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天正10年(1582)5月15日は安土へ到着した家康を信長の命で明智光秀が歓待した日。武田氏の旧領駿河を与えられた礼を述べるため安土へ来た家康を光秀は京や堺から珍しい食材を調達して3日間に渡ってもてなした。備中で毛利氏と対峙する秀吉支援のため17日に光秀は準備のため坂本城へ戻る。

天正11年(1583)4月24日は柴田勝家とお市の方が北ノ庄城で自害した日。信長の死後、清須会議を経てお市の方は勝家と再婚した。秀吉と対立した勝家は賤ヶ岳で敗れ秀吉軍に北ノ庄城を囲まれた。お市の方は娘3人を城から出し勝家と自害する道を選んだ。賤ヶ岳で勝家が敗れて僅か3日の出来事。

天正10年(1582)6月13日は羽柴秀吉が山崎の戦いで明智光秀を破った日。光秀が信長を討った本能寺の変からわずか11日後のこと。短い間権力を握ったり地位を得ることを「三日天下」といい。勝敗を決める正念場や分かれ目を「天王山」と表現することがある。どちらもこの戦いにまつわる言葉。

天正2年(1574)6月17日は武田勝頼が徳川方の小笠原氏助が守る遠江の高天神城を攻略した日。家康が待っていた信長の援軍が三河吉田城に到着したこの日に氏助が降伏し開城した。信長は畿内北陸の情勢により援軍が遅れたという。19日に遠江今切の渡で開城を知った信長は岐阜へ戻ることになる。

永禄7年(1564)5月9日は安宅冬康が飯盛山城で兄・三好長慶に謀殺された日。冬康は歌を好み穏やかな仁慈の人で無用な殺戮を繰り返す兄を諫める逸話も残る。畿内を制した長慶も二人の弟と嫡男を続けて失い心身ともに病んでいく。讒言があったともいわれるが長慶は唯一信頼できる弟を殺害した。

天文2年(1533)2月9日は島津義久が生まれた日。薩摩から九州統一を進めるも秀吉の九州征伐で降った。関ヶ原合戦で弟義弘は西軍として戦ったが戦後処理の粘り強い講和交渉で島津は改易を免れ本領安堵となった。兄弟でも殺しあう時代にどうすれば優秀な3人もの弟を統率できるのでしょうね。

天正8年(1580)4月27日は大村純忠がイエズス会に長崎と茂木を寄進した日。純忠は龍造寺隆信ら周辺勢力から長崎の権益を守るため巡察師ヴァリニャーノに申し出た。会の方針で所領の受領は禁止だったため対応に苦慮したが協議の末受け入れた。8年後に秀吉が同地を直轄地にするまで続いた。

延徳3年(1491)7月1日は足利茶々丸が家督を狙う義弟と義母を殺害し堀越公方の地位を手中にした日。享徳の乱で鎌倉公方は古河公方と茶々丸の父・政知の堀越公方の2人に別れていた。政知亡き後の堀越公方家中の混乱に乗じた伊勢宗瑞(北条早雲)による伊豆侵攻により堀越公方は2代で途絶えた。

天正17年(1589)6月5日は摺上原の戦いで伊達政宗が蘆名義広を破り南奥州を制覇した日。東側に布陣した伊達軍と西側の蘆名軍は始め蘆名軍が優勢な戦況だった。しかし強い風が西から東へかわり形成は逆転し政宗が勝利した。しかしこれは秀吉が出した私闘を禁じる惣無事令を無視する行動だった。

慶長5年(1600)5月3日は上洛要求に応じない上杉景勝を討つため家康が会津征伐を決めた日。景勝に謀反の兆候があるとして上洛して弁明を要求していた。このとき届いたのが景勝家臣・直江兼続が書いたいわゆる「直江状」。通説ではこの反論に家康が激怒して会津征伐が決まったといわれる。

慶長20年(1615)5月8日は大坂夏の陣で大坂城が落城し豊臣秀頼と淀殿が自害した日。前日までに後藤又兵衛や真田信繫らが討死し豊臣軍は壊滅状態となっていた。大坂城で焼け残った山里曲輪で最後までしたがった大野治長ら30人前後の者たちとともに自害したという。こうして豊臣家は滅亡した。

永禄10年(1567)4月18日は六角承禎・義治父子が『六角氏式目』を定めた日。家臣20人と互いに法令遵守を誓う起請文を交わした分国法。67条に起請文8条および6条追加。家臣が起草し六角氏が承認して互いに署名する異色なもの。これは主君六角氏の恣意的な施策を防ぐことが狙いという。

