ざっくり甲陽軍鑑解説

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ざっくり甲陽軍鑑解説

甲陽軍鑑を愛読する歴史ファンです。 甲陽軍鑑関係の史跡を巡っています!甲陽軍鑑や武田信玄を中心に歴史に関するノートを投稿しています!

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【甲陽軍鑑】武田信玄公の教え:学問の重要性と心のあり方

戦国時代の名将、武田信玄公は、その卓越した戦略とリーダーシップで知られていますが、彼の教えは武士だけでなく現代の私たちにも深い影響を与えます。以下に信玄公の教えについて解説します。 甲陽軍鑑品第四十は石水寺物語として信玄に関するエピソード集のようになっています。 短いエピソードが複数書かれている章になります。 そんな品第四十からエピソードを1つ紹介します。   学問の必要性信玄公は、人間にとって学問が重要であると説きました。それを木の枝葉に例え、「人は学問を持たなければ

    • 【甲陽軍鑑】武田信玄の水害・台風対策

      信玄堤 信玄堤は、甲府市の竜王町にある、釜無川と御勅使川の合流地点に築かれた堤防です。この堤防は戦国時代の名将、武田信玄によって1541年に着工され、20年かけて完成しました。信玄堤はその革新的な工法と規模の大きさから、信玄の土木技術の象徴として知られています。 信玄が用いた工法は当時としては非常に先進的でした。御勅使川は扇状地を自由に流れていましたが、信玄はその流れをまっすぐに固定しました。具体的には、川の主流を赤石にぶつけることで水勢を調整し、流れを制御しました。 ま

      • 【甲陽軍鑑】信玄公御家中諸侍の礼三ケ条之事

        甲陽軍鑑品第三十九に書かれた「信玄公御家中諸侍の礼三ケ条之事」について紹介します。 当時の慣習を知る甲陽軍鑑には合戦や逸話だけではなく武田家中の掟や作法のようなものも記載されています。 当時の考えや慣習などを知る上では大変面白い項目となっているのでぜひ読んでみてください。 信玄公御家中諸侍の礼三ケ条之事一に諸人武運のために護摩被㆓仰付㆒修し給ふ事 二に能き忠節の武士死たるに吊被㆓仰付㆒そとはなど立給ふ事 三に御家中討死の衆に七月十四日十五日には御主殿にたなをかざり御回

        • 【甲陽軍鑑】信州・大門峠合戦

          甲陽軍鑑品第二十三に書かれた大門峠合戦を紹介します。 天文十一年(1542年)の8月と9月は、侍たちにとって貴重な休息期間でした。10月に入ると、信玄公が出陣し、大門峠の合戦に備えました。 合戦の準備が進む中、甘利備前や飯富兵部の傷も癒え、諏訪郡の城には逸見殿、南部殿、沼殿、栗原殿、日向大和守らが配置されました。また、信虎公の時代に処罰された侍たちの領地の見直しや、信虎公の財産の整理も行われました。信玄公の5年間にわたる合戦の中で、戦功を挙げた足軽たちには証文をとって手柄

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        【甲陽軍鑑】武田信玄公の教え:学問の重要性と心のあり方

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        • 【甲陽軍鑑】エピソード
          12本
        • 【甲陽軍鑑】合戦関係
          5本
        • 【甲陽軍鑑】甲陽軍鑑の考え方など
          4本
        • 【甲陽軍鑑】行ってみた
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        • 【備忘録】歴史全般
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        • 【歴史全般】行ってみた
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          【計編】孫子の兵法と甲陽軍鑑

          この記事の内容武田流兵法(甲州流兵法)の教科書である甲陽軍鑑と孫子の兵法との関わりや両書の考え方などについて、甲陽軍鑑に書かれたエピソードを交えながら紹介します。 甲陽軍鑑とは何か?と言う方はこちらの記事を参考にしてください。 孫子の兵法と武田信玄の関わり風林火山の旗 孫子の兵法と武田信玄と言えば風林火山を連想する人が多いと思います。孫子の兵法軍争篇の一節である「故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山、」から引用して風林火山の旗としています。武田信玄と言えば風林火山の

