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TVアニメ『勇者、辞めます』における「甘え」の再評価:実存主義と「職場」の現象学のはざまで

はじめに

実存主義者がいうのは、卑劣漢は自分を卑劣漢にするのであり、英雄は自分を英雄にするのだということである。卑劣漢にとつては、卑劣漢でなくなる可能性が、英雄にとつては英雄であることをやめる可能性がかならずある。
――ジャン=ポール・サルトル『実存主義とはヒューマニズムである』

(伊吹武彦訳『サルトル全集 第13巻 実存主義とは何か』人文書院、1955年、51頁)

 2022年6月に放送が終了したTVアニメ『勇者、辞めます』は、西洋哲学的な実存主義(existentialisme)の過酷さを真正面から捉え、そこからの脱出経路を日本的な「職場」に求めた意欲作と言える。
 本作の主人公、レオ・デモンハート(CV: 小野賢章)は性格にこそ難はあれど、実力は折り紙付きの勇者である。レオは「王国騎士の称号を持ち、あらゆる武具に精通し、魔術師としても超一流」であり、聖都の「賢者の石」を求めて人間界へ侵攻してきた魔王軍をたったひとりで壊滅に追い込んだ。仲間との連携プレイをうだうだやっている暇があったら「俺ひとりで5回は世界救える」と豪語するレオは名実ともに人間界最強の勇者であり、もはや彼に匹敵する精鋭はいなかった。本作の物語は、そんな凄腕の勇者――たったひとりで魔王エキドナ(CV: 本渡楓)を打ち倒し、人間界に平和を取り戻した勇者――が再建中の魔王軍の採用面接を受けにやってくるところから始まる。当然ながら、レオは因縁の相手であるエキドナからにべもなく不採用を言い渡される。しかし、レオはそれでも諦めず、エキドナが右腕と頼む四天王に土下座までして、志望動機を聞いてほしいと懇願する。
 レオは別室に通され、魔王軍の採用面接を受けた理由を語りだす。たったひとりで魔王を打ち倒し、凱旋した勇者を迎えたのは「奇異と畏怖と猜疑心が入り混じった視線」だった、とレオは語る。次の魔王はレオなのではないか? レオは民衆からそのように危険視され、怪物のように扱われて、とうとう王から国外退去を命じられた。「世界が俺を殺そうというのなら、俺が世界を殺してやる」――レオは四天王にそう告げるのだった。志望動機を聞いた四天王はレオに一ヶ月の試用期間を与え、試用期間中に成果を出せればエキドナに正式採用を進言しようと約束する。こうしてレオは、エキドナの目を欺くため姿を変え、黒騎士オニキスという名で魔王軍の業務効率化に着手することになる。「これは、俺が魔王軍に入るまでの物語だ」というレオの独白をもって、レオの第二の人生が幕を開ける。
 本作は後述するように、勇者を人間(homme)ではなく技術的世界観に支配された物体(objet)として定義している。勇者は「悪しきものから人類を守れ」という至上命令に突き動かされており、その限りにおいて苦しみを感じずに済む。すなわち、勇者においては本質が実存に先立っている。しかし、ひとたび勇者に自我が芽生え、勇者以外の生き方の可能性が見えた途端、勇者は「実存は本質に先立つ」という人間の過酷な存在様式に陥り、自分の存在意義を求めてもがき苦しむことになる。そして重要なことに、勇者は苦悩に満ちた旅の果てに魔王軍という「職場」に辿り着き、そこで勇者であることを辞めるのだ。本稿では、レオが勇者を辞めるまでの過程を追いかけながら、実存主義的な意味で「自由の刑に処せられた」人間が過酷な責任の重みから癒やされるためには、親しい二者関係を前提とした「甘え」を取り戻す必要があるのではないかという提言を行う。さらに一歩進んで、経営学の知見も参考にしつつ、日本的な「職場」を「甘え」の場として再評価することのアクチュアリティについても提示する。

実存主義の過酷さ:サルトルにおける自由と責任

 侵略者との戦争が終わって平和が訪れれば、勇者は不要となる。それどころか、最も強大な戦力を保持する者として皆から恐れられ、疎んじられる。こうした発想は、勇者と魔王が衝突するRPGの構造に規定されている(ゲームソフトによって役柄の名称は異なるが、本稿では勇者と魔王で代表させる)。大抵の場合、RPGのゴールは魔王(ラスボス)を倒すことであり、その先に物語は続かない。サブクエストのようなやりこみ要素を除けば、一本道のシナリオを最後まで進めたところでゲームは行き詰まる。エンディングに到達したプレイヤーは一時的に達成感や感動に満たされるかもしれないが、その後に待っているのはゲームの終了、すなわちゲーム世界からの離脱である。プレイヤーは自分の分身として扱っていた勇者をいとも簡単に捨て、やがて忘れ去る。それと同時に、プレイヤーもプレイヤーであることをやめる。そのとき、プレイヤーから忘れられた勇者はどのような立場に置かれるのだろう。この問いに取り組むにあたって、本作はアンチRPGのようなメタフィクション構造を採用せず(*)、あくまで作品世界内に視野を限定する道を選んだ。それによって浮き彫りにされたのは、「自由の刑に処せられた」ことの途方もない厳しさであった。

