見出し画像

令和デモクラシーへ

コロナ禍3年目、東京2020からもうすぐ1年、安倍元首相銃殺から1日。参院選投開票の前日に、民主主義をひいては多様性そのものを改めて見つめ直したく、朝起きてずっとこの文章を書いていた。新たな民主主義のアイディアを記したいと思う。

まずはこの3年間で病に命に奪われた方々、苦境のなか自ら命を絶ってしまった方々、安倍元首相、全ての方に心よりご冥福をお祈りいたします。

この3年間で生成された様々なご意見

ワクチン打つ、打たない問題

コロナワクチンを巡る論争はそれぞれの死生観や信念が混ざり合い、泥沼になっていた。ワクチン推進派は医療従事者を中心にエビデンスの取れたデータを信頼し、否定派は長期的な治験がされてない事や摂取後のごく一部の死亡例を槍玉に挙げた。一部にはコロナはただの風邪だから必要ないと認識する一派もいた。

ネット上には様々なソースが溢れた。各SNSや検索サイトはファクトチェックされた、あるいは厚労省など信頼に値するとされる機関が提示する情報の掲載順位を上げ、意見の分断はやがて事実vs陰謀論のような構造認識がなされいった。

そしてワクチン摂取率も加速度的に増加した。その背景には「みんな打ってるし私も打っておこう」という日本的行動原理の誘い風があったと思う。否定派はイベルメクチンというワクチンの代替案を信頼したが、それも科学的な臨床の上効果が認められないといくつも論文があがった。

しかしどちらが正しかった、という結論を出すのはもう少し先の話になる。mRNAワクチンが10年後どう身体に作用するか実証されていないことは事実なので、極めて確率は低いと科学的推測はされているものの、正確な未来は神のみぞ知る。

東京2020

感染者が拡大し、多くのイベントが自粛を求められる中断行された東京オリンピック、パラリンピック。2020年3月に延期が決定され、これまで6、7年かけて企画されてきたものを2021年7月までの1年で急遽再構築することが組織委員会に求められた。

パンデミック禍で初のオリンピックは海外での感染爆発により渡航制限がされていた中、ウイルスが日本に持ち込まれることや、大衆が集まることで感染爆発が危惧されることや、自分たちは我慢しているのになぜ国の行事なら断行されるのかという不満や、それが税金により賄われることへの怒りなど、多数の反対意見を生んだ。

ここにはワクチン反対派と推進派で明確な意見の区別があったわけではなく、反対という立場において一瞬足並みが揃った面もあるのではと記憶している。

感染拡大に伴い無観客試合が決定され、オリンピック開催国のインセンティブである外貨流入も得られない中、血税を削って催す意味がどこにあるのかと反対派の論調は加速し、トーマスバッハ氏来日時も本人に聞こえる距離で「GO OUT BACH」などとシュプレヒコールが叫ばれた。

野村萬斎氏をリーダーに立ち上げられた開会式のクリエイティブチームは「コロナ禍に伴う式典の簡素化を短期間で進めるため権限を一本化する」という大会組織委員会の意向により解散させられた。そしてそれを引き継いだ電通出身のCD、佐々木宏氏は「広告の矜恃を持って全うする」というような趣旨の就任会見をしていたが開会式に出演予定だった渡辺直美氏の容姿を侮辱するようなメッセージを演出チーム内のLINEに送っていたことが分かり、辞任した。そして開会直前、開会式で楽曲の作曲担当だった小山田圭吾氏が、過去に同級生や障害者をいじめた経験を雑誌で語っていたことを受けて辞任した。

そして組織委員会の会長だった森氏は臨時評議員会で「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかります」などと発言し国内外から多くのバッシングを浴び、辞任した。当日までに公募していたボランティアも500名ほど辞退したとされる。

アスリートの中にも国として参加辞退が決定されたり、1年延期されることで出場を辞退せざるを得ない場合もあった。開会式当日は競技場で被災地の子供達が旗を運び、様々なパフォーマー達が縦横無尽に多様性を表現し、会場外では五輪反対のデモが起こり、無数のドローンは地球を描いた。

大会が始まってからも数々の批判が叫ばれる中、誰もいない競技場で、アスリートたちはただ目の前の時間に全神経を研ぎ澄ましていた。「より速く、より高く、より強く」

東京2020の公式映画作品を依頼された河瀬直美監督の映画『東京2020 SIDE:A/B』の2部作が一般公開されると「森氏、バッハ氏を主人公にしたプロパガンダだ」「私的な作品であり公式の映画とは言い難い」などと批判が集まり、国プロにも関わらず驚くほど広告もされず、ガラガラの劇場が揶揄された。

