犬だった君と人間だった私の物語【第12話】記憶
青年は慌てて店内に入ると、店員にビーグル犬の敏子を指さし、触ってみたいと伝えた。いつも明るい店長は
「よく外から見に来て下さってますよね! 今、ちょうど前脚を怪我しちゃったんですけど… 診察では大丈夫とのことなので、前脚だけ触らないように抱っこしてあげてください」
とビーグル犬敏子の怪我を気にかけつつケージの鍵を開けた。敏子は不安な表情のまま店長に抱きかかえられ、そっと青年に手渡された。青年は敏子に話しかけたいのだが、店長が張り付いていて話せない。敏子が小さく
「ねえ、本当に私の言葉が分からないの?」
と言うが、青年は敏子を抱きかかえながら硬い表情で首を横に振り続けている。しばらくすると青年は、
「あの、僕、松田といいます。少し考えたいので、必ずまた来ます」
と店長に伝えた。いや、それは敏子に言ったのかもしれない。
松田が去った後、敏子は状況を理解するのに必死だった。
人間に生まれ変わった松田(ラブ)の頼みで、敏子は動物病院の中を駆け回り、弟犬のリクにメッセージを届けた。そしてリクの最期の言葉を青年に伝えた直後から、青年が敏子の言葉を理解できなくなった。なぜ急に理解できなくなったのか。
すると敏子は、松田が言っていたある言葉を思いだした。
『こんな大きな心残りがあったせいか、僕は人間になり切れなかったみたいなんだ……』
あの日、降りしきる雨の中、ガラス越しに話す松田の真剣な顔が蘇った。
〈もし本当にその心残りが原因だったとしたら。確かにあの青年……松田くんは、私がリクさんに真実を伝えて心残りを解消できた途端に私の言葉が理解できなくなった。タイミングはまさにその時だ。つまり、犬の頃の心残りが解消された松田くんは、もう完全な人間になっているのでは……〉
それは、認めたくはなかったが腑に落ちる仮説だった。
敏子は松田を信じていた。「はなから敏子や紀花を救う気はなく、自分のために敏子を利用した」とは微塵も思わなかった。なぜなら、言葉が分からなくなった時の松田の青ざめた表情は本物だったからだ。なによりも、慌てて店内に入り店員にケージをあけるよう頼み、敏子と話そうとしたその必死な姿は、松田にとっても予期せぬことが起きたことを物語っていた。
敏子は、ゴロンと体を横にし、丸くなった。前脚の傷が脈に合わせてズキンズキンと痛むが、そんなことは気にしていられなかった。
〈どうかこれが夢であって欲しい。そして目が覚めたら、また松田くんと会話ができる状態に戻っていてほしい〉
そう強く願った。
ペットショップから帰った松田は、自分の部屋の天井をじっと見つめていた。犬の敏子の言葉を理解できない。それだけじゃない、自分が犬だった記憶も、敏子と会話をした内容も、すごいスピードで薄れていくのを感じた。
〈自分には、やらなければいけない約束があったはずなのに……〉
そう考えている間も、記憶がどんどんと薄れていくことに恐怖を感じた。
松田はガバッと起き上がると、慌てて家を飛び出し、再び敏子のいる駅前のペットショップへ向かって走りだした。街はもう、西から差すオレンジ色の日差しに染まりだしていた。
ペットショップの前に着くと、敏子との記憶がほぼ消えかけていることに気がつき、立ち尽くした。どの犬が敏子なのかさえ既に分からなくなっていたのだ。すると店の中から店員が出てきて松田に話しかけた。
「いらっしゃいませ」
さっきとは違う短い髪のアルバイトの女性が松田に声をかけた。
「あの……犬を、今日抱いた犬を」
「今日抱いた犬……ですか、えっと、どのワンちゃんですか?」
そう言うと店員はケージの方へ歩いて行った。しかし松田はどの犬を抱いたのか、どれが敏子なのか、既に記憶が全くなくなっていた。短い沈黙の後、店の奥から明るい声が聞こえてきた。
「あ、松田さんですよね? こんばんは。またビーグルちゃんに会いに来てくれたんですか?」
松田は止まっていた息が吹き返すのを感じた。〈僕はビーグルを抱いていたのか〉
「あ、はい」
一瞬安堵した松田だが、記憶をたどろうとするほど、思い出したいことが遠ざかっていくのを感じた。
「また抱っこしてみます?」
店長の明るい声に促されながら、松田は黙って頷いた。疲れ切ってぼーっとしていた敏子は、店員に持ち上げられて初めて松田の存在に気が付いた。すべてを思い出して来てくれたのかと期待をして松田の顔をじっと見たが、状況は改善はされていないとすぐに分かった。
松田は敏子を腕に乗せ、じっと敏子の顔を見つめた。その頃、松田の敏子との記憶は完全に消えていた。しかし松田の純粋な気持ちが、使命感として強く残っていた。
「あの、このビーグル犬……欲しいです。買います」
松田の記憶はなかったが、店員がこのビーグル犬を抱かせることが自分の記憶に深く関係していると悟った。そして、このビーグル犬の顔を見て、自分の中の何かが反応しているのを感じたのだ。
「え?! あ、はい! ありがとうございます! 先ほどお伝えした通り、今日、怪我の処置をしたので数日様子を見る必要があります。問題がなければ5日後には連れて帰れるよう準備しますね!」
嬉しそうに店員は店の奥に手続きの受にをしに行った。敏子は驚き、抱かれながら松田の顔を見つめた。
「松田くん、私の言葉、わかる?」
松田の表情を見て、その言葉を理解できていないとすぐに分かった。松田はレジの前で、数十万円の値段に動揺しながらも、後には引けず、手付金の支払いを済ませた。
第13話につづく
第1話 別れ
第2話 新しい姿
第3話 中庭
第4話 再会
第5話 ペットショップ
第6話 疑惑
第7話 奇跡
第8話 理由
第9話 可能性
第10話 動物病院
第11話 青年
第12話 記憶
第13話 名前
第14話 松田との暮らし
第15話 紀花
第16話 伝えたいこと
第17話 目撃
第18話 河川敷
第19話 数年後(最終話)
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