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『映画 すみっコぐらし ツギハギ工場のふしぎなコ』における虚構と擬制の交錯:資本の自己増殖のキャラクター化から「お仕事アニメ」の欺瞞を考える

(2023年12月6日追記:エピグラフを追加しました。)
※本記事は『映画 すみっコぐらし ツギハギ工場のふしぎなコ』のネタバレを含みます。未鑑賞の方はご注意ください。

 労働者は、自分の生産する富が大きくなればなるほど、自分の生産活動の力と規模が大きくなればなるほど、みずからは貧しくなる。商品をたくさん作れば作るほど、かれ自身は安価な商品になる。物の世界の価値が高まるのに比例して、人間の世界の価値が低下していく。労働は商品を生産するだけではない。労働と労働者とを商品として生産する。商品生産が盛んになるにつれて、労働と労働者の商品化の度合いも大きくなる。

(カール・マルクス(長谷川宏訳)『経済学・哲学草稿』光文社古典新訳文庫、
2010年、91-92頁)

 人間にとって働くことが良いことか、それとも悪いことかという話題は、繰り返し再燃しては鎮火する、消えない火種である。この話題は、ときに世代間ギャップの指摘や老害/若者相互の指弾に派生し、ときに資本主義批判とそれに対する反共思想のバックラッシュとして顕現し、ひいては雇われ人の悲哀を強調しつつ、そこから脱出イグジットすること、すなわち不労所得によるFIRE(Financial Independence, Retire Early; 経済的自立と早期退職)の達成を通じて自由な生き方を手にすることを勧めるような甘言となって蔓延し、成功者の自己啓発的メッセージとそれに対する冷や水としての「弱者男性」的論議(いわゆる「キモくて金のないおっさん」問題)の拮抗にいたっていよいよ地獄の様相を呈し、床屋政談程度のライト層の離反を招いて、人々が日々の仕事に忙殺されるうちにやがて忘れられていく。

 この話題が何度もゼロベースで盛り上がるのは、ある程度の年齢に達した者にとっては働いている時間が人生のなかで最も多くの部分を占めており、そこで否応なしに生じる人間関係や仕事上の課題が心身に多大な影響を及ぼすからであろう。人は仕事上で顧客からは感謝されたり、上司からポジティブな評価を受けたり、何らかの課題達成に立ち会ったりしたとき、程度の差こそあれ喜びを感じるものであり、それは資本家による労働者の搾取、非正規雇用による労働市場の流動化、「やりがい搾取」や企業に対する忠誠心の強要といった問題とは位相を異にする。すなわち、労働は端的に悪だから根絶しなければならないというのも、働いて自己実現することは美しく、労働者の玉の汗には人間としての喜びが凝縮されているというのも両極端な考え方である。しかし、人はえてして極端なもののほうが理解しやすいから、易きに流れて複雑なものを単純化して受け取ろうとする。それゆえ、この両極端に照準を合わせた視聴者フレンドリーな作品が数多く生み出されることになる。本稿では、サンエックス株式会社が手掛けるキャラクターコンテンツ「すみっコぐらし」のアニメ映画第3弾にあたる『映画 すみっコぐらし ツギハギ工場のふしぎなコ』(2023年11月3日劇場公開、以下『ツギハギ工場のふしぎなコ』と略記)を主題に取り上げ、2023年10月から11月にかけて劇場公開された2つの「お仕事アニメ」と比較しながら、資本主義経済における労働/仕事について考えを巡らすことにする。