ちなみに両作とも映画館で見た自分としてはプロパガンダどころかアイロニーだらけでシニカルと言ってもいいくらいの作品で、一方で敵として誰かを描くことはせず、五輪の聖火に揺れる陽炎のような掴み所のない多様な観点を、自身のクリエイティブコンセプトに昇華させ、前述のような目を背けたくなるような重さをそのままレガシーとして残すことを選んだ、傑作だと思った。

安部元首相銃撃事件

参院選投開票の2日前、安部元首相が8日午前11時半ごろ、奈良市で街頭応援演説中に銃で撃たれ、午後5時過ぎに死亡が確認された。実行犯の男性は「特定の団体に恨みがあり、元総理がこの団体と近しい関係にあると思い狙った」「母親が団体にのめり込み、多額の寄付をするなどして家庭生活がめちゃくちゃになった」という趣旨の供述をしている。

これに対してSNSで様々な意見を観察していると多くは故人の冥福を祈るものや実績を讃えるものであるものの、一部では監視、国防意識が高まり自民党の追い風になるという趣旨のものや、前日に起きたUKのジョンソン首相の辞任から連なる計画的犯行を疑う声や、そもそも自作自演であるというようなものまで、様々な意見が並んでいた。

賛否はあるにせよこの30年間の日本を代表するような政治家が、選挙期間中のこのタイミングで、殺害、しかも銃撃され、実行犯は元海自で宗教的な恨みによるものとくれば、陰謀の創作はいくらでも作ることができるだろう。無論、ここで何が正しくて間違っているかなど言及するつもりはない。

また落合陽一氏の下記ツイートに対する賛否も大荒れし、リプ欄や引用RTにその模様を見ることができる。

呪詛や暴言と明記されているが、政治に対する批判は暴言ではなく民主主義の根幹だという趣旨の批判が多く見れる。


僕らは異なる。それとどう向き合おう?

この国の民主主義はこれほどまでに多様な意見が生成されるまで成長した、とも言える。一方でこのバリエーションが機能せず、秩序なくただ互いの異なりをぶつけ合い、摩耗し、消耗し、挙句の手には先日のような凶行にまで及んでしまった。それ以前にも秋葉原の無差別殺傷事件や京アニの放火、ジョーカー男による京王線の刺傷事件など、いくつも顕在化している。

アメリカや中国ほどの格差はないにせよ多くの家庭が相対的貧困に苦しみ、隣国ロシアのウクライナ侵略に心を痛め、ここ数十年横ばいの経済成長に対して世界的な物価上昇、何度も訪れるコロナ禍の波、月10万円を稼ぐこともできていないのに消費を煽られ続け、増税し、オンラインゲームでは世界中で殺し合い中毒が蔓延し、気候変動による異常気象が毎年襲ってくる中、いつか確実に訪れる大震災に備え、二次元世界に支えられ、近隣関係は乏しく、フィルターバブル的なコミュニティの中で「あの人たちは違うから」と分断し、安全な小さな社会の中で批判を推敲し、匿名の海で目立つ人々に「共に不幸になれ」とばかりに浅慮な暴言を吐き続ける。

夜中に自然界にはあり得ない照度で人工的に光るコンビニで、添加物だらけの食品の羅列を眺め、無意識に選択し胃の中に落とし、何事もなかったかのように陳列棚に新たな商品が並べられる営みを自分と重ね合わせる、こんな社会。こんなもんでしょ、となけなしの給与で契約したネトフリの新作を楽しみに生きるような、こんな社会。そんなこともあるんだなぁと、ひと事のようにこの記事を見つめる、こんな社会。

この社会に属する多様な人間たち。生まれながらの遺伝子的な配列の異なりは0.1%程度ながら、後天的な家庭環境や人間関係、時代情勢や教育指標、信仰や娯楽、技術環境や地政学的要因、気候や食物、文化的イニシエーション、ナショナリズムとグローバリズム、様々な要因により認知フレームがぐにゃぐにゃに曲がり、再現性のない独特なアイデンティティの形成に至った。

これ自体は環境変容に対して種としてのフレキシビリティを発揮できる意味で進化論的に歓迎すべき事柄な一方で、現在の日本の運用する民主主義はその多様性をどれだけ機能させられているだろうか。ひいてはそれによる副次的な被害を抑えることにシステム的なケアがどれだけなされているだろうか。前述の惨状を見る限り、機能不全と言っても差し支えない。

僕らは異なる。それとどう向き合おう?

