善』を忘れないように、
いつも思い出さないといけないのです。
できるだけ、『善』を心がけて、めざしていくんです。

でも、
『善』をめざすほど、
偽善をすることになるし、生きづらくなってしまう、、、


人生は、その繰り返しです。
それでもいい。
それしかないと思います。


人生は、
『純粋な善』をめざすことと、
『偽善で生活』することの繰り返しだと思うのです。

『善』と『偽善』の回転運動です。



どう生きたいですか?


『純粋な善』と『偽善』

まるで、
メリーゴーランドのようであり、シーソーゲームでもあります。
行ったり来たり、、、


けれど、
メリーゴーランドやシーソーの軸は動きませんが、
人生の軸は、すこしでも『純粋な善』に近づけたいと思っています。


けっしてたどりつけない幻のゴール。
だけれども、“あえて”その幻のゴールに近づこうと願うのが人生。


こんな考え、ちょっと変わっているかもしれません。



よくわからない話しでしたが、お付き合いいただきありがとうございました。

皆さまはどんな人生を歩んでいきたいですか?




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(またしても?)読まなくてもいい追記。

もちろん、反対意見もあっていい。
人生は、ただ楽しむだけでいい。
よく分らん『善』なんて、信じない、意味ないって人もいていいと思う。

『純粋な善』をめざす人たちだけの世の中だったら、とても退屈でつまらない世の中だと思う。

みんなが『純粋な善』をめざすって、それは全体主義だ。
全体主義の悲劇を僕たちは知っている。

もし、もし、全体主義がうまくいくとしたら、
全世界の人が、いやすべての生物が、いや全宇宙が同じ『善』をめざしているときだけだ。
全体主義では、少しでも『善』とずれてしまうと、悲劇が生まれる。
だから、
反対者がいたほうがいい。

ただ、
もう少し、
『純粋な善』をめざす人が多くなれば、世の中良くなるんじゃないかな。
それも窮屈かな?

僕たちは不完全な世界を生きるしかないんだ。
それを覚悟するしかない。

それに、
『純粋な善』なんて、
人間には見ることも、到達することも、理解すらできない。
それをプラトンは『イデア』と呼んだ。

『善のイデア』 
『純粋で本質的な善』
決して、理解も到達もできない

けれど、
なんとなく、“感じる”ことはできると思う。
ほんのり、わずかに、その『善のイデア』の面影を“感じる”ことはできる。
だから、
人は、なんとなく「善く生きよう」と思う。

こんなプラトニック(純粋)な人生は、それこそキレイゴト。
でも、それこそロマンティックなんだ。




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