 『ツギハギ工場のふしぎなコ』は意外にも、同時期に上映されていた2つの「お仕事アニメ」――『北極百貨店のコンシェルジュさん』(2023年10月20日劇場公開、以下『北極百貨店』と略記)と『駒田蒸留所へようこそ』(2023年11月10日劇場公開、以下『駒田蒸留所』と略記)――よりもはるかに鋭く資本主義経済における「労働」の本質を言い当て、それによって「お仕事アニメ」のごまかしを際立たせていた。『ツギハギ工場のふしぎなコ』の美点は、親子が違った位相で楽しめる二重性に認められる。本作は労働を知らない子供にとっては、職業体験のように大人の世界を垣間見させる楽しい作品に映り、就労経験があったり労働問題に対する知識があったりする大人にとっては、労働の本質を剔抉てっけつする批評性に満ちたビターで憐れを誘う作品にも見える。後述するように、本作はすみっコというキャラクターに惹きつけられる視聴者に対して、人間には向き不向き/得手不得手があるが、それは人間の優劣とは関係がないということを教え、「咲ける場所で咲こう」、「あなたにも咲ける場所が必ずどこかにある」という激励のメッセージを伝えながらも、決して子供騙しや大人を現実逃避させる机上の空論にはとどまっていない。この絶妙な塩梅はすみっコぐらしというキャラクターコンテンツの特性にもとづいたものである。すみっコというキャラクターには逆接(「なのに」の関係)が多い。しろくまなのに寒さが苦手なコもいれば、とんかつなのに食べ残されてしまったコもいる。程度の差こそあれ、すみっコたちは何かしらの落伍者だったり、理想と現実のギャップに苦悩していたりする。このように「ちょっぴりネガティブだけど個性的」をセリングポイントとするすみっコぐらしだからこそ、「仕事」に関する前向きな側面のみならず、「労働」に関する暗く苛酷な実態を垣間見せることも可能となったのだ(*)。

(*)なお、これは良し悪しでもある。同時期に上映されていた『劇場版 シルバニアファミリー フレアからのおくりもの』(2023年11月23日劇場公開)のように、職能別・才能別に分節された者たちの自律的な連帯を力強く描き出すほうがよいときもある。しかしそうすると、個性や能力がはっきりせず、分節の厳しさに耐えられない者をコミュニティやメンバーシップから排除することになりかねない。民主政の源流とされる古代ギリシャの都市国家がいかに狭く矮小な規模で運営されていたかに思いを馳せるとき、一人一人の自律を前提とすることのハードルは現代においてますます高くなっていると言わざるをえない。自律と連帯を強調することは、社会的・経済的に成功していない者は努力が足りないのだとする通俗道徳の助長や、生存者バイアスを強化し大きな構造や制度的欠陥を問い直すことから目を背けさせる「現場プロフェッショナルロマン主義」(藤崎剛人の下掲記事を参照)の浸透に行き着き、結果的に制度的なセーフティネットを設けないことの言い訳となる可能性もあることには注意を要する。

 『ツギハギ工場のふしぎなコ』の物語は、しろくまの大切なぬいぐるみのボタンがひょんなことから森のほうへ転がってしまうところから始まる。すみっコたちはボタンを追いかけるうちに、森のはずれで打ち捨てられたツギハギだらけのおもちゃ工場を見つける。すみっコたちはボタンを探しておそるおそる工場に入り、誤って工場を再稼働させてしまう。すると、そこへくま工場長(本作のゲストキャラクター)が現れ、すみっコたちをおもちゃ作りに勧誘する。すみっコたちは職業体験学習さながらに、「面白そう」という動機から、各々の得意なことを活かしてぬいぐるみ作りに挑戦し、協力して一体のぬいぐるみを作り上げる。くま工場長は久々の工場稼働に感激し、翌日すみっコたちを正式に工場の従業員として迎えようとやってくる。くま工場長からいいところを褒められ、事実上言葉巧みに言いくるめられたすみっコたちは、おそろいの制服を与えられて、工場に住み込みで働くことになる。すみっコたちの工場勤務は朝の体操に始まる。すみっコたちは、朝礼でくま工場長から発表される目標数値(要はノルマ)を達成するため生産ラインに並び、自分の担当業務を反復して遂行する。とかげが布を裁断し、しろくまがミシンで布を縫い合わせ、ねこがぬいぐるみに綿を詰め、ぺんぎん?がぬいぐるみを検品し、最後にとんかつが梱包を担当する。こうして箱詰めされたおもちゃはトラックで町へ出荷されていく。一日の終わりにはくま工場長から今日のMVPが発表され、すみっコたちは工場に併設された豪華な食堂で食事を済ませ、与えられた清潔な部屋で翌日に備えて眠りにつくのだ。このサイクルは、くま工場長から課される目標数値が日に日に右肩上がりに増加することによって、徐々に苛酷さを増していくことになる。

