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【雑談】本当に大事なことはnoteには書けない?

始まったものは、必ず終わる。
ぱったりnoteを更新しなくなる日が来ることを、私は理解している。


人はなぜ、「書く」のでしょうか?

初めは、主治医に勧められたからです。
「やってみれば?」みたいな、軽い感じでした。

乗ってみることにしました。


だんだん、「自分の頭の中を言葉にする」という行為の心地よさに気づき、なぜだか、飽きっぽい私が、少しのあいだ続けられています。

(あと、サムネイルの画像をつくるという遊びがめちゃくちゃ楽しい、というのもあります。)


主治医の目には、そこまで見えていたのではないかと思います。
本当、意味分からんくらい、冴えている人です。



話がそれました。



幾つか、カテゴリー分けをして、記事をつくっています。
下書きをぽんぽん、日々積み上げています。


その中のどこにも、出てこない話があります。


本来、どのカテゴリーのはなしにも絡んでくるはずの、人生におけるビッグイベントのことです。

ビッグイベントという名の、「ある失敗」のお話です。

私にはどうしても、それが書けません。



書こうとはしています。
下書きをつくり、ラベルをつけます。

だって、私のどの側面をとっても、関わってくる問題だからです。


底が抜けたグラスに水を注ぐ感じ


でも、書けない。
タイトルはあるけれど、中身は空っぽのまま。

なんでだか、今のまま、ふわふわした状態で、あの記憶は留めておきたい。
この小さなゴシック体に、その話はどうしても、落とし込むことができない。



考えることを避けているのだと思います。
思い返して、また自分がざくざく傷つくことが分かっているからです。
おとくいの回避、です。


またこういう懸念もあります。


その失敗のことを知っている人が万が一、なんの気なしにこの記事を見てしまったら、どうしよう?
「いか=私」なのだと分かってしまう!
それが、どうしようもなく、怖いのです。


彼らには、たぶんもう、2度と会わないです。
それに、こんな弱小記事、その人たちがネットの深い海から掬いとるはずがないです。


でも、万が一、そうなってしまったら?


私はまた、あのときにように、ぶっ壊れると思います。
それくらい、クリティカルな過去なのです。



ある意味、私は「いか」ちゃんを演じているのだと思います。
本来はここにない、バーチャルな存在をつくり上げているのです。


「いか」ちゃんはたぶん、
折り目の綺麗なしま模様のパジャマとか着てる


「いか」ちゃんは、自分のことを、ポップなトーンで話す人です。
段落を積むという淡々とした作業を通して、熱心に自分を研究する人です。

こざっぱりした人です。素直な人です。謙虚な人です。


それは、いま、ここでパソコンのキーボードを軽快に鳴らす「わたし」とは、似て非なる自己像です。
言い換えれば、「こうなりたかったなあ」の具現です。



そういう積み木で遊ぶのって、けっこう快感なのです。

なりたい自分に、ここではなれる!って感じです。
反応が返ってきたら、なおのことです。

私に対してなのではなくて、「いか」ちゃんに対するものであったとしても、スキやコメントは嬉しいです。


トントンおもちゃを重ねる遊び


本当の私を見てしまったら、きっと幻滅するのだと思います。性格の悪い、根っこのひねくれた人間だからです。


人のあら探しばかりして、心の隅っこでは他人のことを馬鹿にしている。
そういう歪んだ方法でしか自分を保てない、どうしようもない不良品だからです。


こんなことを書いて、何がしたいのか、自分でも分かりません。
慰められたいだけかもしれません。そういうところも、私は残念です。



自分にとって本当に致命的な記憶を、またそれに付随する生々しい感情たちを、あなたは文字にして切り出すことができていますか?




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