(*)アンチRPGは、勇者を背後から操作するプレイヤーに着目することで、RPGの構造的限界に批判的な検討を加えている。1997年に発売されたPlayStation用ゲームソフト『moon』(2019年にNintendo Switchへ移植)では、実は勇者はきわめて暴力的で得体の知れない者として恐れられているという世界観が提示されている。武装した状態でマップ上を探索し、村人の居宅や所持品を物色しては強奪する勇者は冷静に考えれば異常そのものだが、プレイヤーはシナリオを改変できない以上、RPGの構造に同調するしかない。だとしたら、RPGなどやめるべきなのではないか。『moon』はそのような難問を投げかけている。2015年に発売されたPCゲーム『UNDERTALE』(2017年以降、各機種へ移植)では、より直截的に勇者の非倫理的行動が槍玉に挙げられている。『UNDERTALE』はRPGにおけるレベル(LV)を「暴力レベル」(level of violence)、経験値(EXP)を「処刑ポイント」(execution points)と解釈している。RPGの「お約束」に従ってレベルアップのために罪のない命を屠り続けるという残虐な行為に馴らされているプレイヤーはどうかしているのではないか。『UNDERTALE』は軽い気持ちでモンスターを狩ったプレイヤーを苛んでやまない。参考までにゲームライターの渡邉卓也の記事を掲げておく。

 本作の主人公、レオ・デモンハートは三千年前に科学技術の粋を集めて作られた生体兵器という設定になっている。三千年前、聖都が「東京」の名で呼ばれていたころ、ある日突然、東京の真ん中に空いた穴から魔族の人間界侵攻が始まった。人間と魔族の戦争が世界中に飛び火するなか、レオは魔族を狩るための生体兵器「デモンハートシリーズ」の第5号として生み出された(獅子座レオは4月から数えて5番目の黄道十二星座にあたる)。レオの開発コンセプトは「超成長」であり、彼は「交戦した相手のあらゆる能力を模倣し、無限に成長する」(第9話)。加えて、魔族の力を宿した自動成長型生体兵器、すなわち勇者は「悪しきものから人類を守れ」という至上命令を刻み込まれていた。「俺は生まれた瞬間から勇者で、それ以外の生き方は知らなかった」とレオは言う(第6話)。以下で詳述するように、こうした勇者の存在様式は人間の存在様式とは言い難い。
 哲学者のジャン=ポール・サルトル『実存主義とはヒューマニズムである』(L'existentialisme est un humanisme, 1946)という実存主義を擁護する著作のなかで、人間(homme)と物体(objet)の存在様式の違いに言及している。サルトルはペーパー・ナイフ(coupe-papier)を例に挙げて、次のように述べる。

 例えば書物とかペーパー・ナイフのような、造られた或る一つの物体を考えてみよう。この場合、この物体は、一つの概念を頭にえがいた職人によつて造られたものである。職人はペーパー・ナイフの概念にたより、またこの概念の一部をなす既存の製造技術――結局は一定の製造法――にたよつたわけである。従つてペーパー・ナイフは、或る仕方で造られる物体であると同時に、一方では一定の用途を持つてもいる。この物体が何に役立つかも知らずにペーパー・ナイフを造る人を考えることはできないのである。ゆえに、ペーパー・ナイフに関しては、本質――すなわちペーパー・ナイフを製造し、ペーパー・ナイフを定義しうるための製法や性質の全体――は、実存に先立つといえる。

(伊吹武彦訳『サルトル全集 第13巻 実存主義とは何か』人文書院、1955年、15-16頁)

 ペーパー・ナイフは紙を裁断するという用途のために設計・製造される。言い換えれば、ペーパー・ナイフはこの世に生み出される前から目的や使命を与えられており、「一種の技術的世界観」(une vision technique du monde)に支配されている(同書16頁)。この考え方に従えば、人類を守護するために生み出された生体兵器、すなわち勇者も本質が実存に先立っている物体オブジェに分類される。これに対して、「人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿をあらわし、そのあとで定義される」(同書19頁)。人間においては、物体オブジェとは異なって「実存は本質に先立つ」(l'existence précède l'essence)のである(同書15頁)。サルトルは次のように述べる。

人間は後になつてはじめて人間になるのであり、人間はみずからが造つたところのものになるのである。このように、人間の本性は存在しない。その本性を考える神が存在しないからである。人間は、みずからそう考えるところのものであるのみならず、みずから望むところのものであり、実存して後にみずから考えるところのもの、実存への飛躍の後にみずから望むところのもの、であるにすぎない。人間はみずから造るところのもの以外の何者でもない。

(同書19頁)