 最初こそ、すみっコたちが工場で働く動機は「面白そう」という好奇心だった。あるいは、目を輝かせるくま工場長をもっと喜ばせたいという利他的な気持ちだったかもしれない。しかし、ひとたび工場が稼働し始めると、すみっコたちは分断されて持ち場につき、単調な作業をミスなく素早く繰り返すことを余儀なくされ、流れ作業のなかで少しずつ疎外されていく。すみっコたちはちょうど工場の部品や歯車のように、生産ラインを動かす要素として工場に組み込まれてしまう。ただし、ここで部品や歯車という比喩自体が直ちに人間性(すみっコ性?)の喪失というネガティブな意味を持つと考えるのは早計である。生産ラインは上流工程と下流工程を結びつけるひとつながりの流れであり、どこかが停止したりなくなったりすれば、全体の稼働が止まってしまう。そうだとすれば、部品や歯車は一つたりとも欠けることが許されないという意味で、全体を支持する個別を示すポジティブな比喩ともなりうる。したがって問題の本質は、労働そのものではなく資本の自己増殖、具体的には生産規模のエスカレーションに見出されなければならない。非熟練労働者は慣れによって、同じ時間内でより多くの業務を遂行できるようになる(経験曲線効果)。これは工場を運営する資本家の利害と一致する。工場はより多くの製品を効率よく生産し、売上高を伸ばすことを至上命題としている。そのため、労働者はより長い時間、よりせわしなく働くことを強いられる。だが、ちょうど部品や歯車が摩耗するように、労働者は少しずつ身も心も擦り減らし、生産数や業務効率はプラトーを迎えざるをえない。すみっコたちも心身の疲れから、事故につながりうる作業ミスを起こしたり、残業(時間外労働)をしてしまったりと工場勤務の弊害を受けるようになっていく。それでも、横ばいになった生産数を見て、くま工場長は「もっと つくらなきゃ」と焦る。生産されるおもちゃのラインナップはロボット、お人形、ミニカーといった具合に増え、生産規模のエスカレーションは止まらない。やがて、需給を度外視して過剰生産されたおもちゃが町にあふれ、「あそんで」と訴えかけては町の住民たちを困らせるようになる。すみっコたちは工場の稼働停止についてくま工場長と直談判しようと工場長室に乗り込むが、そこで衝撃の事実が明らかになる。なんと、くま工場長は抜け殻のぬいぐるみだったのである。それでは、くま工場長が文字どおりの傀儡だとして、この工場を動かしているのはいったい誰なのだろうか。実は工場を動かしていたのは、工場自身であった。本作の副題である「ツギハギ工場のふしぎなコ」における「の」という助詞は、連体修飾格ではなく主格または同格を意味していた。「ふしぎなコ」とはくま工場長ではなく、工場自身を指していたのである。

 工場が実は生きていたという筋書きは、たしかにビックリ要素ではあるけれども、割と素直な想像力の所産である。端的に言えば、工場というキャラクターは資本の自己増殖の権化である。工場が労働者すみっコたちを酷使して、生産過程を理論上無限に拡大させ、製品おもちゃに対して命を刻み込む様子は、資本主義経済の抗いがたい魔力を感じさせる。工場は労働者すみっコたちを自分の機関=器官(Organ)として、無機物から有機体へと飛躍を遂げた。すみっコたちがおもちゃに扮して工場を脱出すると、工場は手足を生やしてすみっコたちを追い回す。工場は悲しいような怒ったような表情を浮かべながら、「いかないで/おもちゃが/つくれなくなる/いかないで」と逃げるすみっコたちに訴えかける。この迫力あるチェイスシーンは、「法人」なるハコがあたかも生きている自然人のように行為の主体・客体となることに疑問を抱いていない現代人に対して、それがどれほど異常なことかを再認識させるとともに、法人という擬制フィクションに力を与え続ける盤面としての資本主義経済から逃れることの困難を強く印象づけている。

