北条政子とジェンダー
先日、NHKの『鎌倉殿サミット2022』という歴史番組を観た。
その中で、日本史研究者の野村育世氏が「北条政子=悪女」論に異を唱えていた。
徳川家康は明らかに我が子を殺していながら「英雄」扱いなのに、子や孫を見殺しにした政子の場合は「悪女」とばかり見なされていておかしいという主張だ。
野村氏の言うように、ジェンダー規範の偏りに基づく不公平な見方は改められるべきだろう。
たしかに北条政子は、現代のジェンダー規範に絡め取られていると言える。
それと同時に、現代のジェンダー規範に収まりきらない存在でもある。
肉親を犠牲にしたり、承久の乱で敢然と朝廷に挑む姿は異彩を放っており、そこからどういうモチベーションを読み取ったらいいのか、やはり戸惑うし気になる。
一方、同じく「悪女」と呼ばれる淀殿の場合、息子を溺愛して最後は一緒に自害した。
政子に比べると、いかにも母性を感じさせる姿であり、わりと現代のジェンダー規範の範疇に収まっているように見える。
だが、そう見えてしまうのも、ジェンダーバイアスによるものかもしれない。
番組の最後に、司会の太田光氏が「ジェンダーは外来語だから」と言って、日本史研究ににジェンダー論的視点を導入することの限界を指摘していた。
もちろんジェンダー論は万能ではないにせよ、常に歴史観の刷新を迫るような批判性を持っており、今後も日本史研究に活用されていくことだろう。
写真は、北条政子の墓