 別の言い方をすれば、「人間はまず、未来にむかつてみずからを投げるものであり、未来のなかにみずからを投企することを意識するものである」(同書20頁)。人間は物体オブジェとは異なり、目的や使命を与えられないまま生まれ落ちてしまう。だから、事後的に自分の生きる意味を模索し、自分の人生設計を主体的に組み上げ、未来の可能性に向かって自分を投げ込む(se projeter)ことを余儀なくされる。この自由な投企(projet)に関連して、サルトルは「人間は自由の刑に処せられている」(l'homme est condamné à être libre)と指摘する(同書32頁)。

刑に処せられているというのは、人間は自分自身を作つたのではないからであり、しかも一面において自由であるのは、ひとたび世界のなかに投げ出されたからには、人間は自分のなすこと一切について責任があるからである。

(同書32頁)

 サルトルにとって自由と責任は表裏一体である。人間は自由な投企を追求できる反面、過酷な責任の重荷に耐えなければならない。サルトルの実存主義のなかに「させられ体験」のような逃げ場はない。サルトルは遺伝的・社会的な決定論を退け、決然たる筆致で次のように述べる。

実存主義者は卑劣漢を描くとき、「この卑劣漢は彼の卑劣さに対して責任がある」というのである。彼は卑劣な心臓、肺臓、脳髄をもつているから卑劣なのではない。彼は生理的構造からそうなるのではなく、彼の行為によつて自分を卑劣漢につくり上げたからそうなのである。

(同書49頁)

もし人間が卑劣漢に生まれついているなら何も心配はいらない。それはどうしようもないことで、何をしようとも一生涯卑劣なのである。もし英雄に生まれついているなら、これまた何も心配はいらぬ。一生涯英雄である。英雄のように飲み、英雄のように食うであろう。

(同書50-51頁)

 サルトルが言うように、英雄に生まれついたことに疑問を抱かないあいだは、英雄は人間的な苦しみを感じずに済む。しかし、勇者に生まれついたレオは、機械文明が滅び去り、世界が魔術文明に席巻された後も生き残り、「デモンハートシリーズ」最後の一体として自我を獲得するにいたってしまった。レオは新たな魔王が現れて人間界が窮地に陥るたびに世界を救い続けたが、平和を取り戻した後の自分の存在意義に悩むようになっていく。「戦っているその瞬間だけ、君は生きていてもいいんだと、世界が証明してくれている気がした」(第11話)。だからこそ、国外退去を命じられて「生まれて初めての勇者を辞めるチャンス」が訪れたことが「嬉しかった」(第6話)。レオはそう語るが、アイデンティティ・クライシスは勇者を辞めただけで解消されるほど単純な問題ではない。
 レオがやがて「自由の刑に処せられる」であろうことは、彼の人生のかなり早い段階で予言されていた。レオが生まれて間もないうちに東京で出会った下級魔族のエイブラッド(CV: 平松広和)は、レオを「かわいそう」と評する。第8話におけるエイブラッドの言葉は、特定の目的や使命を持たずに生まれ落ちる人間の過酷さを巧みに言い当てている。

お前は明確な存在意義を背負って生まれてきてる。だからこそ、その存在意義を奪われた世界で生きなきゃいけないってことは、すごく……とてつもなく苦しいことだと思うんだよ。

無限に生きるお前は、無限に世界を救うんだろう。戦いのあいだだけ存在意義を得て、そして失っての繰り返しだ。たぶん、お前にはいつまでも安らぎが訪れない。最初に言った「かわいそう」ってのはそういう意味だ。

 それでは、人間が安らぎを得るためにはどうすればよいのだろうか。エイブラッドもこの問いに答えを出してくれない。エイブラッドは「苦しくなったら、他のことなんてぜーんぶほっぽって、逃げろ! つらくなったら、自分がやりたいことをやれ! 生体兵器だかなんだか知らんが、お前の人生、お前の好きに使え!」とか、「もし人類を守る必要がなくなったら、そのときはチャンスだ! 別の生きがいを見つけて、それで楽しく暮らせよ!」などとレオを激励する。しかし、そうはいっても、「やりたいこと」や「生きがい」を主体的に見つけて、自分の人生の舵取りをすることを強いられるのは過酷だと言わざるをえない。人間はそんな過酷な責任の重荷をひとりで担えるほど強くない。この袋小路から脱出するヒントはレオの真の志望動機に隠されている。レオは「世界が俺を殺そうというのなら、俺が世界を殺してやる」と四天王にうそぶいていたが、これは魔王軍に入り込むための建前にすぎなかった。レオの真意については、節を改めて分析を行う。

