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犬だった君と人間だった私の物語【第19話】数年後(最終話)

 小さな一軒家のキッチンから、朝ご飯の準備をする音が心地よく響いている。幼児用のおもちゃが転がるリビング。壁には、いくつもの写真が飾られており、その中には幸せそうな笑顔の家族写真がある。リビングから続く芝生の庭には、小さな子供とビーグル犬が元気にじゃれあっている姿が見える。ノンだ。   「じゃ、行ってくるね!」 「孝志、待って、忘れてる!」  大きなお腹の紀花が、玄関にいる松田にお弁当を手渡した。 「あ、サンキュ」  松田は慌ててカメラの入った重たいリュックを降ろすと、お弁当

    • 犬だった君と人間だった私の物語【第18話】河川敷

       翌週の水曜日。交差点の角を曲がり駅前通りにさしかかった松田は足を止めた。遠くに見える改札口の前には、携帯電話を何度も確認しながら夏の日差しを避けるように立っている紀花の姿が見えた。恋人が迎えに来るのを待っているのだ。  松田はその場で大きく一呼吸すると、ノンを連れて紀花の元に向かった。下を向いて携帯電話を確認している紀花の目の前に立つと、紀花は慌てて顔を上げた。やっと恋人が来たと思ったに違いない。松田はそんな紀花に神妙な面持ちで話し掛けた。 「彼を待っているんですか」  紀

      • 犬だった君と人間だった私の物語【第17話】目撃

         それからというもの、松田とノンは毎週水曜日に紀花と出会った時間に合わせて駅前通りを散歩していた。紀花を何度か見かけたが、恋人といる紀花に声を掛けることができなかった。何よりも、松田は伝えなければいけないことが思い出せずにいたので、二人に割って入ってまで声を掛けることは出来ずにいたのだ。ノンはもどかしかったが、松田を信じて待つしかなかった。  ある日、いつものように松田とノンが駅前を散歩していると、紀花の恋人が別の女性といちゃついている姿を見つけた。ノンは足をつっぱり、紀花

        • 犬だった君と人間だった私の物語【第16話】伝えたいこと

           その時だった。再び歩き出そうとした松田とノンの前に 「す、すみません」  なんと、再び紀花が現れた。息を弾ませ、走って戻ってきたのだ。 「あの、前にも一度お会いしていますよね?」  紀花は必死に呼吸を落ち着かせようとしながら、松田に質問した。しかし記憶が消えている松田には何のことか思い出せなかった。 「あの日、何かを言おうとしていましたよね。おばあさんが、って。それが、ずっと気になっていたんです」  松田は何かが自分の琴線に触れるのを感じた。おばあさん……何かがつながりそう

        犬だった君と人間だった私の物語【第19話】数年後(最終話)

          犬だった君と人間だった私の物語【第15話】紀花

           梅雨も終わりに差し掛かったある雨の日の夕方。爽やかな水色のワンピースに身を包んだ若い女性が駅前に立っていた。紀花だ。毎週水曜日は大学の授業が終わると彼とデートをする約束の日である。しかし今日は、金曜日だ。紀花は彼のバイト上がりを待ち伏せして驚かせようと、こっそりと彼のバイトが終わる時間に合わせてやってきたのだ。  細い腕につけた腕時計を見ながらソワソワと待っていると、飲食店が入る雑居ビルから彼が現れた。紀花はパッと明るい表情になると慌てて傘を差し、彼の元に駆け寄ろうとした

          犬だった君と人間だった私の物語【第15話】紀花

          犬だった君と人間だった私の物語【第14話】松田との暮らし

           松田の家で暮らして分かったことは、松田はどうやら今年の春に地方から上京し、都内の専門学校で写真を学んでいる学生のようだった。机の上にはカメラの小難しい本が並んでおり、脇には大きなカメラバッグが積んである。  松田は真面目な青年で、毎朝6時に起床し手早に自分の身支度をすませると、ペットショップの店長に教えてもらった通りにノンの朝食やケージの掃除をしっかりと済ませてから学校に行っていた。  松田が学校に行っている間、まだ子犬のノンはケージの中で思いのままに過ごしている。ここはペ

          犬だった君と人間だった私の物語【第14話】松田との暮らし

          犬だった君と人間だった私の物語【第13話】名前

           週末から、敏子は松田の家で暮らすことになった。ペットショップから15分ほど歩いたところにある古い賃貸アパートを、若者向けにリノベーションしたペット可の物件だった。家に着く頃には、松田の記憶は完全に消えていたが、ビーグル犬の敏子を買ったことは後悔していなかった。むしろ、一人暮らしの松田は家族が増えた感覚を持っていた。 「君に名前をつけよう。女の子だから……」  すると松田の頭の中にふと思い浮かぶ名前があった。 「ノ……リカ……?」  松田はこの名前をどこかで何度も聞いたような

          犬だった君と人間だった私の物語【第13話】名前

          犬だった君と人間だった私の物語【第12話】記憶

           青年は慌てて店内に入ると、店員にビーグル犬の敏子を指さし、触ってみたいと伝えた。いつも明るい店長は 「よく外から見に来て下さってますよね! 今、ちょうど前脚を怪我しちゃったんですけど… 診察では大丈夫とのことなので、前脚だけ触らないように抱っこしてあげてください」  とビーグル犬敏子の怪我を気にかけつつケージの鍵を開けた。敏子は不安な表情のまま店長に抱きかかえられ、そっと青年に手渡された。青年は敏子に話しかけたいのだが、店長が張り付いていて話せない。敏子が小さく 「ねえ、本