世界から戦争が消えないのと同様に、家庭での夫婦喧嘩も恐らく世界史上1度も絶えたことはないのではないだろうか。最も近しい人でも、いや、だからこそ争うのに、異なりの対立自体をなくすのは難しく思う。であれば重要なのはどう異なりと向き合うか、また異なりを主張し合いぶつけ合うにしても、お作法を決めておかないと血が、涙が流れることになる。民主主義に犠牲を包括してしまうのは、なんとも本末転倒ではないだろうか。

例えば強い共産主義国では一定の言論統制やプロパガンダを用いて思想の均一化を目指す、仏教であれば”分かりあえないことを分かりあう”ことを高次の共感という、熟議を重ねアウフヘーベンを発見する熟議民主主義的な形もある、僕らと更に異なるもの、例えばAIに全て決めてもらうという方法もある。

この問いに対して完全な答えはまだない。けれど可能性があるかもしれない不完全な2案をシェアしたいと思う。ドラスティックに見えるかもしれないが、そういう過渡期なんだと思う。

直接民主制

現在のように選挙等を通して国民の代表者を選び自分たちの代わりに議論してもらうことを間接民主制、国民が一人一人が国の意思決定に参与し、発議権を有し国民投票を行うことができる仕組みを直接民主制という。

例えばスイスでは18歳以上のすべての国民は、選挙権とさまざまな政治案件について投票する権利を有しており、年間約4回、約15件の案件について投票が行われ、一定の署名が集まれば1人の国民が国全体に対して国民投票を行うことができる。

とはいえ議会も存在し、その代表者は間接民主的に選んでいるので両方を組み合わせているのが実情。日本でこのような仕組みを導入したらどうなるだろうか? 恐らく初期においては国民投票に票が集まらない、マーケティングされた極私的な組織票で法案が可決される、など酷い事態が想像される。

それでも社会の様々な場面で政治が顔を出すようになる。例えばビニール袋が有料になったのは誰か一人が決めたわけでなくてみんなが決めたことであり、政治がコントローラブルな距離に近づく。国民投票のたびに身近にいる有権者と話題に挙がるだろうし、国を変える手段として暴力を行使しなくても良くなる。頻繁な議論の機会と平等な発議権は多様性の摩擦熱による大火災の可能性を減らすだろう(小さな火災は恐らく増える)

自律分散型DAO型社会

信頼の基盤が国家から透明なテクノロジーに遷移し始めている。という記事を昔書いた。

DAOとは自律分散型組織を意味する言葉で、主にブロックチェーンを活用してオンチェーン上で組織形成、契約、投票、運用を行うことでトラストレスな組織形成が可能になる。それはブロックチェーンという改竄不能な技術自体の信頼性がベースにある考えで、会社でいう役員を不在にして全てのメンバーに平等にオーナーシップを分散し、実務的な運用全てにブロックチェーンを介することで信頼不要の組織形成が可能になる。もう少し具体的にいうとスマートコントラクトというプログラムにより[AをするとBになる]というコードを記述すればそれが実行される故に、人間や国家に「AをBにしてね」とお願いするより確実性が高く、信頼できるよねということ。

例えばパスポートの発行やマイナンバーカードなど多くの行政機能はDAOでNFT(非代替性トークン)を書類代わりに、窓口をスマコンで記述すれば代替可能になるだろう。そして投票においても「ハッキングされるかもしれない」というインターネット投票を阻害する危惧の1つになっている事案も解決され、誰もが秘匿に個人の意思を政治に反映することができる。

ここにおいても直接民主同様にマーケティングされた組織票問題はあるものの、そもそも自治体を自律分散しても機能するというのがDAOの本質だと思う。国や都道府県を解体とまでいくと過激かもだが、この溢れかえった多様性に存在する様々なイデオロギーを各人がDAOとしてスマートコントラクトで実装し、国民は自分の考えにあったDAOに所属、あるいは作ることで自身のパーソナリティに最適な社会を選ぶことができるようになる。

国防や社保など中央集権的な大きな力を必要とする機能においてもDAO化し、税金の代わりにステーキングすることで予算を調達する。もちろんステーキングが集まらなければその機能は破綻するが、これが直接民主主義というものでもある。

僕らは同一である。それとどう向き合おう?