 これと比べて、『北極百貨店』や『駒田蒸留所』の労働観/仕事観は実にナイーブである。まず『北極百貨店』では、従業員は人間で、来店する顧客は動物という不思議な百貨店を舞台として、新米コンシェルジュ・秋乃(CV: 川井田夏海)の奮闘とそれを見守るマネージャーや先輩コンシェルジュの様子が描かれている。ここでは「お客様」の満足度とロイヤルティを高めることを至上命題とするマーケティング的な思考が従業員レベルで徹底的に内面化されることによって、北極百貨店という企業あるいは組織は意識にのぼりにくくなっている。秋乃が北極百貨店でコンシェルジュとして働くのはなぜか。それは賃金をもらって生計を立てるためではなく、第一義的には「お客様」に喜んでもらうためなのである。このナイーブな世界観は、北極百貨店があべこべの世界(mundus inversus)――動物を自分たちの欲望を満たすために狩り、ときに絶滅に追い込んだ人間をさかしまに動物に奉仕させるという懲罰的な空間――であることによって補強されている。北極百貨店での勤務が贖罪の性格を持っている以上、従業員と「お客様」の関係は無媒介であるほうが望ましい。その結果として、「お客様」に寄り添う意識が職場に醸成され、世代をこえて受け継がれていくことになる。『北極百貨店』における秋乃の奮闘は接客業に従事する視聴者を慰め、鼓舞することだろうが、その裏には経営・企業側の冷静な計算が控えていることを看過してはならない。北極百貨店は慈善事業ではないのだ。

 次に『駒田蒸留所』では、経営難に陥った家族経営の蒸留所を舞台として、震災で失われたウイスキー「KOMA」を復活させるため、日夜奮闘する若き女性社長・駒田琉生るい(CV: 早見沙織)と従業員の姿が描かれている。この作品の肝は、終始「志」(パーパス)が重視されているということだ。琉生が「KOMA」の復活にこだわるのは、「KOMA」が「家族の酒」だからである。琉生にとって、「KOMA」は家族団欒の記憶と密接不可分に結びついている。琉生は後継者の兄が父親と仲違いして出奔する前の、まだ父親が健在だった輝ける時代、もう二度と戻らないあの頃を取り戻したくて仕方ない。琉生がかよっていた大学を退学してまで蒸留所を継ぐことを決めたのは、「KOMA」によって家族の絆を再建したいという強い思い、すなわち「志」(パーパス)に突き動かされているからだ。この作品は徹底的に劇中から悪意を取り除くことによって、「志本主義」の経営を徹底させている。「志本主義」とは、経営学者の名和高司が考案した用語である。名和はカネに立脚した資本主義に代わって、ヒトに立脚し、「志」にもとづく経営が経済をリードする「志本主義」を提唱する。名和は2021年のインタビュー記事のなかで、「志」の定義について次のように述べている。

「ワクワク」「ならでは」「できる!」。この3つが、わたしが考える「志」の要件です。SDGsやESGのように世の中から規定されたルールにのっとるのではなく、自社が何をやりたいかをしっかり描く。そのためには社員や顧客が「ワクワク」し、自社「ならでは」のものでなければいけません。しかも、絵に描いた餅に終わるのではなく実践「できる!」ことも必須条件です。きれいごとでも独善的でもなく、人々の共感を呼び、なおかつ実践可能なこと。しっかりとした構想力を持ってユニークに描けること。それが「志」です。