天正11年(1583)4月11日は北条氏照が品川の町人と百姓に農村に欠落した者を町場に戻す裁決した日。町人地と百姓地の区分があり負担回避のため町人が百姓地へ欠落し争いが起きていた。人返しは国法で相論してはならずと互いに返還を命じた。互いに入らないことと居住区の再確認も実施された。

永禄7年(1564)7月4日は日本の副王と称された三好長慶が飯盛山城にて43歳で死去した日。管領細川家の家臣でありながら主家や将軍をも凌ぎ三好政権を樹立させ信長に先んじた天下人ともいわれる。相次ぐ弟達の死や嫡男の死により心身ともに異常をきたし病になり失意の最期を迎えたという。

天正3年(1575)3月14日は織田信長が門跡・公家の借金を破棄する徳政令を出した日。信長といえば楽市・楽座で知られ安土で徳政免除など商人を保護し経済発展させた。一方で公家や寺社など旧来勢力には厳しいのかと思えばこんな配慮も。イメージと異なりバランスとった政策をしているのですね。

永禄12年(1569)4月8日は信長がイエズス会宣教師ルイス・フロイスに京都居住と布教を許可した日。理解者の足利義輝が討たれた後に京都を追われ4年ぶりの布教再開。キリシタン大名の高山友照(右近の父)らの尽力があったとか。権力者都合で保護されたり迫害されたり状況は変わるものですね。

天正3年(1575)5月21日は長篠設楽原の戦いで織田・徳川連合軍が武田軍を破った日。かつて3千丁の鉄砲隊が三段撃ちで武田騎馬隊を打ち破ったといわれたこの合戦の様子も最近では随分と違って語られる。ただ大量の鉄砲が使われ武田氏で信玄以来の多くの重臣が討死した影響は大きかったのでは。

永禄3年(1560)5月23日は桶狭間合戦後に大高城を退去した松平元康(家康)が岡崎城に帰還した日。今川義元が討たれた19日夜半に大高城を退去し翌20日に大樹寺に入っていた。岡崎城の今川軍が退去した後に入城したという。ただこれで今川家と敵対したわけでなく暫く織田方との抗争が続く。

天正3年(1575)5月16日は武田軍に捕まった鳥居強右衛門が磔にされた日。武田勝頼に包囲された長篠城から脱出。岡崎城にいる家康に援軍要請して戻ったところ捕まった。援軍は来ないと虚偽情報を城に伝えれば厚遇すると約束された強右衛門。了承したふりをして援軍が来ることを叫び城に伝えた。

永禄2年(1559)6月29日は将軍足利義輝が長尾景虎(上杉謙信)に鉄砲火薬調合法の秘伝書「鉄放薬方並調合次第」を贈った日。上洛後に腫れ物を患って坂本(大津)にいた景虎への見舞い品。もともと大友宗麟より義輝へ献上された秘伝書。景虎は義輝の信任厚く頼りにされていたことがわかる。

慶長15年(1610)2月24日は安土桃山時代を代表する絵師・長谷川等伯が72歳で死去した日。秀吉や千利休に重用され現在国宝に指定される「松林図屏風」など残した。恰幅がよく銅像のモデルにもなった武田信玄の肖像画。最近は別人とも言われますが等伯に誰を描いたのか聞いてみたいですね。

永禄4年(1561)4月23日(3月18日とも)は三好長慶の弟・十河一存が死去した日。鬼十河と敵に恐れられたが病に斃れた。不仲だった長慶の家臣・松永久秀による毒殺説も。一存に始まり一存の兄・実休、嫡男・義興を続けて失い病だった長慶は唯一残った弟・安宅冬康を誅殺した2ヶ月後に病死。

天正6年(1578)5月13日は上杉景勝と対立していた上杉景虎が春日山城を出て御館に移った日。2か月前の上杉謙信急死による後継者争い御館の乱。景虎の実家の北条氏と武田勝頼も巻き込んだ争いの始まり。翌年3月景虎が自害し景勝の勝利に終わるが越後を二分する争いは上杉氏に負の影響を残す。

天正6年(1578)6月26日は志摩の九鬼嘉隆が信長の命で作った鉄甲船が雑賀衆と淡輪水軍を破った日。鉄の装甲を備えた大安宅船は毛利水軍との第一次木津川口の戦いの敗北を受けて作られた。7隻を大坂へ回航する途中熊野灘で敵と交戦。敵は大砲で撃ち崩された後は寄り付くこともできなかった。

