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犬だった君と人間だった私の物語【第16話】伝えたいこと


 その時だった。再び歩き出そうとした松田とノンの前に
「す、すみません」
 なんと、再び紀花が現れた。息を弾ませ、走って戻ってきたのだ。
「あの、前にも一度お会いしていますよね?」
 紀花は必死に呼吸を落ち着かせようとしながら、松田に質問した。しかし記憶が消えている松田には何のことか思い出せなかった。
「あの日、何かを言おうとしていましたよね。おばあさんが、って。それが、ずっと気になっていたんです」
 松田は何かが自分の琴線に触れるのを感じた。おばあさん……何かがつながりそうで、でもつながらない。
「あの、私、高木紀花といいます」
「のりか……さん……?!」
 松田は、自分の頭に残っている名前が彼女であることを確信して驚いた。ただ、彼女に何を話すべきかは何も思い出せない。
「あの、僕は松田です。松田孝志です。あの、それを聞きに戻って来てくれたんですか?」
「はい、ちょっと待ってもらっているので、大丈夫です」
 ノンは二人の足元できゃんきゃんと叫んで訴えてた。必死に思い出そうとする松田は、吠えるノンに言った。
「静かに、ノン」
 すると、紀花は驚いた顔をして松田を見た。
「もしかして、さっきワンちゃんを呼んだんですか?」
 はっとすると、紀花は続けた。
「私、つい反応しちゃった……」
 そう言うと気まずそうな顔をして下を向いた。そしてもう一度同じ質問した。
「あの、前におばあさんが……っておっしゃってましたよね。あれは……」
 松田は困惑した。やはりどうしても思い出せない。
「あの、ごめんなさい。君に会ったことがあるような記憶はあるんだけど、何を伝えるべきだったのか、思い出せなくて。でも、何か伝えなくちゃいけないことがあるのは確かなんだ。こんなこと言って、変な人としか思われないだろうけど」
 すると紀花は答えた。
「変なのは私の方です。最近ずっと悩んでいて、なぜか亡くなったおばあちゃんのことをよく思い出していたんです。おばあちゃんだったら、どんなアドバイスをくれるかなって思ったりして。だから、松田さん…… からおばあさんって言葉を聞いた時、その続きを聞かなくちゃいけないような気がしていて。それに、さっきノンって呼んだじゃないですか。私、おばあちゃんにのんちゃんって呼ばれていたんです。だから、つい振り返っちゃって、すみません」
 敏子は紀花の足に体を摺り寄せた。目を閉じ、昔のように優しく頬擦りをした。紀花はまたしゃがんで視線をノンに傾けると、優しいまなざしで見つめながら首元を撫でた。そんなノンの様子を見て、松田は言った。
「すごく、なついてますね」
 紀花は嬉しそうにうなずくと、優しくノンに話しかけた。
「ノンちゃん、同じ名前だね」
 ノンは気持ちよさそうな顔で紀花にさらに甘えた。
「僕、何かを思い出してお伝えしなくちゃいけない気がするんです。また会えますかね」
 すると紀花は答えた。
「私も、何か聞かなくちゃいけない気がするんです。私はいつも水曜日のこの時間に、この駅に来ています。また会えたら嬉しいです。ね、ノンちゃん」
 紀花はそう言って、ノンの頭をもう一度なでると、松田に深く一礼してまたあの男の元に戻っていった。松田も礼をすると、雑踏の中で小さくなっていく紀花の姿を見送った。
 
 何も思い出せない松田を急き立てるかのように、梅雨明けした空にセミの鳴き声が響いていた。

第17話につづく

第1話 別れ
第2話 新しい姿
第3話 中庭
第4話 再会
第5話 ペットショップ
第6話 疑惑
第7話 奇跡
第8話 理由
第9話 可能性
第10話 動物病院
第11話 青年
第12話 記憶
第13話 名前
第14話 松田との暮らし
第15話 紀花
第16話 伝えたいこと
第17話 目撃
第18話 河川敷
第19話 数年後(最終話)

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門

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