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犬だった君と人間だった私の物語【第10話】動物病院


 敏子の作戦は順調に進んでいる。店員は怪我をした敏子を抱いたままトリミング室に入り、そのまま作業台の脇を通過すると奥の大きな扉の前まで来た。そして壁にあるボタンを押すと、鉄の扉が自動で開き、中から小柄な若い女性看護師が現れた。敏子の手を見た看護師は、そっと敏子を受けとると、部屋の奥へと入って行った。
 そこはまぎれもなく動物病院だった。敏子は診察台の上にひょいと置かれた。ペットショップとは異なる消毒の香りが立ち込めている。

 別室から看護師が電話をする声が聞こえた。
「リク君の容態が良くないので、今からすぐ来ていただきただけますか……はい、分かりました。そろそろ……そうですね、はい。お待ちしています」
 それを聞いた敏子は武者震いがした。その時が迫っているのだ。

 すぐ脇で白髪頭の男性獣医が、ガシャガシャと金属音をたてながら治療の準備をしている。『リクが天国に行く前に、このチャンスをものにして、必ず青年の言葉を届けなければならない』という、極度のプレッシャーが押し寄せてくる。

 敏子は、とにかく必死にあたりを見回しリクの状況を把握しようとした。
 すると診察室の奥には大小様々な大きさのケージが置かれたスペースがあり、その一番下の大きなケージの中に老犬ゴールデンレトリバーのリクが横たわっている姿がちらりと見えたのだ。
〈まちがいない。あの写真の通りだわ〉
 キョロキョロと落ち着きのない敏子を見て、獣医は優しく声を掛けた。
「痛くないよ、どれ。あぁ、このくらいなら大丈夫。消毒と軟膏」
 獣医は看護師に指示を出すと、敏子の前脚を優しく持ち上げた。リクの方に気を取られていた敏子は驚いてビクッと全身に力が入ると、看護師が両手で動かないように敏子を抑えた。
〈しまった、これでは全く身動きが取れないわ〉
 一瞬慌てた敏子だったが、消毒が終わると同時に看護師の手がふっと緩んだことに気が付いた。
〈なるほど……処置が終わった瞬間も、また必ず看護師の手が緩むはずだわ。その時がチャンス……〉 
 獣医は消毒の脱脂綿を足元のゴミ箱に捨てると、軟膏のキャップを外しながら言った。
「しみないから、大丈夫だよ」
 キョロキョロする敏子を見て、看護師の手が再び敏子をぎゅっと抑え込んだ。獣医は慣れた手つきで傷口に軟膏を塗った。

 リク救出の覚悟を決めた敏子の心は嘘のようにしずまっていた。いよいよリクに伝えるその瞬間がやってきたのだ。

 処置が終わり、看護師の手が緩む瞬間を敏子は見逃さなかった。一気に身を伏せ、看護師の手をすり抜けると、全力で診察台から脇の丸椅子へ飛び移った。傷の痛みで一瞬顔を歪めた敏子だったが、丸椅子はその勢いでクルリとすごい速さで回転し、その遠心力で敏子も壁に向かって飛んで行った。
「こらこら!」
 獣医が慌てて薬を置き、敏子を捕まえようとしたが、敏子はその腕をかいくぐり、診察室を走り回ると獣医や看護師を翻弄した。敏子がキャスターの付いたワゴンに勢いよくぶつかると、台の上にあるトレーやカルテが音をたてて落下した。足の踏み場を失った看護師が慌てている隙に、敏子はリクのいる診察室の奥に向かって一直線に走って行った。リクのために、青年のために、孫の紀花のために、命懸けだった。
「リクさん、聞こえる?!」
 敏子は自分の体の何倍もある大きなケージの前で懸命にリクに話しかけた。クリーム色の長い毛に覆われたリクはぐったりとうつ伏せて横たわっていたが、大きな片目をゆっくりと開けた。今にも天国にいってしまいそうな弱々しい目だった。もう時間がない。
「あなたのお兄さんのラブが」
 そう言うと、弱っていたリクの目にわずかな力が宿ったのが分かった。
「ラブは、あなたのせいで水路に落ちたんじゃない。自分で虫を追いかけて足を滑らせてしまった。だから、リクさんは何も悪くないの。ラブは生まれ変わったあとも、それを伝えたくて、ずっとあなたを探していたの!」
 すると獣医が慌てて敏子を捕まえにやってきた。
「ショップの犬をここに入れたらダメだ! 早く出さないと!」
 獣医はさっと敏子の体をつかむと宙に持ち上げた。敏子は大きく体をばたつかせながら続けた。
「だからリクさん! あなたは何も悪くない! 自分を責める必要はないの! それがラブが伝えたかったことよ!」
 吠えて暴れる敏子に、さすがの獣医も手を焼き、
「この様子じゃ全く問題ないな、処置は終わり! ケージに戻りなさい」
 そう言って、急いで鉄の自動扉を開けると敏子をトリミングルームに放った。敏子は興奮した表情で部屋の中央までふらふらと歩くと、その場にぺたりと倒れ込んだ。息が上がり、心臓が痛いほど強く打っていて動けなかった。トリミングルームで待っていた店員は、驚いた表情で慌てて敏子に駆け寄り、優しく抱き上げた。
 近くで待機していたのであろう、リクの飼い主と思われる初老の夫婦が、敏子とすれ違いで併設病院へと入っていった。
 その時だった。
「ワオーーーーーン、ワオーーーーーン」  
 動物病院から最後の力を振り絞ったようなリクの遠吠えが聞こえた。
「リクさん……」
 それを聞いた敏子は、目を閉じて涙をぐっとこらえた。

第11話につづく

第1話 別れ
第2話 新しい姿
第3話 中庭
第4話 再会
第5話 ペットショップ
第6話 疑惑
第7話 奇跡
第8話 理由
第9話 可能性
第10話 動物病院
第11話 青年
第12話 記憶
第13話 名前
第14話 松田との暮らし
第15話 紀花
第16話 伝えたいこと
第17話 目撃
第18話 河川敷
第19話 数年後(最終話)

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