母が私に遺してくれたもの
これをきっと叶わない願いというのだろう。
何度も願い、何度も絶望して、ようやく受け入れる。
無理だったということを。
(サバイバーだったら涙が出るくらい共感する。)
捨てるというところに至るまでに何十年とかかるのに、その先自らの再生のための物語をまた紡いでいく必要がある。
それはエピローグのようなもので、結末はハッピーエンドだと私はなぜか確信している。
傷は治るかもしれないけれど、消えない。
何度も何度も傷が開いて、傷んで、苦しむ。
傷のある自分を受け入れられなかったからこそ苦しんだけれど、きっと長い歳月が変化をもたらしてくれる。
私に傷をつけたのが、親だとするなら
そんな傷を持っている私を愛してくれる人もいる。
傷のある自分を自分が受け入れられるようにもなる。
頑張って生き抜いた自分を褒められるようにもなる。
ここまでよく頑張ったね
この本で私が新たに考えることができたのは
それでも母は私に何を遺してくれたのかという問い
著者は身体的・精神的・教育的虐待ののち、自分に遺されたものが「書く」という武器だったという。
この本を読んで、この世の中ってやっぱり善悪だけで判断できることはないんだなと仏教的なことを思う。
私が母から遺されたものってなんだろう。
私の場合は「美」かなと思う。
母はおそらく美人だったから。
私にとっては母ほど美人にはなれないと長年コンプレックスに感じていた部分だけれど、母との葛藤が終盤になるにつれ、「自分は自分で幸せになる」と覚悟もできるようになったし、自分の美しさについて花開くことができたのかなと思う。
もう母は歳を取り「昔は綺麗だったのね」という感じになった。
(その変化は私にとっても歳をとることの怖さにつながっているけれどそれはまた別記事で)
歳をとるっていうことは、もう生き方しか遺らない。
造形で誤魔化せる部分がなくなっていくからだと思う。
美しく在りたい
そんな母を見て私が決心していることは、
“昔は綺麗だったのに”
と言われない生き方をするということだ
うーんこれでは他人軸の評価かな
自分で自分を誇れるような生き方をしたい
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