一方で更にマクロな視点で社会を見つめると僕らは同一である。僕らの共通項は多い。太陽系に生まれ、量子で構成されタンパク質で身体をつくった炭素生命、哺乳類でホモサピエンス、日本という島国で生息する0〜130歳までの人間。三次元という認知フレームを共有し、政治や経済など概ね共通する概念を扱うことができる。

認知革命、居住革命、科学革命、産業革命、情報革命など様々なフィルタリングを経た文化やミームが環境となり、内部のDNA情報と共に僕らの身体に影響し、概ね同一の人間を生成する。

僕らは固有性・単一性・実体性を有する「人間-存在(human beings)」という多様な生物種的な側面と、環境と絡まり合いながら、個体としての本性を持つことなく、刹那刹那に生成する「人間-生成(human becoming)」としての側面を併せ持つ。僕らは環境のしもべであり、環境の一部でもある。

他の生物種と比較した際に民主主義とは非常に不思議な概念だ。アリたちは投票により労働時間を決めるだろうか? ネズミは国民投票をしているだろうか? 実際の環世界は覗けないので分からないがおおよそ民主主義というのは大脳新皮質的なイデオロギーと言える。ほぼ全ての生命体は生存最適するための戦略が実行されるが、人類においてはそれに限らない。

これは限定的合理性という時間やハードウェア的制約によって意思決定の合理性が制約を受けるシステムによって、子孫の数を最大化するという遺伝子的目標への最短ルートを演算するのではなく、それために大方うまくいく経験則の実現というレベルで実行してきたため、意思決定のファクターが感情や自由意思といったある種曖昧で、目的と一直線に繋がらない運用がなされているためである。

僕らは同一である。それとどう向き合おう?

内外部の様々な情報と関わり、繋げ、知覚することで現象する似たような僕らにとって民主主義とはなんだろう。ここでは人間以上の社会性(more than human society)を持つもの達から類推し、人にとって最適、最高な社会とは何かを考えてみる。

植物の社会

植物と森の関係は人間と社会の関係と似ている。植物も香りや根を通じて他者とコミュニケーションし、索敵やアラート機能を持ち、環境により(人よりずっと早く)遺伝子を変容させ個人の性質を変え、社会保障制度や徴税は地中の菌糸がになっている。植物間での生長競争はあるものの、ブナ林においては全てのブナが同じだけ栄養を得られるように、多く光合成できる位置に生えたブナが全体に栄養を行き渡らせる。もちろん個体の生長においてはより多く光合成し、栄養を摂取した方が良いが、それと寿命は比例しない。むしろ全体の環境が整うことが全体の寿命に影響するので、ブナの社会は運命を共同している究極のシェアリングエコノミーと言ってもいい。

根で繋がり合うのは基本的にもともとその森で生まれ育った植物たちのみで、植林された樹木は植林時に根が傷つき他の樹木と繋がれないようだが、そこで菌糸が役割を果たす。菌糸は森中の土中に細いネットワークを張り巡らせ、コミュニケーションを繋いだり、植物ホルモンを出して生長を後押ししたり、バクテリアなど有害な菌類からの侵入を守ったりもする。そんな充実した社会サービスの代わりに繋がった植物から栄養を吸収することで菌糸は生長している。

人社会と大きく違うのは、遺体の循環性にある。日本社会では多くが火葬され空気に溶け込むが、樹木は朽ちる前に全ての栄養を若木に注ぎ、朽ちたあとも虫や小動物、キノコの住処になり、雨で土中に溶けて沈み込み微生物の食糧になり、腐葉土になり土に栄養を還元し、更に膨大な時間が経つと石炭にもなる。全ての動植物の5分の1は朽木に依存しているとも言われる。

また樹木は個体として自律しながらも同時に社会としても機能している。枝の付け根に雨水が溜まればボウフラの巣になり、それを餌とする昆虫がやってきて、それを餌にする鳥がやってきて住処にし、樹木の実を食べ別の場所に糞を落とし、新たな社会が生まれる。ちなみに同じ種類の樹木でもそれぞれ遺伝子情報が大きく異なっているため、環境変容に対する大量絶滅の可能性は低く、人よりもパーソナリティの多様性がある。

