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ナポリタンルージュな彼女

僕の彼女はちょっと変わっている。

出会ったのは中学生の頃。
僕らは、どこにでもいる仲の良い普通のクラスメイトだった。
高校生の時にお互い彼氏彼女が欲しいなとか、そういう年相応の恋愛ごとに興味が湧いて、今まで仲も良かったしってことで、なんとなく意気投合して付き合い始めた。
それから高校も大学も偶然同じで、なんだかんだ続いた僕たちは付き合ってからもう10年近い仲になる。
昔から一緒にいたこともあって、二人でいてもその空気はカップルというよりは兄妹とか仲の良い親戚みたいな感じだ。

大学を卒業する手前くらいから同棲を始め、結婚はしていないものの親もよく知る仲。二人暮らしにも慣れてきて、もはや関係性は熟年夫婦に近いかもしれない。良くも悪くも。


笑いのツボが合って、食の好みもほぼ一緒。新しい物好きで、でもちょっと飽きっぽいところも似ている。
昔はくだらないことで朝まで笑って語り明かしたり、家でだらだらと映画や動画を見たり、夜通しゲームをしたり、テーマパークやキャンプなど色々なところにも出かけたが、大学を卒業してお互い仕事を始めてからはそんなこともめっきり少なくなった。

自分で言うのもなんだが僕は順当に大人になり、毎朝スーツを着て会社に通ってそれなりに社会人が板についてきたような気がしている。
しかし、彼女は初めて出会った中学生の頃からほとんど変わらない。
これも、良くも悪くも。


仕事がフリーランスで自宅作業も多いためか、今も昔も化粧という化粧もほとんどしないし、ネイルをしたりまつ毛をどうこうしたりなんていうのも興味がないみたいだ。
ブランドの服やバッグも身に着けないし、今でも古着とか動きやすくてカジュアルな服が好きらしい。
それはまぁ個人の自由なのでいいと言えばいいのだが。

でもやっぱり大人になるにつれ、ほぼスッピンに近い顔でいつものカジュアルな服しか着ないとなると、僕が少し背伸びをしてたまにちょっといいレストランなんかに行きたくても、そんな彼女と一緒に...となるとなんとなく気が引けてしまう。


また、彼女は料理もめったにしない。
漫画に出てくるような指が絆創膏だらけになったり、塩と砂糖を間違えるような料理下手ではないのだが、おそらく料理というもの自体にあまり興味が向かないようだ。
食べることは好きだけど、美味しければなんでも嬉しいし、作らずに出てくる方がもっと嬉しいという感じ。

昔は僕も外食やインスタントの味が濃いものばかり食べていたけれど、社会人になってやっぱり家で作った方が節約にもなるし体も健康的になる気がして、そのうち台所には僕がよく立つようになった。
一応二人の未来やこれから新しく家族ができたら...なんてことを考えたりして、自分なりに地に足をつけ始めたと思っている。


そんな僕とは違って、相変わらずいつも子供みたいに遊んだりはしゃいだりして、昔と何も変わらない彼女。
天真爛漫でそこがいいところだと思っていたけれど、最近自分がちょっと変わり始めてからは、なんとなくそのあたりが噛み合わなくて、僕たちは気まずくなったり、よくぶつかったりするようになっていた。

そして昨日のケンカも、そんなようなささいなことが始まりだった。


「なぁ。たまには、料理とかしてみれば?」

「え?なんで?いっつも作ってくれるじゃん」

「いや、だからさ。俺だって好きで作ってるわけじゃないし...」

「好きじゃないなら別に買ってきたものでもいいんだよ〜?いっつも帰り遅くて疲れてるんだから。無理しなくていいよ!」

普段は何気なく返せたり僕のことを労ってくれてるのかなと思えるのに、昨日たまたま仕事でミスをして気持ちが落ちていたせいもあって、僕はその言葉で火がついてしまった。

「...そう思うなら少しはそっちも料理とか作ってくれたっていいだろ?もういい大人なんだし、学生じゃないんだからちょっとは成長しろよ」

「成長って?なにを?」

彼女はきょとんとしながら、おでこの上で縛ったちょんまげを揺らしている。

「だから!全然料理も作らないし、ずーっと化粧らしい化粧もしないし。俺は大人になってるつもりだけど、そっちは全然変わってないじゃん。たまにはもっとちゃんとしろよ!」

「え〜ちゃんとしてるよぅ〜。私だって仕事もしてるし、それにお化粧も料理もたまーにするし...。っていうか、なんかわかんない。それがちゃんとした大人になるってことなの〜?」

「......もういいよ!」

嫌気が差した僕は、そう言い放って寝室に向かった。


ベッドの端と端、隣にはいるものの、僕は彼女に背を向けてお互い無言の夜が来る。
彼女がこちらを気にしているような空気を背中越しに感じてはいたけれど、そうは言っても、今日ミスをした上に明日は大事な打ち合わせだ。
こんなささいなケンカを引っ張って遅くまで話してなんかいられない。
僕は何も気づかないフリをして無理やり目を瞑った。


次の日、彼女とは一言も話さずに急いでいるようなそぶりをして家を出る。
昨日に引き続きため息が止まらないまま、それでも必死で打ち合わせまでの仕事をこなした。
せっかく気合を入れるために新しくおろしたシャツを着て来たものの、そんな付け焼き刃な武装をしたところで急に優秀になれるわけでもない。
肝心の打ち合わせでもなんだかうまく話すことができず、結果としては散々だった。
自分より何個も年下の後輩の的を得た提案に、それを好感触で聞いている上司に、そして何より今日挽回できなかった自分に、居心地が悪くてイライラする。