「甘ったれ」と「甘え」:土居健郎の所説から

 自我が芽生え、自分の存在意義に疑問を持つようになった勇者レオが魔王軍に興味を持ったのは、前線で指揮を取る魔王エキドナの「甘さ」を目の当たりにしたからであった。「侵略といえど、無駄な殺しは認めぬ」と厳命するエキドナは、これまでレオが打ち倒してきた歴代魔王とは異質の「甘さ」を備えていた。エキドナが聖都の「賢者の石」を求めて人間界へ侵攻したのは、人間界を支配するためではなく、「賢者の石」の力によって魔界を豊穣の大地に変え、混沌とした魔界に秩序を築くためであった。乏しい資源をめぐって魔族たちが争い続けている魔界に平和をもたらすこと、これこそエキドナの切実な願いであった(第4話)。本節ではレオの三千年にわたる孤独を癒やしたエキドナの「甘さ」、すなわち周囲の者を「甘え」させる傾向について検討を進める。
 精神医学者の土居健郎『「甘え」の構造』(1971年)において、「甘え」という日本語特有の語彙及びそれが指し示す普遍的心理について分析を加えている。本書に端を発する土居の一連の研究成果によって、「甘え」(amae)は国際的な学術用語となった。土居は「『甘え』今昔」(2007年)という短い文章のなかで、「甘え」の概念について端的に整理を行っている。この文章は土居の所説を理解する入門教材にふさわしい。

「甘え」は本来特別に親しい二者関係を前提とする。それこそ相手あっての「甘え」である。例えば、親子関係、夫婦関係、師弟関係、親しい友人関係などがそれに相当する。このような二者関係の中で一方が他方に甘えるというわけである。もちろん相互にかわりがわり甘えることもあり得る。

(土居健郎『「甘え」の構造〔増補普及版〕』弘文堂、2007年、2頁)

一方が相手は自分に対し好意を持っていることがわかっていて、それにふさわしく振舞うことが「甘える」ことなのである。ここで肝腎なのは相手の好意がわかっているということである。この「わかっている」というのは体験されて身に覚えがあるということであり、知的に認識されているということではない。

(同書4頁)

 土居は続けて、親しい二者関係を前提とする「甘え」が互いの好意を度外視した「甘やかし」や「甘ったれ」に取って代わられてしまったことに警鐘を鳴らす。

しかしこの理解が近年急速に失われてきたのではなかろうか。今や「甘え」といえば人々は一方的な「甘やかし」とかひとりよがりの「甘ったれ」のことしか考えなくなったのだ。

(同書3頁)

好意があると思わせたいかもしくはそう思いたいという意図があって、その結果として相手に「甘える」振りをさせることが「甘やかし」であり、または反対に自ら「甘える」振りをしてみせることが「甘ったれ」なのである。……「甘やかし」と「甘ったれ」は本来の「甘え」に似て非なるものと言わねばならぬ。

(同書4-5頁)

 ここで、土居の主著である『「甘え」の構造』に立ち返ると、1971年時点では「甘やかし」や「甘ったれ」といった現代の病理は前面に打ち出されておらず、むしろ「甘え」は幼児的依存のあらわれとして超克すべき対象となっていたことが読み取れる。

われわれは、日本精神の純粋さを誇ってばかりはいられないだろう。われわれはむしろこれから甘えを超克することにこそその目標をおかねばならぬのではなかろうか。それも禅的に主客未分の世界に回復することによってではなく、むしろ主客の発見、いいかえれば他者の発見によって甘えを超克せねばならないと考えられるのである。

(同書131頁)

 「他者の発見」によって「甘え」を超克するというとき、そこで理想的とみなされているのは「人間の権利とか尊厳などの観念と結びつき……個人の集団に対する優位性の根拠ともなる」西洋的自由の観念であった(同書133頁)。しかし、「甘え」を否定する西洋的自由の観念も、前節で述べたように「自由の刑に処せられた」独立独歩の人間像を生み出して、親しい二者関係から切り離された過酷な孤独をもたらしかねないという問題を抱えている。土居も三十余年を経てそのことに考えが及んだのか、「『甘え』今昔」においては「甘え」の再評価に転じている。

人間は誰しも独りでは生きられない。本来の意味で甘える相手が必要なのだ。自分が守られていると感じることができなければ、ただの「甘やかし」や「甘ったれ」だけでは、満足に生きられない。

(同書8頁)