ヒドラの社会

ヒドラという日本の海や川に潜む小さな肉食動物は不老不死である。
ヒドラは正確にはヒドラ虫綱という分類にいる淡水産ヒドラやベニクラゲなどのグループを指し、イソギンチャクなどに付着して生活するポリプ体と浮遊して生活するクラゲ体とメタモルフォーゼして一生を過ごす(そうでない種もいる)

ヒドラは全身が幹細胞のようなマルチタレント型の細胞で、どこを切られても部分が残っていればそこから全体が再生される。また多くのヒドラはポリプ→クラゲ→ポリプと形態変化することで寿命をリセットしたり、無性生殖して複製したり(有性生殖もできる)様々な手で不老不死を実現している。

また、これを社会性と呼んでいいのか分からないが、タマウミヒドラのような郡体するヒドラは別の個体同士が融合し、それぞれ餌を取る係、子を生む係など役割を分担しつつ、同じDNAになるという。ヒドラ同士は局所的な仕草を散在神経系を用い素早く実行し、1つの個体としてまとまりのとれた反応を上皮伝達を用い伝達し、2つの通信による個体であり全体でもある不思議な生命社会を実行している。

令和デモクラシーへ

銃撃事件から一夜明けて、朝から書いていたこの記事。途中休憩に散歩に行った。7月らしい入道雲、田んぼで稲が揺れる。川は流れ、犬も吠える。近所の奥様方も変わらず笑って井戸端会議。何も変わっていない。何も変わってはいなかった。

3.11の時も9.11の時も思えば何も変わっていなかった。川は昨日と同じ方向に流れていたし、細胞も変わらず分裂していたと思う。

でも未来から見つめると、その日が歴史の大きな節目になっていることがある。

何も変わらないように見える日々も、刻々と何かが変わっていて、時に不可逆性を持った変化が突如として訪れるのだろう。

それがもしかしたら明日なのかもしれない。
選挙はもう古い民主主義のレガシーという見方ではあるけれど、それでも選挙には行く。

僕は僕で思い描く社会の運用方法をOzone DAOの中で実装し、このDAOを育んでいこうと決めたけど、それでも誰もが投票権を持てる時代に至るまでどれほどの苦労があったことかと考えると、これまで何千年も耕してきた想像力の土壌から芽吹いてきた文明の財産だと考えると、それを本能や快楽に呑まれて蔑ろにしてしまうことは、生物的にはしたないと思うから、品性のある生物の矜持として投票はするべきと思います。

何より、間接的にでも未来に責任は持っていたい。それが自由というやつじゃないですか。

でも、僕らはもっと自由になれる。
もっと民意を仕組みに反映できる。
暴力や暴言なんて使わずとも、民主主義は成り立つと信じたい。

その手応えは先日のOzone DAO合宿で掴んでいて、中央なんてなくても僕らは既に自律分散していて、植物的シェアリングマインドも、ヒドラ的伝達神経も兼ね備えてた1つの生命体がそこに確かに現れていた。

既存の民主主義の問題はサイズと運用方法であり、分散した小さなたくさんの社会の中で共同体験を育んで、熟議して、バイブスを重ね合わせて、それを透明なテクノロジーで繋ぎ合わせれば良い。ブロックをチェーンすれば良い。

今の社会は多様だけどそれぞれの居場所がない。多様性を受け入れられる器側が整っていない。法治国家として罪と罰で、言うならば北風の力で秩序を保ってきたけれど、それぞれにちゃんと居場所をつくる太陽の力がまだ全然足りてないし、そう言う議論を議会で話したいし、話して欲しい。

性善説的な話ではなく、人間の持つ基本的な社会性質として、まず自分自身を満たしてあげないと他者や社会や未来に想像を還元できないから。小さく多様な顔の見える社会で、パーソナリティにマッチした舞台を能動的に選択し、協働し、共に政りあげ、遊牧民的な新しい自由民主主義の形が、この技術環境なら実装可能だと思う。

1つの器に多様性を詰め込みマネジメントしようとする窮屈な民主主義から、複数の器に価値観を分散し自由に行き来できる新しい民主主義へ、きっともう何かが変わり始めている。

 

アメミヤ ユウ/体験作家




「こんな未来あったらどう?」という問いをフェスティバルを使ってつくってます。サポートいただけるとまた1つ未知の体験を、未踏の体感を、つくれる時間が生まれます。あとシンプルに嬉しいです。