【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第三章「皇女たちの憂鬱」 後編 18
白波に浮かび上がった塔の影が消えていく ―― 雲が、月を隠したのだ。
周囲は、闇夜に包まれた。
寺内は、仏ですらその活動を止めている。
しかし、その暗闇に蠢く人影があった ―― 弟成である。
彼は、毎月1回、塔内の像に手を合わせに来ているのであり、今日がその日であった。
寺の門は閉まってはいるが、鍵が掛かっている訳ではない。
彼は、ひと1人が通れるだけ扉を開けると、するっと通り抜けて塔の前まで来たのだ。
そして、塔に入る時も、同じように体を捻らせて難なく入ったのである。
弟成は、数体並んだ像の後ろの方に手を入れた。
いつもなら、そこに不恰好な像が二体あって、これを取り出して手を合わせるのだが………………、どういった訳か今日はない!
彼は、さらに奥に手を突っ込む。
―― 可笑しいな?
隅にでも転がっていったかな?
それとも、鼠が咥えていったかな?
彼は、暗闇の中、手探りで探し回ったが見つからない。
あんな形だから、間違う訳はないのに。
弟成は呆然とした。
―― どうしよう、なくなってしまうなんて………………
その時、外から玉砂利を踏みしめる音が聞こえてきた。
―― まずい、誰か来る!
彼は、塔心の後ろに身を潜めた。
砂利の音は、だんだん大きくなってくる。
彼は、じっと息を凝らす。
彼の目の前には、寝台に横たわるお釈迦様の姿があった。
今度は、玉砂利から階段を踏みしめる音に変わった ―― ギシ、ギシと。
間違いなく、この塔の中に近づいている。
寝台に横たわるお釈迦様は、じっと弟成を見ている。
彼は、お釈迦様に祈った ―― お願いします、助けてください。
が、無情にも、塔の扉が静かに開いてしまう。
だが、弟成にとって良かったのは、塔の中に入って来たのが、彼の見知った人物であったことだ。
「お前の探しているのはこれだろ。大丈夫、怒らないから出て来なさい」
弟成は、柱の影からそっと覗き込んだ。
顔は見えないが、明らかに聞師の声である。
それに、彼が手に何かを持っているのが見えた。
―― もしかして、俺の像?
どうしよ、出て行こうか?
でも、怒られたら………………
迷った。
―― が、聞師様が叱ることはないか。
よし!
彼は思い切って聞師の前に出た。
「やはり、お前か。これはお前のだろう?」
聞師が両手に持っていたのは、間違いなく三成と廣成の像だった。
弟成は頷いた。
「そうか、実は、危うく燃やされるところだったのだよ。入師様がそれを見つけて引き取って来たのだが。ところで、これは何だい? もしかして、仏像か?」
仏像と言っても、弟成には分からない。
「それ、父さんと兄さんです」
「父さんと兄さん……? 確か、お前の父も、兄も、もう亡くなっておったな。……もしかして、これは御影か?」
御影と言っても、これも分からない。
「父さんと兄さんの魂がさ迷っているといけないから……」
聞師は、弟成にそんな話をしたことを思い出した。
なるほど、この子は、あの時の話を覚えていたのか。
「なるほどな。そうか……、これは返すよ」
弟成はそれを受け取ったが、心配な顔をしている。
「どうした? ああ、別に塔内置いても構わないよ。それに、拝みに来ることも問題はないから」
それを聞いた弟成は、はじめて笑顔を見せた。
そして、2体の像を元あった場所に戻すと、そっと手を合わせた。
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