 『駒田蒸留所』に話を戻すと、蒸留所の従業員は厳しい経営状態にもかかわらず、出勤日を減らしてまで琉生の「志」に賛同している。琉生の「志」は従業員のみならず、インターネットメディアの記事によってウイスキーファンにも広まり、震災で壊れたウイスキー蒸留設備を再建するためのクラウドファンディングは目標達成を果たす。さらに、琉生の「志」は、自分のやりたいことが見つからず、職を転々としてきた記者・高橋光太郎(CV: 小野賢章)をも感化する。光太郎の記事によって、世界中から「KOMA」の在庫ボトルや原酒が蒸留所に届くようになり、琉生のプロジェクトは大きく前進する。この作品はキャラクター同士の喧嘩や不和も仕事上のトラブルも「志」一本で解決してしまう。光太郎と琉生のすれ違いも、光太郎の投稿ミスによる酒造メーカーからのクレーム(記事削除依頼)も、駒田兄妹の確執もあっけなく解決されて、この作品はなんらわだかまりのない大団円――「KOMA」復活プロジェクトが成功を遂げ、光太郎は一人前の記者に成長するという結末――を迎える。この作品は視聴者に対して、偶然や成り行き任せで始めた仕事であっても、地道に続けるなかで何かしら意義を見出せるようになり、自分の糧になるものだという真っ当なことを伝えており、目の前の仕事に集中することで人生およびビジネスの打開策が見えてくるかもしれないという希望(悪く言えば気休め)を与えている。しかし、ここでは自己実現と結びついた「志」の称揚によっていわゆる「経営者目線」が内面化されており、多くの視聴者は被用者であるということが見えにくくなっている。たしかに、腹落ちするストーリーを物語ることは魅力的ではある。だが、自分が「志」を物語る側でなく、他人の「志」に振り回される側になる可能性も顧慮しなければならない。

 以上述べたように、『北極百貨店』と『駒田蒸留所』は別段奇をてらわない通俗的でナイーブな労働観念に沿っており、それゆえにマーケティングや経営学といった新興分野の知見とも折り合いがいい。そのことを踏まえると、工場自身が命を持って自律的に動き出すという『ツギハギ工場のふしぎなコ』の筋書きが、いかに資本主義経済における「労働」の本質を剔抉てっけつしていたかが際立つ。『北極百貨店』において、百貨店という建物・ハコが生き生きと動き出すことはない。『駒田蒸留所』において、蒸留所の蒸留設備がひとりでに稼働し続けることはない。『北極百貨店』も『駒田蒸留所』も組合という形態しか認められなかった時代の話ではない。それなのに、これらの作品においては法人という次元が十分に観念されることがなく、仕事に関する諸事が人間関係の網の目に還元されてしまう。ここに「お仕事アニメ」の欺瞞・限界が見え隠れする。我々は日頃から法人という擬制フィクションを信じているような顔をして、法人に所属したり、法人を相手方として取引を行ったりしている。しかし、法人は実体を持たない擬制フィクションであるから、あたかも人格を帯びた亡霊のように我々につきまとうだけで、容易に尻尾を掴ませない。我々は法人の何たるかを実際にはよく理解しないまま、法人という擬制フィクションが常態化した世界で働かされている。だからこそ、工場自身が生きているという筋書きを荒唐無稽に感じたり、工場自身が意思を持って自律的に稼働する様子にショックを受けたりするのである。そして、この自律性は言うまでもなく資本の自己増殖と軌を一にしている。今一度、人が資本主義経済という盤面のうえで右往左往することから逃れられないということに思いを馳せるべきである。

 『ツギハギ工場のふしぎなコ』における工場の半生は、早回しの産業革命史であった。数人の従業員で構成される家内工業の場として出発したおもちゃ工場は、資本の自己増殖を体現するかのように、売上の増加に伴って機械化と大規模化の道を辿ったが、やがて製品おもちゃが子供たちに売れなくなり、一人また一人と従業員が去って、廃業を余儀なくされた。しかし、工場は子供たちに笑顔を届けるために、数人の従業員が協働してくまのぬいぐるみ(くま工場長の素体)を作っていた導入期の思い出を大切に胸中――秘密の部屋のなか――にしまっていた。工場はただ家族や友達が欲しかっただけなのだが、おもちゃを生産するという目的に囚われるかぎり、従業員をリクルートして働かせるというコミュニケーションの方法しかとれない。工場はおもちゃを作れない自分には存在意義がないと嘆くが、本作ではそんな工場に対して、工場としての生き方に縛られる必要はない、別の生き方を自由に模索していいのだ、咲ける場所で咲こう、あなたにも咲ける場所が必ずどこかにあるというエールが送られている。この結論は、食べ残されたとんかつやえびふらいのしっぽを受け容れるようなすみっコぐらしの世界観ともマッチしており、その意味で非常に巧みである。物語の終盤において、しろくまが幼い頃から補修を重ねて大切にしてきたツギハギだらけのぬいぐるみが、工場が導入期に生産していたくまのぬいぐるみだったことが明かされ、工場の導入期の努力はとうとう報われる。工場はすみっコたちの「なかま」として迎え入れられ、すみっコたちの協力を得て様々な新しい仕事を試しながら、最終的に映画館として生まれ変わる。本作は幕切れに、工場はすみっコの町を後にしたけれど、いまもどこかでみんなを笑顔にしており、もしかしたらあなたの近くにいるかもしれないというメッセージをスクリーン越しに投げかける。本作は現代アートさながらに、本作を見るために観客が映画館に足を運ぶという構図の成立をもって作品として完成するという憎い趣向を凝らしていた。