 人間はひとりで生きていくにはあまりに脆弱である。だからこそ、周囲の人間を頼って、自分はここにいていいのだと互いに受け入れ合う親密な情動的コミュニケーションが必要なのだ。しかし、レオは三千年間、仲間もなくたったひとりで生きるほかなかった。レオは自分の存在意義が揺らぐたびに、自分の手で人類に滅亡の危機をもたらすというマッチポンプへの欲望にかられるようになり、自分が「世界を救うだけの永久機関」(第9話)に近づいていく恐怖を感じていた。「悪しきものから人類を守れ」という至上命令と自分が人類に災厄をもたらす「悪しきもの」になりつつあるという自覚が組み合わさったとき、レオの最後の旅、すなわち「滑稽極まりない自殺ショー」が幕を開けた(第11話)。レオは自分の後継者を探す過程で無用な略奪・破壊・殺戮を禁じる変わり者の魔王のことを知り、いったん勇者として魔王軍を撃滅した後、エキドナの適性を審査するために再建中の魔王軍の採用面接に赴いたのだった。
 四天王のはからいで魔王軍に潜入したレオは、黒騎士オニキスに扮して魔王軍の業務効率化に尽力し、エキドナから五人目の腹心の部下に迎えられるまでに出世を遂げる。ここでレオはエキドナに正体を明かし、「魔王エキドナが賢者の石を託すのにふさわしい存在なのかどうか見極めたかった」と告げる。実はエキドナの求める「賢者の石」とはレオの心臓に埋め込まれた古代機械文明の無限エネルギー機関「アカシックエンジン」のことであった。レオはエキドナと四天王に、「賢者の石が欲しければ、俺を殺して、心臓を抉り取れ」、「賢者の石が欲しければ、世界を守りたいならば、俺を止めてみせろ、勇者ども!」と言い放つ(第9話)。こうして勇者と魔王の立場は反転し、最後の戦いの幕が切って落とされる。
 「凝縮された三千年が俺のなかに詰まっている」と豪語するレオの圧倒的な力の前に、四天王は次々に傷つき倒れていく。万策尽きたエキドナは魔王に代々受け継がれてきた秘術・対勇者拘束呪「アンチレオ」をレオに放つ(第10話)。レオはこの起死回生の一手を回避せずに、悲しげな笑みを浮かべて受け止める。レオは勇者としての全能力を一時的に封じられ、四天王の一斉攻撃を受けてとうとう倒れ臥す。レオは自分の孤独な人生を回顧しつつ、次のように独白する(第11話)。

ひとりでできることなど、たかが知れている。だからこそ、自分以外の誰かを信じる――それが勇者に求められる、一番の素質なんだろう。その点、俺はダメだったな。勇者としては最悪だ。誰も信じられなかった。

勇者じゃない俺を認めてほしかったんだ。勇者じゃなくてもいいから、一緒に来い。私がお前を助けてやる。一言、誰かにそう言ってほしかったんだ。

 土居の定式に従えば、レオの依存心や承認欲求は「甘ったれ」と言うべきであろう。孤独なレオは「甘え」の基盤となる親しい二者関係を欠いている。レオは「甘える」相手を持たないからこそ「甘える」関係に密かに憧れていたのだ。そんな寄る辺ないレオにエキドナと四天王は手を差し伸べる。彼らはレオの心臓を抉り取ることを拒否し、レオを魔王軍に正式採用すると改めて通告する。エキドナはレオに語りかける。「賢者の石の持ち主として、三千年生きた唯一の存在として、魔界と人間界の和平特使になるがいい」、「我のもとで働きながら、今一度、勇者以外の生きる道を見つけるがいい」、「勇者を辞めて、我と一緒に来い」、「三千年の長きにわたる孤独は、ここで終わりだ」。レオはエキドナの手を取り、彼女の部下に加わる道を選ぶ。こうして、ようやく勇者であることを辞めたレオは、エキドナに次のように語る(第12話)。

お前は何よりも民の幸せを願える優しい王だ。優しいからこそ、お前は魔界の民を思って侵略戦争を仕掛け、優しいからこそ、人間界のことを考えすぎてしまった。だから俺に負けた。民思いの甘いやつだ。侵略にはとことん向かない。(中略)だが、俺はその甘さに救われた。俺に任せろ、エキドナ。お前がもう悪の侵略者にならなくて済むように、優しい王様のままでいられるように、お前を全力で支えてみせる。約束する。

 レオの応答には「甘い」・「甘さ」という言葉が含まれている。ここでもう一度、土居の主著である『「甘え」の構造』を参照して、エキドナの性質について整理しよう。

 日本語には甘えの心理を示すものとして、ただ「甘える」という一語だけが単独に存しているのではない。それ以外に多数の言葉が甘えの心理を表現している。まず「甘える」と語源を同じくするものからあげると、「甘い」という形容詞が、口にするものが甘いという以外に、AはBに甘いという時のように、人物の性質をあらわすために使われる場合がある。これはその人物がひとを甘えさせる傾向があるということを意味する。またこれとは別に、事の真相を把握していないという意味で、例えば見方が甘いという場合もある。それは当人が何かに甘えている結果であると考えてよいであろう。

(土居『「甘え」の構造〔増補普及版〕』、46頁)

 つまり、エキドナは周囲の者を「甘え」させる傾向にあり、本人もやや潔白な理想に「甘え」ていると言える。しかし、その「甘さ」によって「自由の刑に処せられた」孤独な勇者は救われた。レオは親しい二者関係を手に入れ、「甘え」を取り戻すことによって、自分の存在意義について思い悩む負のスパイラルから脱却することができたのだ。以上の経過に鑑みて、本作の眼目は「甘え」の再評価であると言えるだろう。

