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随筆(2020/9/8):クソリアリスト、ストレスに死す(そんなやつのどこが適応的なんだ)6. 目利きと気晴らしで、見え方と見方を、両方拡張して、フィーバーモードになろう

6.目利きと気晴らしで、見え方と見方を、両方拡張して、フィーバーモードになろう

6_1.目利きが辛さをもたらす時は、また別の楽しいことをやろう。そういう気晴らしの手段を、いくつか持とう

この前は、
「現実世界は、実は抽象的なものによって、大部分が構成されている。
抽象的なものは、ふつうに生きているうちに、あちこちで顔を出すものだ。
なので、抽象的なものをバカにしないようにしよう。ちゃんと扱い方を学んで身に着けよう」

という話をしていたのでした。

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その一環で、想像力の話をしました。
想像力は、計画力の基礎とは言えないまでも、強く寄与するものである。
また、想像力は、非実在娯楽コンテンツによって、正のフィードバックで増強されるものでもある。
非実在娯楽コンテンツは、想像力を大きく育てて、間接的に計画力に効いて来るので、そういう形でちゃんと意味がある。

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今回は、これに加えて、気晴らしの話をしたいと思います。

現実への目利きが、自分の技能を超えた、どうにもならない問題を知覚してしまうと、人はふつう、参ってしまいます。
あるいは、現状八方塞がりで閉塞状態になっていることが分かり、どうにもならなかったら、やはり人は、参ってしまいます。
ただ単に、目利きがあり、現実が高解像度で見えるだけだと、実は人はしばしば参りがちになります。

そういうのに耐えられるのは、ある種の「耐えることに適性のある」真面目な人だけです。
しかも、耐えていられるからといって、状況を打破できるとも限らない。
ふつうは、そういう人達は真面目なので、耐える「と同時に」解決を試みているものです。
が、技能が不足していて、事態が閉塞しすぎていると、それも出来ないこともある。
こうなると、耐えれば耐えるほど、少なくともメンタルはメリメリと参っていく。

そう、表題の通り、「クソリアリスト、ストレスに死す」。そして、「そんなやつのどこが適応的なんだ」。

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とても困るのが、実はストレスでメンタルがやられていくと、目利きは一時的に落ちるんです。
永続的不可逆的に落ちるのかどうかは分かりませんが(前職を辞めてから、プログラミング、やってないからな。多分プログラマの技能も、それ以上に目利きも、極端に落ちているだろう)。

苦痛の感覚学習能力のある、精神を持つ者として考えたら、これは当たり前です。
何しろ、この場合は明らかに、見たら消耗するのにどうしても見てしまう、「嫌なのに何かやってしまう」強迫的行動と、見えさせてしまう目利きこそが、メンタルをヤる元になっているのだから。

精神を持つ者の適応を考えると、
「適応にとって有害な原因となっている能力を弱めれば、適応はしやすくなる」
というのは、それはまあその通りだ。

精神を持つ者の生物学的な歴史で、このようなザックリした手こそが、生き残りにおいて効き目があったのだろう。
楽であるということは、リソースが枯渇しない。ということだ。
高い思考コストや労力コストをかけて対策を取った後、リソースが枯渇して、そこでやられるやつらが続出する。
下手すると、「そこ」の状況は依然として悪いので、これを打破出来ず、ほぼ全滅することになる。
じゃあ、残って踏ん張るの、適応に反する訳だ。
それよりも、テキパキ逃げて、何割かはやられても何割かは生き残った方が、適応的ではあるだろう。

しかし、強迫的な執着注意力の副作用であり、目利き目の解像度である。
つまりはこの場合、注意力解像度そのものが丸ごと落ちる危険性がある訳だ。
苦痛を減らし、動けるようにする効果はあるかもしれないが、注意力や解像度がなければ泳いでいけない、ハードな生活をしている場合、これはその場で溺れる原因にもなる。

そういう時は逃避行動を取ればいいのだが、ふつうはそういう状況で逃げると、そこで積み上げてきたリソースを失うし、しばしば周囲からのペナルティがある。
「逃げた結果、何か大事なものを失うのは、あまりにも惜しいのではないか」
と一瞬でも思ってしまうと、なかなか逃げるのは難しい。

そもそも、
「注意力や解像度が落ちた時に、逃避行動を取ればいい」
という発想自体、ふつうはなかなかたどり着きづらいものだ。
何せ、注意力解像度落ちているんだから、そんな閃きホイホイとはやって来ないわな。
これは明らかに構造的な欠陥であり、嫌な成り行きなんだけど、しばしば、そんなダメな回路に、陥ることがある。

また、逃げた後、脳が「ここは安全な逃げ場だ」安心、「休んでいよう」という判断出来ないと、注意力解像度落ちたままになる。
だって、休もうとしないんだから。そんなことでは、回復なかなか難しいものがありますよ。
それに、強迫的な精神状態に陥り、責任感もあると、真面目な人はしばしば、「あれをやり残している。やんなきゃ」っつって、死地に戻っちゃうんだな。
ダメなんだって。負傷者が戦場にいるの、前線を混乱させるだけなんだって。
体力気力が、そして注意力解像度が、継戦可能な水準で回復しているのなら、まあいいさ。
そうでないなら、そういうの、やってちゃいかん。やめなきゃならん。

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ということで、実は、視野は、ストレスのせいで、狭くなることがある。
本当は、ストレスを減らして、視野を広げなければならない。