 この結末がアニメ映画において描かれたということは、日本のアニメ(特にTVアニメ)がおもちゃを売るための販促番組という制約のなかで独特の発展を遂げてきたことを念頭に置くと、アニメ業界に関する自己言及的な面白さも感じさせる。現実の出来事に疲れ、傷ついた人にとって、虚構フィクションは一種の逃避先としてはたらく。したがって、主に虚構フィクションが上映される映画館は、現代のアジールと呼んでも差し支えないだろう。その映画館で『ツギハギ工場のふしぎなコ』というアニメ映画が上映され、その幕切れでいま視聴者あなたが座っている上映館がおもちゃ工場の生まれ変わりであることが示唆されるという図式は、アニメ自体が人口に膾炙して売れ筋の商品となったという時代の変化を思わせる。いまや、おもちゃが主でアニメが従という構造は自明のものではなくなり、アニメを記録したディスクやアニメを定額見放題で配信するサブスクリプションサービス、あるいは爆音上映・轟音上映・4K上映といった映画館ならではの付加価値をつけた上映チケットといった様々な商品および体験が幅広く売られるようになっている(ちなみに『ツギハギ工場のふしぎなコ』自体に関しても、観客の発声を許容する「応援上映」が行われている)。だが、『ツギハギ工場のふしぎなコ』は視聴者を「消費者」という特権的な地位に安住させることをよしとしない。何となれば、虚構フィクションを貪る大衆に虚構フィクションを届ける役割を担う映画館もまた亡霊のように人格を帯びた擬制フィクションであるという重層的な構造からは、人は社会生活を送るうえで「フィクション」から逃れられないのだという厳しいメッセージが静かに聞こえてくるからだ。人はマーケティング的な思考や経営者目線を内面化したとしても、労働者として資本の自己増殖に奉仕させられることから脱出イグジットするのは容易ではない。また、そんな酷な現実から目を背けるために虚構フィクションに耽溺しようとしても、現代の労働環境そのものが擬制的フィクティシャスなフレームワークに呑み込まれているという点は動かない。その意味で、工場労働における疎外および資本の自己増殖という古典的なテーマを取り上げた『ツギハギ工場のふしぎなコ』は温故知新の趣に満ちていた。本作は擬制フィクションは現実を変えうるアクチュアルな技術の一つであるということを、創意に富んだ虚構フィクションを通じて認識させる秀作であった。

 なお、本作は当初『映画 すみっコぐらし』の第1弾・第2弾に続き、井ノ原快彦本上まなみの二人がナレーションを担当する予定だったが、2023年10月12日の公式ニュースリリースにおいて、「本シリーズのコンテンツ特性と現状をふまえ総合的に判断」し、井ノ原によるナレーションを見送ることが発表された。ジャニー喜多川による性的虐待問題を受けて2023年10月2日に開かれた記者会見において、井ノ原(当時、株式会社ジャニーズアイランド代表取締役社長)は記者からの批判の声に対して、大人たちが揉めている様子をジャニーズJr.のタレントを含めて子供たちに見せたくないので落ち着いてほしい旨の発言をしていたが、結果的に自分が子供たちにもリーチできるアニメ映画のナレーションから外され、子供たちに見せられなくなってしまったのは皮肉なことである。仮に井ノ原が予定どおりにナレーションを務めていたとしたら、工場(とくま工場長)の哀愁がより際立つ結果となったのか、いまとなっては確かめようがない話とはいえ、興味は尽きない。

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