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随筆(2022/10/16):覚悟を決めて、休み、冒険する_2.休むことも、覚悟の要る、一種の冒険である(ことがある)

2.じゃあ、満願成就の果てに、忙しくなくなったら、どう振舞うつもりか

前回は
「仕事が忙しいということは、しばしばあることだ。
仕事残存量と気力残存量とを踏まえて、時に仕事を、時に休養を重視する。
そういうマインドで働いたり休んだりすると、バランスのいい働き方と休み方ができる」

という話をしました。

特に、繁忙期は、これで乗り切るのが最適解への道でしょう。
とはいえ、細かいバランスはもちろん自分自身で「仕事の方が重い」「気力の方が大事」など随時やっていかねばなりません。
そうして最適解に近似することができますし、一番得な状態に近づけます。

***

さて。
繁忙期の間はすっかり忘れてしまうのですが、繁忙期はしばしば終わるものです。
ずーっと働いていた人にとっては、長い長い間待ち望んできた、「休みたい時に休める」という状況です。

しかし、しばしば、そういう人は困り果ててしまいます。
「ずーっと働かせ続けてきて、休みなんかないという環境に馴れねば生き残れないようにしておいて、今更休め、だぁ?
自分の心身を自分の手で書き換えさせておいて、もう一度元通りに書き直せ、というの、ずいぶんと人を舐めた話だよなぁ?
穴掘って埋めろ、じゃねーんじゃコラ。
どうせ後で仕事ボンボコ振って来るんだろ?
その時にまたツライ思いしながら書き換えコストかけなきゃなんないんだろ?
誰がそんな穴掘って埋めるような無意味なコストなんか払うかよ。
仕事ボンボコ繁忙期モードに備えて、このままでいた方が、少なくとも日頃の仕事においてもはるかに能率は高い。
じゃあ、そうし続けるに決まってんだろうが」

これくらいキレてることがある。
意固地になってバリバリ働き続けることもある。
まあねえ。

3.考えもしなかったご褒美を、混乱して腐らせたり、地べたに叩きつけたりしてはいけない

3_1.ここでも「天秤にかける」マインドは依然として重要である

しかしこれは、少なくとも2つの意味でマズイことをしています。

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1つ。
これはバランスを取るという意味の管理からかけ離れています。

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「繁忙期向けに自分を書き換える」「閑散期向けに自分を書き換える」ことで、2種類の異なる書き換えがあります。
もちろんそれぞれの書き換えはそれぞれのコストがかかります。

***

でも、「閑散期向けに自分を書き換えたコスト」「繁忙期になった時にもう一度自分を書き換えるコスト」を足して、それが途方もなく大きく見えた時に。
「閑散期に休みたい時に休むことで回復するリソース」が、これを上回るか下回るか、そこはちゃんと吟味した方がいいでしょうね。
(特に、最初の数ヶ月、最初の数年のうちは、体験に乏しいので、やらないと分かりようがないはずです

かなりしばしば、回復したリソースの方が、明瞭に大きくなるはずです。

つまり?
それはそっくりそのまま、ずっと臨戦態勢にあった時に、持続的に損なわれるリソースと等価です。
損得勘定をしたら、「損である」という判定にしかならないやつです。
無駄なことで損をしたくないのなら、臨戦態勢を常時維持することで損なわれるリソース、これはこれで実際大いなる無駄であろう。という話にしかなり得ない訳です。

***

「リスク管理のため」
という理屈は一応立ちますが、実際には
「「繁忙期向けの書き換えと閑散期向けの書き換えの切り替え」
などというマインド自体がない。
だから、受け入れようがない。
当然、そこにまつわるコストの損得勘定も一切できなくなっている」

という状況の正当化になっていないでしょうか。

理解できなくても、検証してみて、
「あれ? できてた。
疲労回復の度合いも大きい。
じゃあ閑散期は臨戦態勢やんない方がいいな。
というか、やると損なのだな」
という体感が得られるか、得られないか、というのは大きなポイントです。
疲労感は、動物の脳に埋められた、大事な損得勘定のシグナル機能です。

***

「検証、めんどい」
というのはもちろん分かります。

ですが、このマインドがあって、休めて回復できて、繁忙期と閑散期がある長期戦を働けている人から見たら、
「ずっと臨戦態勢であるのが楽で、消耗はやむを得ない」
という例の姿勢は、もう数と量の面から見ただけで
「あっ。バカなんだ。
損得勘定すらできないぞコイツ。
想像力も冒険心も検証精神もない。
狭いフレームの中で必要最小限のことをするのが、なんか状況が変わった時に即死リスクである、という感覚すらない。
このままでは長期戦で消耗して潰れるのだが、まあ説得しても、マインドがないんだから理解に苦しむわな。
知らん知らん。ほっとこ」

くらいには非現実的な働き方をしているように見えています。

だって数と量の面で実際に損なんだもん。
そして、損か得かの検証を、
「狭いフレームの中で必要最小限のことをするのが一番損が少ない」
という、原始的でしかも
「なんか状況が変わった時に即死するリスクがある」
という危険性の高いマインドで、避けて通っている。

そうなんです。これ、危険なんですよ。
「広いフレームと多いリソース回復量で危機管理して安全になる」
という安定的なマインドが、実はある訳です。
起こり得るリスク、起きたら困る危険についての感覚はある。
しかし、いろんなモデルを比較検討して、「どちらがリスキーか、危険か」「あるいは安定的か、安全か」という判定をする発想自体がない。
そういうマインドを持っていない、あるいは持たされていない。
じゃあ、実際にはリスク管理や危機管理すらできていないから、リスクや危険を前にして太刀打ちできる訳がないのです。