          【計編】孫子の兵法と甲陽軍鑑

          【甲陽軍鑑】山本勘介という男

          はじめに今回は甲陽軍鑑品第二十四に書かれている山本勘介に関するエピソードを紹介します。 山本勘介とは? 山本勘介は戦国時代の日本の武将です。主に武田信玄に仕え、優れた兵法家であり軍配者で武田信玄の軍師のようなポジションで紹介されることも多いです。築城も得意であり彼が伝えたとされる築城技術の遺構は現在でも確認することができます。 甲陽軍鑑品第二十四の概要・山本勘介の仕官 ・諏訪姫側室の経緯 ・武田信玄と山本勘介の問答 山本勘介の仕官天文12年(1543年)1月3日、武田家

          【甲陽軍鑑】山本勘介という男

          【甲陽軍鑑】武士の奥義

          甲陽軍鑑品第四十上に書かれているエピソードを紹介します。 ある時、信玄公の弟、一条右衛門太夫殿が山県三郎兵衛に尋ねました。「武士には、大身や小身に関わらず名誉がありますが、特別な武士の奥義があるのでしょうか?」 これに対し、山県三郎兵衛は「それは確かに決まっていることです」と答えましたが、一条殿はさらに「ぜひ、その内容を詳しく教えてほしい」と頼みました。 山県三郎兵衛は次のように説明しました。「武士としての心構えは重要ですが、戦においては、常に初めての戦いのつもりで全力

          【甲陽軍鑑】武士の奥義

          【甲陽軍鑑】武田信玄公の教え: 「遠慮」と分別の真髄

          今回は甲陽軍鑑品第四十上に書かれているエピソードを紹介します。 1. 「遠慮」の価値武田信玄公が教えた「遠慮」という概念は、単なる他人への配慮にとどまらず、自分自身の判断を深めるための重要な態度を示しています。信玄公の言葉によれば、「遠慮」は、自分一人での判断や行動が不十分であると認識し、他者の意見を取り入れることで、自分の考えをより確かなものにする方法です。自分の判断に自信がないと感じたときや、判断が偏っていると感じたときには、周囲の意見を求めることで、自分の見落としや偏

          【甲陽軍鑑】武田信玄公の教え: 「遠慮」と分別の真髄

          【甲陽軍鑑】甲信国境・瀬沢合戦

          甲陽軍鑑品第二十ニに書かれている合戦について紹介します。 瀬沢合戦天文11年(1542年)2月中旬、信濃国の大名たちは、甲州の武田晴信公に対抗するために緊急の会議を開きました。集まったのは、小笠原長時、諏訪頼重、村上義清、木曽義康の各大名です。彼らは、武田晴信公の勢力拡大に対抗するための協議を行い、その結果、甲府に出陣することになりました。 家臣たちからの提案信濃勢侵略対策のため甲府には武田家の家臣である板垣信形、飯富兵部、甘利備前、諸角豊後、原加賀守、日向大和守などが集

          【甲陽軍鑑】甲信国境・瀬沢合戦

          【甲陽軍鑑】甲州・小荒間合戦

          甲陽軍鑑品第二十一に書かれた合戦を紹介します 天文9年(1540年)、信濃国の村上義清は、甲斐国への侵攻を決意し、清野、高梨、井上、隅田ら4人の武将を先頭に、2,500余りの兵を率いて甲斐国小荒間に進軍しました。 小荒間は甲斐国への入り口として重要な地点でした。 2月18日、村上方の軍勢は小荒間周辺を焼き払いましたが、当時はまだ雪が深く、他国から来た軍勢は思うように動けませんでした。 武田晴信は、この状況を見逃さず、地元の人々に雪かきを命じ、急いで出陣しました。そして同

          【甲陽軍鑑】甲州・小荒間合戦

          【甲陽軍鑑】話を聞く姿勢で分かる本性

          甲陽軍鑑品第四十は石水寺物語として 武田信玄に関するエピソード集のようになっています。 そんな品第四十からエピソードを1つ紹介します。   話の聞き方で見抜く人柄戦国時代の名将、武田信玄に仕えた兵法書『甲陽軍鑑』には、侍の資質を見極めるための示唆が多く含まれています。その中でも特に注目すべきは、話を聞く態度に表れる人間の性質についての教えです。子供時代からの態度が、将来どのような人物になるかを示唆しているというのです。  ある場面で、合戦経験豊富な三人の武士が集まり、武