本格的に病的に視野が狭くなっている時は、ガッツリ休んで回復させるのがいい。
だが、そうなる前に、やれることがある。

何か。
ちょびっと休んで、今視野を持って行っている現実の問題から、別のものに目を逸らせることだ。
つまりは、気晴らしだ。

「問題から目を逸らすな。そういう不誠実なものの見方をするな。そんな在り方は退廃的な醜悪なものだ」?
何言ってんだ。その誠実価値と神聖価値の悪魔合体、非適応的なやつじゃんか。「そういうのが」ダメなんだってば。
いいか。それを見ていると、消耗するんだろ。
解決出来るんならいいが、出来てないんだから、消耗は、際限なく果てしなく続いていく。
見ていることが解決することに直接効くのなら、見るのは大事なことであろう。
だが、見ることよりも手を動かすことの比重が大きくなっているのなら。
その際に、目利き解像度要求水準がだいたい分かっていて、その要求水準を越えた目利きの解像度が、解決これ以上効いて来ない気配があるのなら。
じゃあ、それ以上睨んでても、しょうがないんだよな。

ということで、「問題から目を逸らさない」ことが、問題解決効いて来ないことがある。
それどころか、継戦能力損なう場合すらある。
そうなると、もう、「そういうのやめた方がいいですよ」という話にしかなりえないんだよな。

***

気晴らしは、二つの方法で、出来る。
一つは、「現実の、全く別のことをすること」。
もう一つは、「非実在娯楽コンテンツを視聴すること」だ。

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前者だと、スポーツジムで運動してサウナや水風呂や椅子寝をキメるとか、高山植物の生えている高山の風景を見に行くとか、あるいは全く別のジャンルの資料を読むとか、そういうのがある。
目利きがまだ活きているのなら、その体験はきっと、脳がシャキッとするような、素晴らしい光景を見せてくれることだろう。(初めて見るものだから、そこまで解像度は高くないであろうが)

また、おまけの話だが、気晴らしの過程で、その別ジャンルの中に、今まで見えていなかった解決法が、そこに転がっていることに、気付くこともある。
あまりそういう幸運に頼ってもいけないのだが、あったらそりゃあ是非もらっておきましょう。

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後者は、エモい映画でポロポロ泣くとか(恐ろしいことだが、「安全に痛い」ものを見て泣かされると、スッキリするんですよ)、尖ったギャグ漫画で腹筋が崩壊するほど笑うとか、そういうあれだ。
これらは、精神の基底的な、たいていは閉塞感で抑うつ的になっている気分を、ガリッと解放感で書き換えるという、ものすごい効果がある。
これをしてから問題解決に戻ると、自分が見ていた灰色の現実世界が、極彩色とまではいかなくても、色付きで見えてくるだろう。
見えなかった問題解決の手法が、そこに転がっていたことも、気付くかも知れない。

ただし、後者の場合、前者のように、「その気晴らしそのものの中に」「今まで見えていなかった解決法が、そこに転がっていることに、気付くこともある」といった、旨い話はない。
それは、願望には近いが、技能からは遠い。
だって、それは、何よりもまず、願望を満たすものだからだ。
問題解決の手段として、役立てていいものではない。そんなことを要求するの、お門違いもいいところだ。

あくまで、閉塞感のある精神状態を部分的にリセットする、気分転換だけに使うのがいいんでしょうね。

(ちなみに、ヘッダのピクセルアートアニメ"Final Re:Quest"は、現実で閉塞感で詰んでいて、猛烈に視野の狭くなっていた真の勇者に、非実在娯楽コンテンツの住人が、叱咤激励して目を開かせる、というオチです。
この場合、問題解決の特効薬も示してしまってはいるのだが、まあそれはそういう願望を満たす、めでたしめでたしのお話なので、まあ良いのです)

***

そんな訳で、気晴らしは、楽しい。
そういった気晴らしは、現実への目利きがもたらすこともあるし、そうではない可能的なものへの想像非実在娯楽コンテンツがもたらすこともある。

特に、前者が苦痛をもたらす時期に入って、それでも前者が惜しく、捨てられない時。
後者が依然として楽しいと、しばらくの間、人生は、「保ち」ます。

目利きが辛さをもたらす時は、また別の楽しいことをやろう。
そういう気晴らしの手段を、いくつか持とう。

いつか、また、前者がふつうに出来るようになるかも知れない。
そうしたらしめたものだ。再び、人生を、泳いでいくことが出来る。

前者が出来たからといって、後者が惜しくない訳ではない。
そこは、「何らかの価値あるものへの惜しみ」という意味では、全く同じ話だ。
後者は後者で、惜しむべき、価値あるものなんですよね

6_2.世界の見え方が目利きで広がるのと、自分の見方が気晴らしで広がるのと、両方やろう

そんな訳で、目利きとても大事だが、目利き自分の精神閉じさせるとき、目利きそのものどんどん利かなくなっていく。
世界の見え方目利き広がるが、自分の見方目利きやりすぎのせいで閉じることがありうる。ウワー! マジかよ! (マジです)

で、気晴らしは、自分の精神が、自分の見方閉じていくのに、抗う効果がある。
気晴らしをすると、自分の見方が、基底的な自分の精神が、広がることがある。

世界の見え方解像度が、自分の見方濁りのせいで、全体的には濁ることが、よくある。
両方くっきりと見えれば、非常に見えてくるし、問題関係もかなり容易くなる。

つまり?
世界の見え方が目利きで広がるのと、自分の見方が気晴らしで広がるのと、両方やろう。ということだ。
頑張りながら、合間合間に、息抜きをしていきましょう。

(次回最終回)
(多分)
(多分って何だよ。そこは言い切れよ)

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