ざっくり甲陽軍鑑解説

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ざっくり甲陽軍鑑解説

甲陽軍鑑を愛読する歴史ファンです。 甲陽軍鑑関係の史跡を巡っています!甲陽軍鑑や武田信玄を中心に歴史に関するノートを投稿しています!江戸時代の兵法にも興味があります!YouTubeでざっくり甲陽軍鑑解説をしています!

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【甲陽軍鑑】武田信玄公の教え:学問の重要性と心のあり方

戦国時代の名将、武田信玄公は、その卓越した戦略とリーダーシップで知られていますが、彼の教えは武士だけでなく現代の私たちにも深い影響を与えます。以下に信玄公の教えについて解説します。 甲陽軍鑑品第四十は積水寺物語として信玄に関するエピソード集のようになっています。 短いエピソードが複数書かれている章になります。 そんな品第四十からエピソードを1つ紹介します。   学問の必要性信玄公は、人間にとって学問が重要であると説きました。それを木の枝葉に例え、「人は学問を持たなければ

    • 【甲陽軍鑑】甲州・韮崎合戦

      甲陽軍鑑品第十八に書かれた戦いを紹介します。甲州・韮崎合戦は、1538年(天文7年)に、信州の諏訪頼茂と小笠原長時が、甲斐国の内紛に乗じて侵攻した戦いです。この内紛の背景には、甲斐国を治めていた武田信虎と、その長男・晴信(後の武田信玄)の対立がありました。信虎は次男を後継者にしようとしたため、晴信との親子仲が悪化し、最終的に晴信が今川義元の助力を得て父を駿河に追放しました。この状況を知った諏訪頼茂と小笠原長時は、甲斐国内の混乱を好機と見て、甲斐一国の支配を狙って軍を動かしたの

      • 【甲陽軍鑑】武田信玄、13歳にして見せたリーダーシップ

        甲陽軍鑑品第六に書かれている武田信玄のエピソードを紹介します! 武田信玄が13歳の頃、彼の姉である今川義元の奥方から、信玄の母親に貝合わせのための蛤(はまぐり)が贈られました。信玄は当時「勝千代殿」と呼ばれていました。 信玄の母親は上役の者に命じて、この蛤を大きいものと小さいものに分けさせました。大きな蛤を選んで献上した後、残った小さい蛤は畳二帖分の広さをほとんど埋め尽くし、その高さは約30センチにも達しました。 信玄が家臣たちにこの蛤の数を数えさせたところ、全部で37

        • 【甲陽軍鑑】積翠寺に行ってみた

          積翠寺とは?積翠寺は武田家3代の居館である躑躅ヶ崎館の北側にあるお寺です。 1521年に今川家が甲斐国へ1万5千の大軍で侵攻し、武田信虎は飯田河原で戦うことになりました。このときの武田軍は2千ほどの兵数でした。 飯田河原は躑躅ヶ崎館から近距離のため武田信玄を身籠ってた大井夫人は積翠寺に避難してそこで信玄を産むことになります。 (積翠寺のすぐ近くの要害城で生まれたという説もあります。) 少ない兵数ながらも信虎は今川勢に勝ち、その際に武田信玄が生まれたことから、信玄は幼少

        【甲陽軍鑑】武田信玄公の教え:学問の重要性と心のあり方

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        • 【甲陽軍鑑】エピソード
          7本
        • 【甲陽軍鑑】行ってみた
          5本
        • 【甲陽軍鑑】甲陽軍鑑の考え方など
          3本
        • 【備忘録】歴史全般
          1本
        • 【歴史全般】行ってみた
          1本

        記事

          【甲陽軍鑑】高坂弾正という男 

          高坂弾正について 戦国時代、数多くの名将が活躍した中で、高坂弾正という人物がいます。甲陽軍鑑の制作者の1人でもある彼の人生は、多くの人々にとって驚きと感動をもたらすものでした。今回は、甲陽軍鑑品第五に書かれた高坂弾正の物語を紹介します。 臆病者と呼ばれた青年 高坂弾正は、信玄公の家臣の中で「一番の臆病者」として知られていました。その理由は、下々の者たちが「保科弾正は鑓弾正、高坂弾正は逃げ弾正」とからかっていたからです。実は、彼は春日大隅という甲州伊沢の大百姓の息子でした。