心理的安全性の向上:「職場」の現象学について

 とはいえ、本作において、レオが一足飛びにエキドナと心を通わせたわけではないことには注意を要する(エキドナがレオを一方的に「甘やかし」たわけではない)。レオはエキドナに自分の実績を認めさせるため、まずはエキドナが右腕と頼む四天王の信頼を得る必要があった。レオは黒騎士オニキスに扮して、四天王と同じ「職場」で働きながら、業務効率化の実績を上げていった。本作を分析するにあたって、このことは看過されるべきではない。本節では、「甘え」の基盤となる親しい二者関係が魔王城という「職場」で生まれた意義について検討を進める。
 中央大学ビジネススクールで研究科長を務める露木恵美子(2022年7月末現在)は近著『共に働くことの意味を問い直す:職場の現象学入門』(白桃書房、2022年)のなかで、日本語の「場」と同じ意味の英単語はないと述べている。英語のspace, place, fieldといった単語は物理的な空間・場所のみを示しており、そこには人と人との関係や感情・感覚は含まれていない。強いて言えば、relationship, momentum, atmosphereといった単語が日本語の「場」に近い意味を持っていると言える(『共に働くことの意味を問い直す』、39頁)。「職場」も人間関係や雰囲気を含んだ「場」の一つだが、そこでは形式知(explicit knowledge)を表現する言語的コミュニケーションと暗黙知(tacit knowledge)を伝える情動的コミュニケーションが同時に働いている(同書40-44頁)。だから、役職員同士で忌憚のない対話をするためには、何でも話せるような雰囲気・信頼関係の構築が必要となる(好意的な言葉とは裏腹にイライラした感情が伝わってくる相手に対して率直な意見は言いにくい)。こうした「皆が気兼ねなく意見を述べることができ、自分らしくいられる文化」を心理的安全性(psychological safety)という(同書116頁)。露木の著書では、心理的安全性の高い創造的な「職場」を作るために現象学の方法を学ぶことの重要性が強調されている。

 本作のターニング・ポイントとなる第5話と第6話では、現象学の方法の一つである判断停止エポケーが用いられている。判断停止エポケーとは端的に言えば「傾聴」の姿勢、すなわち「どんな話が出てきても否定せずにまずは聴く姿勢」、相手の話を無心に「聴ききること」である(同書80頁)。このエピソードで、レオは四天王の一人・無影将軍メルネス(CV: 内山夕実)のコミュニケーション能力を改善するという課題に挑む。無表情で口数の少ない暗殺者のメルネスは、魔王軍の面接官の役目をやり遂げられるか不安に思っていた。レオは接客のアルバイトでメルネスと一緒に身体を動かしながら、「黙って人の話を聴いておけ」、「会話は自分ひとりでするもんじゃない。相手の話に耳を傾けるのも立派な会話なんだ」と傾聴の重要性をメルネスに伝える。その後に行われた模擬面接において、メルネスは人類を滅ぼすために魔王軍に志願したというレオの口先の動機が偽りであることを見抜く。核心を突かれ、話をはぐらかそうとするレオに対して、メルネスは人間に裏切られた過去への共感を示しながら、「ちゃんと聴くから、ちゃんと話せ!」と感情をあらわにする。レオはメルネスの「真摯な姿勢」によって、もともと喋る予定のなかった長年の悩み――三千年にわたる孤独な彷徨の苦しみ――を生まれて初めて打ち明けてしまう。レオは傾聴の重要性を形式知としては理解していたが、暗黙知として体得するにはいたっていなかったのである。レオがメルネスに心を開く一連の流れは、まさに露木が強調する判断停止エポケーの効能をよく表している。

判断(の一時)停止の態度とは、自分の考えや判断はひとまず脇に置いておいて、相手の感覚の先に「何」があるのかに関心をもって、ひとまず受け入れ、排除しないということです。言葉になる手前の思いやモヤモヤ、感じていることが、言葉になるまで待つ態度です。相手が困っているのであれば、共に困り、共に悩む。その人が言葉として表現したいところに入っていきながら、共に感じるなかでふっと出てくるのを一緒に待つのです。
 また、相手の思いがうまく言葉にできるように、問いかけるということも大切です。うまい問いかけが呼び水となって、言葉が引き出されてくることもあります。

(同書169頁)

相手の話を聴いた瞬間に、自分の価値基準で「判断」してしまう習慣をちょっとやめて、まずは質問を通して真摯に問いかけてみてはどうでしょうか?