天文14年(1545)5月5日は徳川二十八神将の一人・内藤信成が生まれた日。武田信玄が遠江へ侵攻した際の一言坂の戦いや三方ヶ原の戦いでは本多忠勝とともに殿を務め家康の退却を助けた。関ヶ原の戦い後には家康が大御所として駿府へ移るまでの間は駿府城主となるなど信任が厚かったとされる。

天文19年(1550)4月1日は北条氏康が領内の村々に公事免除などの文書を発給した日。百姓の公事を免除するかわりに懸銭を新設した。また逃亡百姓の借銭・借米を免除したり領主による迷惑な公事の禁止なども。これまで雑多だった制度を領内広く改めた。一方的な徴収では成り立ちませんからね。

天正14年(1586)5月4は信長に反旗を翻した後に茶人となった荒木村重が死去した日。信長に従い摂津国を任されたが突如有岡城に籠城。1年徹底抗戦するも毛利家の援軍が現れず城を脱出。残された一族郎党は信長に処刑された。後に亡命先の毛利家から堺へ移って茶人となり秀吉にも起用された。

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天正9年(1581)2月23日はイエズス会巡察師ヴァリニャーノが信長に黒人奴隷を献上した日。気に入った信長は弥助と名付け武士にして側近とした。本能寺の変では二条新御所へ走り織田信忠のため戦い捕縛された。逃げ出すこともできた中で信長父子のため戦ったのは恩を感じていたのでしょうか。

文禄4年(1595)2月7日は蒲生氏郷が闘病の末40歳で死去した日。主家滅亡後13歳で信長に仕えて認められ信長次女を正室とした。本能寺の変後は秀吉に仕え奥州伊達と関東徳川の間の会津を任された。数々の逸話を持つ氏郷も病には勝てなかった。政戦両略に長けていても健康があってこそだなと。

天正18(1590)年6月20日は天正遣欧少年使節がヴァリニャーノとともに帰国し長崎に到着した日。4人の少年(伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノ)を中心とした使節団は天正10年に長崎を出発しポルトガル、スペインを経てローマでローマ教皇との謁見を果たした。

永禄3年(1560)5月12日は今川義元の本隊が尾張を目指し駿府を出発した日。全体では2万5千ともいわれる大軍で先鋒として井伊直盛や松平元康が既に出発。義元は15日に三河の吉田城、18日には尾張の沓掛城に入り最後の軍議が行われた。19日に大高城へ向かう途中の桶狭間で休息をとる。

旧暦に31日無し。慶長6年(1601)1月に徳川家康が東海道に伝馬制度を定めた。公用の書状や荷物を宿場ごとに人馬を交替で運ぶ制度。前年の関ケ原合戦勝利後に江戸を中心とした中央集権化を図り領国を越えて整備した。宿駅毎の馬の数や重量制限など。今整備する必要があることは何なのか?ですか

元亀4年(1573)4月2日は信長が柴田勝家らに命じて洛外128カ所に火を放った日。反信長で挙兵した将軍足利義昭への示威行動。2日後には上京を焼き討ちし二条御所を囲む。その後朝廷を動かし講和へ持ち込む。政治的な駆け引きのおかげで多くの避難者と死傷者が出た民衆はたまらないですよね。

元亀4年(1573)4月12日は甲斐の虎の異名で知られる武田信玄が死去した日。信長や家康が恐れた戦国大名で上杉謙信との川中島合戦は12年かけ5度も行われた。三方ヶ原で家康を破り三河へ進軍していたが病により死去。勝頼に自分の死を3年隠すことや好戦的にならず領国を守る遺言などをした。

慶長20年(1615)5月7日は真田幸村の名で知られる真田信繁が討死した日。大坂夏の陣で前日に後藤又兵衛や木村重成らを失った豊臣方。明石全登や毛利勝永らと最後の戦いに挑んだ信繁は家康が自害を覚悟したといわれる突撃を家康本陣に繰り返すも失敗。神社で休息中に西尾宗次に打ち取られた。

天正10年(1582)6月21日は尾張津島まで進軍していた家康が岡崎城に帰還した日。本能寺の変が起き伊賀越えを果たした家康は5日に岡崎城へたどり着いた。準備に手間取ったか14日にようやく出陣。織田信孝に続き羽柴秀吉から明智光秀を討伐し京周辺は平定したので帰還するよう連絡を受けた。

永禄9年(1566)2月17日は足利義輝の弟・覚慶が還俗し義秋と名乗った日。永禄の変で兄が殺害され覚慶は興福寺に幽閉。近江に脱出し還俗。越前朝倉氏に庇護され義昭と改名。信長と上洛し将軍に就任するも対立し追放。関白秀吉に臣従し将軍職辞任。僧で終わるはずの人生が兄の死から激動すぎて。