          【甲陽軍鑑】高坂弾正という男 

          【甲陽軍鑑】新府城に行ってみた

          新府城とは新府城は武田勝頼公によって 七里岩台地に1581年に築城されたお城です。 甲陽軍鑑には有名な 「人は城、人は石垣、人は堀」の 一節があります。 武田信玄は館を構えるだけで 本拠地には大きな城郭を作りませんでした。 武田勝頼の代になると 外交状況や情勢が変わり 新たに本拠地となるお城が必要となりました。 それが新府城です。 1581年に築城されましたが 武田氏は1582年に滅亡しています。 織田家の侵攻のため、勝頼の入城から68日で火を放ち燃えてしまうことにな

          【甲陽軍鑑】新府城に行ってみた

          【甲陽軍鑑】無傷で500人を討ち取る真田の計略

          真田一族について 真田と言えば戦国時代好きならほとんどが知っている一族ですよね。  大阪夏の陣の活躍により日の本一の兵と呼ばれた真田信繁。  そのお父さんの真田昌幸は上田城での攻防戦で徳川軍に2度勝利しています。  信繁のお兄さんの真田信之は初代松城藩主となり93歳まで長生きし、それぞれが歴史の舞台で大活躍をしています。  今回紹介する甲陽軍鑑エピソードの主役は真田信繁のお爺さん真田幸隆になります。 真田幸隆の計略 甲陽軍鑑品第廿十七、武田信玄が信濃侵攻を行い村上義

          【甲陽軍鑑】無傷で500人を討ち取る真田の計略

          【甲陽軍鑑】信虎追放事件年号の誤りに見るロマン

          ○武田信虎追放事件とは 武田信玄は父武田信虎を甲斐国外へ追放する事で家督相続をし、戦国大名として活躍することになります。信虎虎追放の時期については甲陽軍鑑が天文7年(1538年)としているのに対し、信憑性の高い資料として扱われる他の資料は天文10年(1541年)としています。 武田信虎の追放については、通説の前年に天文の飢饉(天文9年1540年)が起こり、飢饉に上手く対応出来なかったため追放に至った説や信虎自身の横暴さを原因とする説、外交姿勢に反対があった説、父子の不仲

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          【備忘録】荘園(律令制)

          【備忘録】荘園(律令制) ○なぜ律令制度を取り入れたか。 白村江の戦い(663年)で大敗。 唐の存在による国際関係が緊張。 国力増強のため中央集権的な統治が必要となった。 律令の律は刑法、令は行政法 ○土地制度・税制 律令制 公地公民の原則。国が土地と人を管理。 浄御原令(689年) 班田収授について記載あり。 班田 田を農民に与えること。 口分田 6歳以上に与えた田。死ぬで所有で売買不可。死ぬと国に返す。 条理制 口分田を割り当てるための区割り。碁盤上目状に配置

          【備忘録】荘園(律令制)

          【甲陽軍鑑】典厩寺に行ってみた

          武田信玄の弟武田信繁のお墓がある典厩寺に行ってきました!典厩は長野県長野市篠ノ井杵淵1000番地にあるお寺です! 1.武田信繁とは? 武田信玄の弟であり、官職である左馬助の唐名より典厩(てんきゅう)とも呼ばれています。典厩寺の典厩はここから来ています。武田信玄の信濃侵攻に大将として出陣することもあり、甲陽軍鑑では「毎事相整う真の副将なり」との記述があり、武田信玄を支えた副将として高く評価されています。有名な第四次川中島の戦いで討ち死にしています。 2.武田信繁家訓甲陽軍鑑

