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気づくひと、気づかないひと

先日、草むしりをした。
子どもの通う小学校の保護者活動で、各学年のクラス役員と協力者が集まり、総勢二十人ほどで、にぎやかに校庭の草をむしった。

子どもが入学するまでは、保護者の集まりは、上辺だけの関係で、陰険で、派閥やいじめがあり、ギスギスしたものにちがいないと怯えていたけれど、いざ飛び込んでみると、あっけないほどに杞憂だった。
上辺だけの関係であることには変わりないけれど「今日も暑いですね」とか「給食の青椒肉絲は美味しいらしいですよ」とか、適当な日常会話を楽しんで、深入りもせず、依存もしない、なんだか気楽な関係だった。
いまは、それぞれの家庭で、それぞれ異なる生活スタイルがあることが当たり前になっているから、こんなふうに軽やかなつながり方に進化したのかもしれない。

閑話休題 。
 
夏は、みなぎる生命の季節だ。
子どもの背もぐんと伸びるし、植物も育つ。
夏をまっとうした草たちは、鉄棒や、タイヤの跳び箱を侵食するほどに、ひろく、高く、そして深く、根を張っていた。
軍手をした手でぎゅっと引き抜くと、あたりの土ごと持ち上がり、あわてた様子の虫たちが、ごそごそと足早に避難していった。
抜いても、抜いても、終わりが見えない。
校庭のだだっぴろさを、肩と腰で感じた。

小中高と学校に通うなかで、校庭がきれいなことは、当たり前のことだと思っていた。
ほうっておけばすぐに雑草が生い茂るとも、それを誰かが刈ったり抜いたりしてくれているとも、考え及んだことすらなかった。
考えればすぐに、気がつけることなのに。
思考停止をしない、とか、視野を広く持つ、とかいうのは、ものすごくスケールの大きな命題のように感じられるけれど、つまりは、こういうことなのかもしれない。
実際に手を動かし、泥臭く体験するなかで、やっとこさ気づくことができた。
穴があったら入りたい。
入るかわりに、もりもりと草をむしった。

チャイムが鳴って、おそろいの体操服を着た子どもたちが、わらわらと校庭に出てきた。これから体育の授業を受けるらしい。
みんなが集合場所へと向かう流れのなかで、ひとりの小柄な男の子が、ぱっとわたしたちの方を見て、それから、立ち止まった。

すごい!きれいになってる!
草むしり、ありがとうございます!

バテ気味で、能面のようになっていたわたしたちの顔が、ふんわりとほぐれた。
わたしが、今日まで気づけずにいたことを、彼は、もう、ちゃんと気づいているんだな。
五十歳になっても、百歳になっても、気づかないひとは、気づかないままなんだろう。
まぶしいような、頼もしいような気持ちで、しばらく彼の背中を目で追っていたけれど、大勢の仲間たちとおなじ色に溶けて、あっという間にわからなくなってしまった。


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