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クローゼット制服化への道=自分の歴史を振り返る
母のこと
母は美人顔だったと思うが、残念ながら「センスのある人」ではない。
今は黒いワンピースばかり着ている。
大きなウォークインクローゼットにうんざりするくらいの服が詰まっているけれど、私から見たらどれも似たり寄ったりの、適当な価格の服が並んでいる感じ。
そして結局のところ数枚のワンピースしか着ているのを見たことがない。
靴も黒い靴ばかり40足以上はあるけれど、稼働しているのもほぼ数足(笑)
クローゼット制服化への道=一目惚れした服と共に生きるという決意
あきやさん、ありがとうございます
二冊のご著書とオンラインセミナーを拝聴して本当に良かった、その一言です。
ゴールのイメージができたことでこれまでの失敗もうまく行ったと思えた行動も全て言語化してつなげられるような気がします。
ファッションの言語化、この素晴らしい概念と哲学に感謝です。
そして自身の変化を順番に発信していきます。
物欲の炎が鎮火し始める
長年私を悩ませていた物欲の炎が、少しずつ
同居解消のため物件を見に行く
物件チェック
賃貸の条件を入力して、抽出された物件をチェックする。
・3LDK以上
・70平米以上
・駅から徒歩10分以内
外せないのはこの三つ。
私は本当は家にこだわりが強く、内装の色味とか間取りとか選び出したらキリがない。ただ新しい暮らしをイメージして金額関係なく物件を見ているのはとても楽しい。その家に暮らしたらどんな感じかなとか想像しているだけでもワクワクする。
ちなみに夫は私よりも度
同居で苛立つこと3選(食事)
食費負担の偏り
母がたまに買い物に行く時に「何か買ってきましょうか」と定形文を聞いてくる。
なぜこれが私の苛立ちになるかというと、もし料理する気があるなら自分でメニューを考えてそれに合わせて買って来ればいいだけだからだ。私に聞く必要がない。
現在は私が90%以上食事を作っている。
食事というのは、基本は一週間の晩御飯と、休日の昼食。
母のことが無理になってからは、キッチンに一緒に立ちたくない
愛しているけれど嫌い
これは今の私の両親に対する思い。
幼い頃は、本当に両親を愛していた。
パパとママ
どちらも大好きだった
できれば二人に幸せになってほしかったし
二人に笑っていてほしかったし
二人で仲良くしてほしかった
ぜーんぶ叶わなかった
重苦しい空気も
両親がお互いにぶつけ合う嫌悪と
憎悪の感情も
私はリトマス紙のように全部吸収した
今はもう思い出せない
きっとその時の記憶は自分の奥深底に沈めてしまった
家族のゆくえは金しだい
お金に関する思い出
幼少期、両親はお金のことで揉めていた。
父は結婚当初広告代理店勤務、母は自動車のキャンペーンモデル。
昔の写真には、若い父と母が寄り添って笑っている。
母の父親は代々医者家系、母の母親は当然ながら医者との結婚を勧めたが、それを押し切って結婚した。
父はサラリーマンだったが、無類の料理好き。
会社帰りに調理師学校に通っていた。サラリーマン全盛時代に、残業や周りに合わせることな
同居を受け入れるためのマインド
家政婦だと割り切る
現在母親に対しても、愛情などないし、
嫌悪感しかない。
事象を分解して、個々に感謝することはあるけど。
頭でその作業してる時点で結構終わってる苦笑
父親と同じで、母親も自業自得の人生というか
こうして子供が離れるのも仕方ないと思える。
私は自分の気持ちを犠牲にしてまで
親孝行したいとも思えなくなった。
子どもの頃は理不尽な親でも愛せていたけれど、
大人になり、目が覚めれ
なぜ同居したんだろう③
この同居が決定的にキツくなったのは
私が次女を失ったことだったと思う。
この同居は元気な赤ちゃんが産まれていれば
私もここまで嫌悪感を抱かず同居を継続できていただろう。
条件付けでしか愛せない人だから、普通でない子を受け入れるということは
そもそも期待できないことなんだなと思う。
悲しいけどね。
本性がそうなんだって思い知ったから
私は母親に嫌悪感しかない。
まあ自分のことはもういいかな、
なぜ同居したんだろう②
最初にうまくいかなくなったのは、コロナが始まったから。
コロナ観が違う。
私はコロナに対して、インフルエンザと同じ感覚しかない。
かかるときはかかる。
でも死にはしない。
我が家で最初にかかったのは夫だった。
母は完全にバイ菌扱い。
部屋から出ないようにと強要する。
仕方ないと夫はそれに従っていたが、問題になったのは逆に母がかかったときだ。
自分が罹ったときは
「大丈夫よ」と言ってなかなか検査に
なぜ同居したんだろう①
同居したのは三年前。
私は父の遺したローンの残ったマンション。
母は徒歩十分ほどのところのマンション。
今思えばその距離が必要だったのだ。
たまたま見てしまったマンションの中古情報。
築三十年だが私の理想の景色を持っていたマンションだった。
公園が目の前にあってリビングから緑が広がっている。
広くて高い笑
私も打算もあって、なんとなく持ちかけた話がトントンと進んで、その部屋に母と住むことになっ
母が私に遺してくれたもの
これをきっと叶わない願いというのだろう。
何度も願い、何度も絶望して、ようやく受け入れる。
無理だったということを。
(サバイバーだったら涙が出るくらい共感する。)
捨てるというところに至るまでに何十年とかかるのに、その先自らの再生のための物語をまた紡いでいく必要がある。
それはエピローグのようなもので、結末はハッピーエンドだと私はなぜか確信している。
傷は治るかもしれないけれど、消えない。
残念な家族(母のこと)
有難い存在だけど安らげる存在ではない
今母のことをどう感じているかと聞かれたらこう答える。
二週間前に私は我が子を見送った。
そして今母娘関係に綻びが出ている。
綻びのきっかけは、沖縄旅行だった。
私が長女のために8月末に沖縄行きを計画して昨日予約したことから始まった。
予約数日前に母に旅行の計画をしていることは伝えていたし
今回は主人と娘と3人で行きたかった。
それなのに孫娘から沖縄行き話