(同書120頁)

 他の四天王も三者三様に「職場」の強みを活かせていなかった。露木はリーダーとリーダーシップを区別して考え、「リーダーシップは、リーダー(という地位にある人)ではなくても、目標を達成するために何らかの影響を周囲に与えることにより、その集団のメンバーがそれぞれの立場で発揮できる」と主張する。露木はリーダーシップを「仕事を組み立て、進捗管理に注力する」タスク志向と「職場のメンバーの体調や感情の起伏に気を配り、チーム全体がうまく回るように立ち回る」メンテナンス志向の二つの要素が組み合わされたものと見ているが、タスク志向とメンテナンス志向を「一人の人が担う必要はない」(同書126-127頁)。露木が提唱するのは「『自分の職場は自分で変えるしかない』という意志をもつ人々が、目標を達成するように何らかの影響を互いに与えあう」という自律分散型のリーダーシップ、すなわち「場のリーダーシップ」である(同書134頁)。「職場」のメンバーが各々にリーダーシップを発揮できるようになれば、創造的な「職場」を共創する可能性も見えてくる。こうした観点から他の四天王の事例についても見てみよう。
 第2話では、レオは魔将軍シュティーナ(CV: 伊藤静)の業務量を削減するという課題に挑む。魔王軍の人材不足によって多くの仕事が管理職にも流れ込むようになり、責任感の強いシュティーナは採用活動から魔王城内の雑務にいたるまで膨大な業務に忙殺され、過労死寸前まで追い込まれていた。シュティーナの繁忙は「職場」における情動的コミュニケーションの質の悪さに起因していた。シュティーナが日々の激務に疲弊していることは誰の目にも明らかであったが、手助けを言い出せる雰囲気になかったため、部下のディアネット(CV: 鈴木みのり)は上司を心配してひとり悶々としていた。レオは現場に出向いてよく観察し、現場で働いている者たちと対話を重ね、自分自身で改善策を実践して周囲を巻き込むという「本当にできる」リーダーの振る舞いを見せて、「職場」における心理的安全性を向上させる(同書130-133頁を参照)。レオはシュティーナに仕事の極意を次のように語るが、彼の考え方は露木の提唱する「場のリーダーシップ」に限りなく近い。

仕事ってのはひとりでやるもんじゃない。色々なやつが所属してる組織の運用ならなおさらだ。スペックの高いやつが単独で頑張るよりも、凡人でもいいから、ひとりひとりが自分にできることをやる。それだけでだいたいの仕事はうまく運ぶもんさ。

 第3話では、レオは兵站任務を担当する獣将軍リリ(CV: 大和田仁美)の成長を支援するという課題に挑む。天真爛漫で子供っぽいリリは部下とうまく連携できず、業務の停滞によって魔王城内の物資や食糧は尽きかけていた。レオがリリを言葉が通じる相手じゃないと侮っていたのに対して、エキドナとシュティーナはリリの伸びしろを信じて待っていた。ここでは「手放す」、「待つ」、「コントロールしない」、すなわち「場に任せる」ことが選ばれている(同書165頁)。最終的には、レオが仮病で一芝居打ったことがきっかけとなり、リリは部下と連携して業務改善を実現させることができた。露木は創造的な「職場」を実現するためには「本当に切実な思い」があることが必要と述べているが、まさしくリリの事例はこの指摘に当てはまるように思える。

 職場において、本当に解決すべき課題があるとき、あるいは、自分たちの将来を左右するような切羽詰まった状況におかれたとき、誰もがその課題や状況に向き合わざるをえなくなります。もちろん、一人で悩んでいても埒があかないので、人に聞いたり、話し合ったりする必要がでてきます。そこでの対話や行動を通して、徐々に自分たちが向き合うべき課題や状況の内容がはっきりしてきます。「本当の問いは何か」が明らかになってくるのです。

(同書166-167頁)

 第7話では、レオは竜将軍エドヴァルト(CV: 稲田徹)に前述のメンテナンス志向を意識させるという課題に挑む。エドヴァルトは「自分が強い分、他人にも同じレベルを要求してしまう」という欠点を抱えていた。自分ができるのだから、相手もできて当然だし、できないとしたら当人の努力不足だという思考に支配されたエドヴァルトは、魔獣に敗退した新米兵士たちにきつく当たってしまう。このモラハラじみた自己責任論の展開は、自分のヴィジョンを押しつけるだけで対話ができないという「仕事ができる」リーダーの失敗事例に当てはまる(同書128-129頁)。レオはエドヴァルトの娘・ジェリエッタ(CV: 松岡美里)の相談を受けて、機械文明時代の遺産・マシンゴーレムを発掘してエドヴァルトにぶつける策に出る。見たことのない強大な敵に苦戦するエドヴァルトに対して、レオは「努力不足」の言葉をそっくりそのまま返してやる。かかる茶番の末に、ジェリエッタは父の前で次のように弁舌をふるう。

初めての仕事に手こずるのは当然のこと。初めて遭遇する相手のことを知らないのは、当たり前のことです! だからこそ、自分にできることは他人にもできて当然だなんて、考えてはいけないのです。どんな些細なことでも、他人に一から教え、知識と技術を丁寧に伝承していく。人を育てるなら、それこそが重要なのではないでしょうか。

