春風のいたずら 22.3.29
男は、自家用車を運転していた。
その日、朝は曇っていたものの、昼近くになって空の青さが増していった。ただ、風が強かった。
午前中大手スーパーに行って、生活用品をまとめ買いした彼は、正午近くに家に戻る途中だった。つい一か月ほど前まで警報級の大雪が町全体を覆いつくしていたが、今は道路も乾燥し、雪道の時よりは運転に神経を遣う必要はない。少しだけ穏やかな心持ちで彼はハンドルを握る。
彼にはもう一つ用事があった。自宅近くに古紙を回収するリサイクルボックスがあり、そこに、段ボールや古新聞などの雑紙を置いてくる。二週間に一回は古紙回収車も回ってくるが、自分のペースで古紙を出すのが彼のライフサイクルでライフスタイルだった。
古紙の大半は新聞紙であるが、それ以外の紙も多く含まれている。
男は、ふだん、小説を書いている。小説家ではない。あれは、小説を金銭に交換できるレベルの奴らだ。そうではなく、彼は、ただ、金にならない小説を書いている。しかも遅筆である。
男は、五十歳を超え、世間で言うところの中年であった。かつ独身である。小説を書こうというからには、そこそこ本は読んでいたものの、本棚に収まりきらないようになってきた。自分の年齢と現在の社会的地位を考え、そろそろ「断捨離」に取り組もうと考えるようになった。とりあえず紙の本をスキャナーで電子書籍化し、元の紙は捨てる。
男がカーゴスペースに積み込んだ古紙の束にも、裁断機でバラバラにした本の残骸が紛れ込んでいた。
時節柄、頻繁に出かけることのないよう、スーパーである程度の買いだめをした彼。荷物の置き場所に困った末、古紙の下にスーパーで買ったトイレットペーパーを置いた。
帰り道。
リサイクルボックスまであと数分というところで、後部座席の後ろから、ゴトン、と段ボールが倒れる音がした。
その時、スマホから流れる不倫芸人の復帰会見を聴いていた彼は、深く気に留めなかった。
やがて広い駐車場が見え、入り口から中に入る。ここもまた地元のスーパーと併設しており、リサイクルボックスを利用する人と、スーパーの客は同じ駐車場を利用することになる。
エンジンを切り、車を降りた男は、強い風が吹くなか車の後ろに回り、カーゴスペースのドアに手を掛けた。だが、寸前で硬直した。古紙がひっくり返り、スーパーで買った荷物の上にばら撒かれていた。
男は考える。ドアを開けなければ、紙を元に戻せない。しかし、開けたとたんに風が吹いたら――。
あえてここまで書くのを避けてきたが、男は主に官能小説を書いている。男女ものではなく、男同士の絡みが登場するジャンルだ。そして、今車内にばら撒かれているのは、男が以前同人誌イベントで購入した、中年男と××生が×××する小説であった。
男は息を飲む。ドアをわずかに開けたら下に潜り込み、秒で紙を押さえる。脳内でシミュレーションした彼は、ドアの取っ手に力を込めた。
ドアを開けたらすぐに
ドアを開けたらすぐに
男は、心の中で何度もつぶやきながら、ドアをわずかに開けた。
強風が吹いた。
一気にドアの隙間から、一足早い桜吹雪のように紙が青空に舞い上がった。
男の目が点になる。
それでも、車内に残った紙は掻き集めて、段ボールに詰め込む。
そして、地面に散らばった×××小説を拾い始めた。男をあざ笑うかのように、紙は駐車場を歩く客の前へと飛んでいく。僕は――いや、男は、「何でもありませんよー」といった澄ました表情を作り、手袋を脱いで、アスファルトに貼り付いた紙を一枚一枚拾い集めた。
ようやく紙をすべて回収した男は、リサイクルボックスの量りに古紙を乗せた。ポイントカードに重量分のポイントが入力されたのを確認した男は、大きくため息を付いて、車を置いた方向に振り返った。
その先で一枚の紙が舞い上がるのを男は見た。
男が「あっ」と口に出した次の瞬間に、それは男の視界から消え去っていた。
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