          【甲陽軍鑑】典厩寺に行ってみた

          【甲陽軍鑑】75回も訴訟をした男に学ぶ武士道

          【甲陽軍鑑】 75回も勝訴を起こした男 《目次》 1.甲陽軍鑑のエピソード 2.75回の訴訟をした男 3.武田信玄から見た曲淵 4.武田信玄が許した理由 5.凝縮されたキーワード 1.甲陽軍鑑のエピソード  甲陽軍鑑は戦国時代の武将、武田信玄・勝頼の歴史を語り、「武士道」という言葉が日本で最初に記された書物です。  甲陽軍鑑は江戸時代には軍学の教科書として使用され「武士道」とは何なのかを伝える役割を担ってきました。  そういった書物であることから「武士道」とは何なの

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          【甲陽軍鑑】妻女山に行ってみた

          川中島の戦いで上杉軍が着陣した山 妻女山現地の紹介記事です。 目次 1.甲陽軍鑑での妻女山 2.実際に行ってみた! 1.甲陽軍鑑での妻女山 川中島の戦いは5回行われています。武田信玄と上杉謙信の一騎打ちで有名な川中島の戦いは4回目の戦いにで1961年のできごと。妻女山は上杉謙信が着陣した山になります!実は甲陽軍鑑には妻女山と言う名前では登場しません。西条山と表記されて登場します。西条山という表記はどうやら誤りのようで妻女山の名前については諸説あります。 2.実際に行っ

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          川中島の戦いデジタルスタンプラリー

          長野市さんで開催している 「川中島の戦いデジタルスタンプラリー」に 参加してきました! ↓イベント詳細はこちらから 開催期間 2024年3月19日(火)~2024年6月23日(日) 景品 ①リアルトレカ ②デジタルNFTカード 3、6、9箇所達成でそれぞれ景品がもらえます ※数量限定となります ※カードの絵柄は選べません スタンプラリーで 9箇所を回るとカードがもらえるということで 歴史ファンとしては行くしかない! と言う事で早速出陣! ※ここからはスタンプラリーにつ

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          【甲陽軍鑑】海尻城跡に行ってみた

          甲陽軍鑑に記載のある海尻城跡に行ってきました!海尻城跡は長野県南牧村にあります! ●目次 1甲陽軍鑑での海尻城 2海尻城を建てたのは? 3実際に行ってみた! 4まとめ 1甲陽軍鑑での海尻城エピソード 主に甲陽軍鑑 品第二十に海尻城は登場します。 品第二十二、二十三にも話題にあがりますね。 エピソードは次の通りです。 天文9(1540)年1月16日、武田家重臣板垣信方の知略をもってこの城を攻略しました。 本丸を小山田備中守昌行(父昌辰説有り。)、二の丸を日向大和守

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          甲陽軍鑑 各品の概要まとめ

          各品の概要まとめ 甲陽軍艦は品第一から品第五十九までの章に分かれて構成されています。 基本的には信虎から勝頼までを追って記述されていますが、所々で時系列がいったりきたりします。 何の話がどこの品にあったかを覚えるのため、あくまで個人のメモとして簡単にまとめてみました。 簡易的にまとめたものなので随時更新できたら良いです。 甲陽軍艦がどういうものかは前の記事を読んでいただけたらと思います。 【各品概要まとめ】 ○品第一 ・甲州法度 ○品第二 ・典厩異見九十九カ条

          甲陽軍鑑 各品の概要まとめ

          甲陽軍鑑の取り扱いについて

          【甲陽軍鑑】甲陽軍鑑の取り扱い目次 1.甲陽軍鑑とは 2.甲陽軍鑑の読み方 3.甲陽軍鑑の歴史的資料価値 4.甲陽軍鑑の取り扱い 5.甲陽軍鑑のあれこれ 1.甲陽軍鑑とは   甲陽軍鑑とは武田信玄・勝頼の歴史や軍学を記述した軍学書です。武田家家臣である高坂弾正昌信(春日虎綱)の口述を甥である春日惣次郎と春日家臣大蔵彦十郎が文字に起こし、それらを小幡景憲が編纂し甲陽軍鑑として成立をさせました。  文体の特徴として高坂の語り口調で記述される箇所や高坂自身の自己紹介や過去などに

          甲陽軍鑑の取り扱いについて