 エドヴァルトは娘の言葉に胸を打たれ、タスク志向に凝り固まってメンテナンス志向の重要性に気づいていなかった自分を恥じる。エドヴァルトは「上司としての努力が足りていなかったのは、俺のほうだった。本当にすまない」と新米兵士たちに頭を下げるのだった。
 畢竟、本作における業務効率化とは、業務マニュアル化の徹底や不要業務の削減、業務自動化施策ではなく、魔王軍を創造的な「職場」へと活性化させること、あるいは心理的安全性が高く保たれた強靭な「職場」を共創することを指している。繰り返しになるが、「職場」とは人間関係や雰囲気を含んだ「場」の一つであるから、レオと四天王が一緒に改善したのは人間関係や雰囲気だったということになる。また、「職場」を改善する過程で、レオが同僚の傾聴の姿勢、すなわち判断停止エポケーのおかげで積年の悩みを告白できたという副次的な効果も生じていた。そんな「職場」の元締めである魔王が「民思いの甘いやつ」だというのだから、改めて考えてみると、心理的安全性の高い「職場」は役職員が「甘え」を取り戻す場に発展する可能性を秘めていると言える。これは端的に日本的な「職場」の再評価であり、ありのままの自分を受け入れてくれる「職場」がきっとどこかにあるはずという白馬の王子様幻想、すなわち「甘ったれ」(及びその鏡像としての「甘やかし」)を捨てて、「甘え」を取り戻すまでとことん一箇所で働いてみろ、と奨励する考え方でもある。昨今、転職や副業はもはや珍しい事象ではなくなっているが、かかる流動的な環境で働いている人間が幸福を感じているのかについては大きく疑問が残る。もちろん、一箇所の「職場」で徹底的な試行錯誤を重ね、創造的な「職場」の共創に主体的に関わる姿勢を支持するのは、人間が残酷にも「自由の刑に処せられている」ことを肯定的に評価することでもある。だが、それは必ずしも孤独に耐えることや苦悩を甘受することを意味しない。何となれば、「職場」で心理的安全性を向上させる過程で「甘える」相手ができる可能性はゼロではないのだから。
 本作の最終回(第12話)は次のようなレオの独白をもって幕を閉じる。「これは、俺が魔王軍に入るまでの物語だ。勇者レオが、三千年前に作られた生体兵器が、古代の呪縛を断ち切って、前へ進む物語だ。大切な仲間を得た物語だ。信じられる友を得た物語だ。俺がようやく、勇者を辞められた物語だ」。「仲間」や「友」といったクサい言葉が「職場」のなかで引き出されたことの余韻を噛み締める――それも悪くない選択ではないだろうか。

おわりに

 リーダーシップを統率力に縮減せず、タスク志向とメンテナンス志向の二つの要素の組み合わせとみなす考え方は、マネジメント誌においても奇異な見解ではなくなっている。「リーダーシップの転換点」に関する特集が組まれた『DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー』2022年5月号を参照してみれば、そのことがすぐに読み取れる。元IBM最高人事責任者のダイアン・ガーソンとロンドン・ビジネススクール教授のリンダ・グラットンは、共著論文「リーダーシップの転換点:部下の管理監督から成長支援へ」(原題は“Managers Can’t Do It All”)のなかで、1990年頃から始まったイノベーションの波(リエンジニアリング、デジタル化、アジャイル化、フレキシブルワーク)が企業におけるマネジャーの役割を三つの点で劇的に変えてしまったと指摘している。

権力のシフトにより、マネジャーはチームメンバーの奉仕でチームの成功を得るのではなく、メンバーを成功に導くことを考えなくてはならなくなった。スキルのシフトにより、メンバーの業務の実行を監督するのではなく、メンバーのパフォーマンスを高めるためのコーチングが求められるようになった。そして、組織構造のシフトによって、より流動的な環境でリーダーシップを振るわなくてはならなくなった。

(ダイアン・ガーソン/リンダ・グラットン(池村千秋訳)「リーダーシップの転換点:部下の管理監督から成長支援へ」『DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー』2022年5月号、27-28頁)

 二人は共著論文のなかで、マネジャーの役職名を「ピープル・リーダー」に変更し、コーチングの強化やコミュニティ意識の醸成に着手したスタンダード・チャータード銀行の事例や、マネジャーの役職を「リーダー・オブ・ピープル」と「リーダー・オブ・ワーク」の二つに分割し、部下の成長支援と業務進捗管理を分掌したテルストラ社の事例を紹介している。これらの改革事例は「マネジャーが役割を果たすうえで、人間的な結び付きが重要だという認識を反映」した新しいマネジメントのモデルになりうる(同論文29頁)。
 本作の第7話において、レオは「正しい教育方法を学んだいい戦士は、実にいい上司になるものだ」と語っていた。マネジメントにおけるコーチングの重要性がますます強調されている現在、本作はかなり今風のメッセージを打ち出していると言うことができるのである。

参考文献

露木恵美子(山口一郎監修/柳田正芳編集)『共に働くことの意味を問い直す:職場の現象学入門』白桃書房、2022年。

土居健郎『「甘え」の構造〔増補普及版〕』弘文堂、2007年。

伊吹武彦訳『サルトル全集 第13巻 実存主義とは何か』人文書院、1955年。

『DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー』2022年5月号(第47巻第5号)、ダイヤモンド社、2022年。

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