          【甲陽軍鑑】話を聞く姿勢で分かる本性

          【甲陽軍鑑】信州・海尻合戦

          甲陽軍鑑品第二十に書かれた戦いを紹介します。信州海尻の合戦 天文9年(1539年)の正月晴信の重臣である板垣信形の巧妙な策略により、信州海尻の侍たちを説得し、晴信の陣営へと引き入れることに成功します。これにより、海尻の城は無血で開城され、晴信に献上されました。 海尻の本城の守備は、日向大和守が二の丸、長坂左衛門と三の丸を担当しました。 本丸の守備は板垣信形、飯富兵部、甘利備前守、小山田備中の4人の家臣によって分担されることになり、くじ引きの結果、小山田備中がその責務を担

          【甲陽軍鑑】信州・海尻合戦

          【甲陽軍鑑】甲州・韮崎合戦

          甲陽軍鑑品第十八に書かれた戦いを紹介します。甲州・韮崎合戦は、1538年(天文7年)に、信州の諏訪頼茂と小笠原長時が、甲斐国の内紛に乗じて侵攻した戦いです。この内紛の背景には、甲斐国を治めていた武田信虎と、その長男・晴信(後の武田信玄)の対立がありました。信虎は次男を後継者にしようとしたため、晴信との親子仲が悪化し、最終的に晴信が今川義元の助力を得て父を駿河に追放しました。この状況を知った諏訪頼茂と小笠原長時は、甲斐国内の混乱を好機と見て、甲斐一国の支配を狙って軍を動かしたの

          【甲陽軍鑑】甲州・韮崎合戦

          【甲陽軍鑑】武田信玄、13歳にして見せたリーダーシップ

          甲陽軍鑑品第六に書かれている武田信玄のエピソードを紹介します! 武田信玄が13歳の頃、彼の姉である今川義元の奥方から、信玄の母親に貝合わせのための蛤(はまぐり)が贈られました。信玄は当時「勝千代殿」と呼ばれていました。 信玄の母親は上役の者に命じて、この蛤を大きいものと小さいものに分けさせました。大きな蛤を選んで献上した後、残った小さい蛤は畳二帖分の広さをほとんど埋め尽くし、その高さは約30センチにも達しました。 信玄が家臣たちにこの蛤の数を数えさせたところ、全部で37

          【甲陽軍鑑】武田信玄、13歳にして見せたリーダーシップ

          【甲陽軍鑑】積翠寺に行ってみた

          積翠寺とは?積翠寺は武田家3代の居館である躑躅ヶ崎館の北側にあるお寺です。 1521年に今川家が甲斐国へ1万5千の大軍で侵攻し、武田信虎は飯田河原で戦うことになりました。このときの武田軍は2千ほどの兵数でした。 飯田河原は躑躅ヶ崎館から近距離のため武田信玄を身籠ってた大井夫人は積翠寺に避難してそこで信玄を産むことになります。 (積翠寺のすぐ近くの要害城で生まれたという説もあります。) 少ない兵数ながらも信虎は今川勢に勝ち、その際に武田信玄が生まれたことから、信玄は幼少

          【甲陽軍鑑】積翠寺に行ってみた

          【甲陽軍鑑】高坂弾正という男 

          高坂弾正について 戦国時代、数多くの名将が活躍した中で、高坂弾正という人物がいます。甲陽軍鑑の制作者の1人でもある彼の人生は、多くの人々にとって驚きと感動をもたらすものでした。今回は、甲陽軍鑑品第五に書かれた高坂弾正の物語を紹介します。 臆病者と呼ばれた青年 高坂弾正は、信玄公の家臣の中で「一番の臆病者」として知られていました。その理由は、下々の者たちが「保科弾正は鑓弾正、高坂弾正は逃げ弾正」とからかっていたからです。実は、彼は春日大隅という甲州伊沢の大百姓の息子でした。

          【甲陽軍鑑】高坂弾正という男