          犬だった君と人間だった私の物語【第12話】記憶

          犬だった君と人間だった私の物語【第11話】青年

           ペットショップに連れ戻された敏子の心臓はまだ強く脈打っていた。青年は、ケージに戻された敏子を、外の窓ガラスから心配そうに見つめている。敏子は息を切らしたまま青年に話した。 「リクさんに全部伝えたわ」  すると青年は被せるように質問した。 「リクの遠吠えが聞こえたよ! あれは、あれはなんて言っていたの?!」  敏子は一呼吸おいて、青年の目を見ながら答えた。 「ラブに伝えて欲しいって。また兄弟として一緒に生まれよう! って」  青年はそれを聞くと大きく天を仰いだ。何年ものしかか

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          犬だった君と人間だった私の物語【第10話】動物病院

           敏子の作戦は順調に進んでいる。店員は怪我をした敏子を抱いたままトリミング室に入り、そのまま作業台の脇を通過すると奥の大きな扉の前まで来た。そして壁にあるボタンを押すと、鉄の扉が自動で開き、中から小柄な若い女性看護師が現れた。敏子の手を見た看護師は、そっと敏子を受けとると、部屋の奥へと入って行った。  そこはまぎれもなく動物病院だった。敏子は診察台の上にひょいと置かれた。ペットショップとは異なる消毒の香りが立ち込めている。  別室から看護師が電話をする声が聞こえた。 「リク

          犬だった君と人間だった私の物語【第10話】動物病院

          犬だった君と人間だった私の物語【第9話】可能性

           翌日  昨晩の雨が嘘のように晴れ、朝の太陽が濡れた街を乾かしている。澄んだ空気の中、開店早々に再びあの青年が敏子のもとにやって来た。 「協力してもらえますか」  青年の真っ直ぐな瞳を見て、敏子は返答に困っていた。 〈青年の力になりたい。しかし、どう考えても自分が願いを叶えてあげられる可能性は無いに等しい〉  そう思うと、あれほどいらないと思った『期待だけ持たせる奇跡』を繰り返してしまう気がしていた。  何か具体的な良い方法はないものか……すると敏子にふとアイディアが浮かん

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          犬だった君と人間だった私の物語【第8話】理由

           強い雨の降る夜  敏子が水滴でゆがんだ窓ガラス越しの夜の街をぼーっと眺めていると、目の前に突然、自分の言葉を理解したあの青年が現れた。敏子は驚き、うつ伏せていた顔をはっと上げた。一ヶ月ぶりである。大きなビニール傘を持っているが、急いでやって来たようで青年の髪やシャツは雨で濡れていた。そして青年は静かに語りだした。 「僕がなぜ君の言葉を理解できるのか」  敏子はゴクリと唾を飲んだ。 「それはきっと、僕が人間になる前は犬だったからなんだ」  敏子は目を丸くした。 「でも、どの犬

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          犬だった君と人間だった私の物語【第7話】奇跡

           その時だった。  突然、見たことのない青年が、ひょっこりとケージの前に現れた。 「大丈夫? もう行っちゃったけど」  びっくりした敏子は思わず後ずさりをした。白いシャツにデニムパンツ姿で首にカメラをかけたその青年は、大きく澄んだ目で窓ガラスから敏子のいるケージを覗き込んでいる。 「のんちゃんって、さっきの女の人? 何かあったの?」  その言葉を聞いて敏子は目を丸くした。あれほど名前を呼んでも紀花に届かなかった自分の言葉が、なんとこの青年には通じているではないか。敏子は信じら

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          犬だった君と人間だった私の物語【第6話】疑惑

           ある日、敏子がいつもの様に窓ガラスの外を眺めていると、長身で痩せた男性が癖のある髪をかき上げながらキョロキョロと辺りを見渡しているのが見えた。 (あの時、紀花を迎えに来た男性だ!)  敏子はハッと立ち上がり、紀花を前屈みになって必死に探した。これから来るに違いない。 (いよいよ、また紀花に会える!)  そう思うと、敏子は自分の心臓がドキドキと脈打つのを感じた。大人になった紀花の姿をもう一度目に焼き付けようと胸が高鳴ったのだ。興奮した敏子は、ケージの窓ガラスに何度も顔をぶつけ

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          犬だった君と人間だった私の物語【第5話】ペットショップ

           それからというもの、敏子は毎日、窓ガラスから外を眺めて過ごした。時折、動物たちのストレスを軽減するためにケージの両側にあるロールスクリーンが下ろされ、休息時間が設けられていたが、敏子はロールスクリーンと壁のわずかな隙間を見つけては、外を眺め紀花を探し続けた。紀花らしい女性を雑踏の中に見かけることは何度かあったが、人混みや目の前の客に隠れてしまい、紀花である確信を持てないうちに見失っていた。   そんなある日、いつもと違う時間に突然ケージが開けられた。身構える敏子を、ベテラ

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          犬だった君と人間だった私の物語【第4話】再会

           犬になった敏子は自分の最期を思い出していた。 (博美ったら、あの時、私を元気付けるためにウソを言っていたのよね。私は勘が鋭いから分かっていたよ)  敏子は博美の優しさが嬉しかった。そして、大きなあくびをすると体を丸め、そのまま少し休むことにした。    ペットショップでの生活はルーティーンだった。決まった時間に食事や掃除があり、それ以外は自分のケージの中で気ままに過ごしていた。定期的にトリミング室で体を洗われたり、客に買われていく仔猫や仔犬を、ケージの中から見送ったりもした

          犬だった君と人間だった私の物語【第4話】再会