(前半の記事で書いた、かけ算の順序問題も、これと似たような話です。
「掛け算に順序のある難しいパターンだけに慣れてしまえば良い」
という話、いかに
「切り替えを放棄して狭いフレームで全部やって必要最小限のコストで済ませられるか」
というお作法の中でしか意味がない。
人間社会では掛け算に順序のある単位のある問題と、そうでない問題が多々あるので、切り替えをコスト呼ばわりして切り捨てていたら、やっていけなくなる。あるいは、ものすごく手間がかかる。
やれなかったり、手間がかかったりすることは、できなかったり、できても途中のロスが大きかったりするという形で、当然だがをもたらす)

***

人事担当は、この辺は見ています。
だって長期戦に適性があるかどうかに効いてくるから。
これができていた方が、どう考えたって長期戦ではしぶとく生き残れるし、だから成果の蓄積も大きく、短期的にバリバリやって潰れるパーソンより、ある時点で貢献度が高くなる訳です。
より大きなフレームで、数と量の話をシビアにすると、こうなる。
むしろ、
「短期的にバリバリやる方が貢献度が高いに決まっている。潰れるリスクについては見ていない」
というマインドの人が、査定が低いの、まあそうだろうね。

俺もやんけ。
アホか?

3_2.考えもしなかったご褒美を、混乱して腐らせたり、地べたに叩きつけたりしてはいけない

もう1つ。
とても大事な話があります。
考えもしなかったご褒美を、混乱して腐らせたり、地べたに叩きつけたりしてはいけないのです。

***

管理側にとってはしばしば、閑散期の休養は、繁忙期で休養を与えられなかったことの埋め合わせも兼ねて与えられる、慰労、ご褒美、ある種の報酬です。
というか「休ませてやっただろう。何が不満なんだ」と言いたいがために、労働側に文句を言わせないための交換条件を意図していることもしばしばです。

これを「今更何だ」と混乱して休まなかったり、あるいは「今更何だ」と不快感を顕わにしたら、まあ管理側は
「なんや。そういう扱いをするんやったら、これ、報酬として、要らんのやな」
と判断しますよ。
何なら、後者をされた時点で、手袋を地べたに叩きつけて決闘を申し込む儀礼のように、そういう敵対行動として受け取るでしょうし、そうなれば労働環境は途方もなく険悪に、ストレスフルになります。
当然、疲労はえげつないことになってしまう。
回復は要らなくても、疲労が増えて欲しいとは一言も言ってないし、むしろ疲労が増えたらもちろん困るんだ。

だったら、もらったものをとりあえずはいただいてしゃぶり尽くすのが、しばしば最も適切な振る舞いでしょう。
出されたご飯は、ちゃんと食う。
(残すのも「そこまでお世話になっていいのだろうか。申し訳ないし有難いなあ」という礼儀の顕れの一つではあろうが)何も食わなかったり、出された飯に文句を言ったりすることは、そりゃあまあ、まずい。

***

(労働基準監督署の人にしてみれば、
「そんなことはない。これは権力側の温情ではなく、万人の人権であり、云々かんぬん」
と言いたくなるかもしれません。

おぞましい話をしますが、国際労働機関(ILO)発足よりかなり前、つまりそういう気風と制度が整っていなかった時に、この話をしたら、まあ一蹴されていたはずです。

(講学上特定の人権があるかどうかとは別の話として)特定の人権が現実に機能しているかどうかは、人権に期待されている性質、つまり「人間社会で現実に機能していること」を考えたら、決定的に重要な話です。
そしてそれは、そういう人権についての各主体の受容と合意が、ある範囲内の人間社会にあるかどうかによって、決定的に左右されます。
労働に関する諸人権「の受容と合意」は、歴史的に醸造された、教わらないと身につかないものです。
それを抜きにしたら、管理側の感覚は、どうしたって上のようなものになりがちです。

それに、そもそも、「そんな人権があると信じられる状況にないから、人権を毒饅頭だと確信している労働側」の話をしていたのでした。
これは人権擁護機関にとっては「人権擁護に現実として失敗している」ということの顕れに他ならず、もちろんまずい。
そして、そういう相手に
「そんなことはないです。これは人権です」
ということを言うなら、
「これは講学上実在する概念なんだ。分かってますか」
という偉そうな他人事のような態度を取るのではなく、
「これをあなたのいる範囲の人間社会において現実に機能できなかったことを、人権擁護機関は自分たちの重大な問題として認識する」
という真剣な態度でなければ、まあ
「夢みたいな寝言をダラダラとくっちゃべってんじゃねえ」
くらいの反発は当たり前でしょうね。
私も「自分は地方公僕としてそのくらい憎悪されている身である」という抜きがたい確信がありますし、だからそういう話をしている訳です)

4.休むことも、覚悟の要る、一種の冒険である(ことがある)

まあ、そんな訳で、
「状況によって損得勘定を働かせてその都度働いたり休んだりする」
「休みを受け入れる」
「閑散期の臨戦態勢解除と、再度の繁忙期の臨戦態勢再構築をやってみて、それが閑散期の回復量との兼ね合いで利害として見合うか吟味する」
この辺をやっていくことが、長期戦と査定の、ある種のコツです。

それは、
「狭いフレームの中で必要最小限のことをしてコスト最小限リスク無限をやるのではなく、冒険ではあるが、広いフレームと多いリソース回復量で危機管理して安全になるモードを構築する」
そして
「そういうマインドを、自分で試行錯誤して構築するか、教わるか、いずれかを問わないので、とにかく受け入れ、己に定着させる」
これらによってなし得るものです。

「広いフレームでやっていく」
「それは冒険であるが、やった後はむしろ大幅に安全になる」
「そういうマインドで、やっていきましょう」

以上です。

(終)

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