どうして昨日、あんなミスをしてしまったんだろう。
どうして今日も、うまく話せなかったんだろう。
どうして昨日、彼女にあんなにあたってしまったんだろう。

会社でも家でも自己嫌悪になるようなことばっかりで、打ち合わせを終えてからも、その日僕はまともに仕事ができなかった。


重い足取りで帰り道を歩く。
同棲をしてから住み始めたこの街は、駅からちょっと離れると特にこれといった店もないいわゆる閑静な住宅街という感じで、なんとなく僕が想像していた大人になったらこんな家庭を築くのかなというような子どもの声が漏れる家々が並ぶ。

明かりの点いている知らない家の前でまた一つ、小さなため息をついた。
こんなはずじゃなかったのに。
自分は、彼女は、彼女との生活は、このままでいいのかな。
上手くいかないことが重なって、どうしようもない気持ちのままとぼとぼと道を歩いた。

彼女はまだ起きているだろうか。
今日はもう、帰ってから彼女とケンカをする気力もなければ、いつもの調子の笑い話に乗っかって一緒に笑える自信もない。
できれば寝ていてくれないかな、なんてずるいことを考えながら僕は家のドアを静かに開けた。

冷たい体に沁みるような家の中の温度と、リビングから聞こえるテレビの音。起きてる、か。

「おかえり〜!今日も遅かったね、お疲れ様!」

昨日のケンカなんてなかったかのように、陽気な口調で彼女が玄関に歩いてきた。いつもの調子だけど、なんだかいつもより得意げというかちょっとすました顔に見える。

うっすらとオレンジ色に光る彼女の唇。
昨日の僕の愚痴を真に受けて、化粧でもしてくれたのだろうか。
でも、なんていうか、ちょっとズレてる。
まるで幼稚園児がお母さんの口紅で遊んだような口周りだ。
僕はため息をこぼしながら言った。


「...ただいま。それ、なに?」

「それ?どれ?」

「口。俺が言ったから化粧でもしてくれたの?」

靴を脱ぎながらそう言って彼女を見ると、きょとんとした顔で彼女が立っていた。

「え?なにがなにが?」

「や、その唇。ルージュ?みたいなやつ?オレンジ色だから。」

「......?あ、これ?あははは、違う違う!今、ナポリタン作って食べてたんだよ!」

僕の言葉に、彼女がけらけらと笑いながら言う。

「ルージュって!あははは!あーごめんごめん。笑っちゃダメだよね。でもお化粧はしてないけど、昨日言われたこと、ちゃんと考えたんだよ。だから作ったの、ナポリタン。私、これだけは自信あるんだ〜!」


自分の的外れな指摘に若干の恥ずかしさを覚えつつも、彼女のいつもの明るい口調に、なんだか一気に申し訳なさが押し寄せる。
にしても、ナポリタン。
僕の言葉がそんなに面白かったのか、口の周りをオレンジ色にしながら彼女はまだけらけらと笑っている。
でも、その屈託のない笑顔を見ていたら、もう昨日のことも今日のことも忘れられるくらいどうしようもなく愛しさが溢れてきた。


「あの...ごめん、昨日。色々言って...。八つ当たりだった」

「ううん、いいよもう。ねぇ、まだごはん食べてないでしょ?一緒にナポリタン食べよ。おそろいの"ルージュ"、つけられるよ〜!」

彼女はにやりと笑って子供のように飛びついてくる。

「うわっやめろ、その口!着替えてくるから!このシャツ下ろしたてなんだよ!」

僕がシャツに汚れが付くのを恐れて逃げると、彼女は一層喜んで子供のように満面の笑みでおどけて追いかけてくる。


それを見て、なんだか僕は全身の緊張がほどけていくような気がした。
あぁ、僕はいつだって彼女のこういうところに救われてきたんだ。
それなのに、どうして今まで気づかなかったんだろう。
いや、本当は気づいていたはずなのに、どうして昨日あんなことを言ってしまったんだろう。

中学の時に親友とケンカした時も、高校の部活で悔しい思いをした時も、大学で就活がうまくいかなかった時も、仕事で落ち込んだ時も。
いつも隣りにいてくれて、落ち込んだ僕を慰めるように明るく笑い話をしてくれたり、いきなり変な踊りを披露してきたり、彼女はそうやっていつだって僕の沈んでいた気持ちを吹き飛ばしてくれた。

そうだ、彼女はただただはしゃいでいたわけじゃない。
きっと今まで僕の気持ちを汲んで、僕のために笑って傍にいてくれたのだ。
彼女のおかげで今まで何度も救われて、笑顔を取り戻すことができた。
子どもだったのは彼女じゃない。僕の方だ。


「ね〜!なんで逃げるんだよ〜!待て〜!」

後ろからそう言って向かってくる彼女に、逃げていた足を止めてくるりと向き直る。
そして僕は、飛びついてきた彼女を思いっきり抱きしめた。
てっきりよけると思っていたのか、彼女はちょっとびっくりしながらも満足げに僕の胸に顔をうずめて、それから満面の笑みで僕を見上げて言った。


「へへへ。…おかえり。」

やっぱり、彼女には敵わない。
僕はそう思いながら、もう一度彼女を強く抱きしめた。
新品のシャツに、そのとびきり美しい笑顔とナポリタンのルージュを受け止めながら。

「うん。ただいま。」

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