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【甲陽軍鑑】75回も訴訟をした男に学ぶ武士道

【甲陽軍鑑】
75回も勝訴を起こした男

《目次》
1.甲陽軍鑑のエピソード
2.75回の訴訟をした男
3.武田信玄から見た曲淵
4.武田信玄が許した理由
5.凝縮されたキーワード

1.甲陽軍鑑のエピソード

 甲陽軍鑑は戦国時代の武将、武田信玄・勝頼の歴史を語り、「武士道」という言葉が日本で最初に記された書物です。

 甲陽軍鑑は江戸時代には軍学の教科書として使用され「武士道」とは何なのかを伝える役割を担ってきました。

 そういった書物であることから「武士道」とは何なのかを伝えるためのエピソードが散りばめられており、今回はその中の1つのエピソードを紹介します。当時の武士達がどのように「武士道」を伝えられたのかを感じられます。

2. 75回の訴訟をした男

武田家臣に曲淵吉景という男が居ました。一言で言うならば正論モンスターです。曲がったことが嫌いであり、生涯75回の訴訟を起こしました。(ちょっとやり過ぎじゃないかな⁉︎)

 訴訟の戦績は1勝1和解で後は全敗ででした。ある敗訴のとき、訴訟を担当する奉行に対して「賄賂が足りなかったから訴訟に負けた」と騒ぎたてました。奉行の中には武田信玄と親類である桜井安芸守も居ましたがお構いなしです。

 桜井安芸守に対しては「身分もそちらの方が高いが斬り合ったら負けない」といった趣旨のことを言い放ちます。曲淵は武勇の者で武田信玄もお気に入りの家臣だから誰も何も言えずにそのまま帰らしてしまいます。

 武田信玄は桜井安芸守と奉行達の暗い顔を見て何かあったかを尋ねます。桜井安芸守は訴訟後の件について、「曲淵を成敗してくださらないなら訴訟に関する仕事を降ろさせれてください」と泣いて話します。武田信玄は桜井の言う事はもっともだとしつつ最終的には曲淵をお咎め無しにしてしまうのです。

3.武田信玄から見た曲淵

 曲淵という男は武功はもちろんのこと忠義に厚い男でした。重臣板垣信方に恩があり、板垣信方の息子板垣弥次郎が不行跡により、武田信玄の怒りを買い、寺に預けられた際は恩のある板垣信方の息子という事で付き従ったりもしています。

 その後、板垣弥次郎が軽率な行いにより切り殺されてしまう事件が起こると板垣弥次郎の行いが原因であるのですが曲淵は武田信玄の手の者の殺害であると思い、武田信玄と直接文句を言いに行きます。曲淵は武田信玄と話をして誤解であると理解をしました。
 この事から忠義に厚い男であると武田信玄は誉めます。また、文字も読めない曲淵が僧に教わりながら奉公に励むため摩利支天の経を読んでいる事が他の家臣から武田信玄の耳に入っており、忠臣の良き姿であると武田信玄は評価しもいます。

4.武田信玄が許した理由

 武田信玄は曲淵を猫であると評しています。「猫は可愛がっても炉に糞をするし、飼っている鳥を襲う。曲淵は猫だ。でも鼠を取るのは上手い。」

 さらに「武功もあり忠義や奉公心に厚い曲淵を成敗してしまったら、若い家臣が曲淵ほどの武功者でも最後は成敗されてしまう。自分たちもそうなるのだろうと家臣たちの気持ちも下がり、結果として武田家の弱体化に繋がる」とも話しています。

 桜井安芸守たちには「人材は大切にするべきだから、堪忍を考えてくれ」と今回の件は許してやってくれと話を終わらせ、桜井安芸守と奉行たちが武田信玄の言葉を受け、それぞれの道で奉公に励むように覚悟し、感涙したと締め括られています。

5.凝縮されたキーワード

 曲淵のエピソードの中には恩に対する忠義や武功はもちろんの事、勉学に励む姿勢、奉公に対する姿勢の美学が説かれています。「武士道」とは何なのか。そのキーワードを凝縮したようなエピソードといった印象を私は持っています。

 また、最後には「それぞれの道でご奉仕に励む」と締め括られており、甲陽軍鑑には人はそれぞれ使い所があるといった趣旨の記述があり、人はそれぞれ得意不得意があるが、それぞれが出来ることを励めというメッセージを感じます。

 軍学の教科書としてのエピソードとしてはとても良くできた話ですよね!このエピソードが事実でも事実で無いとしても、武士としての奉公について1つの指針を示す事ができていると思います!

 甲陽軍鑑にはこの様に武士としてこう考えべきなのでは?といった事をやんわりと伝えてくるエピソードが多々あります!現代に生きる私たちにとっても参考になるエピソードや考えがあるので追々紹介していきたいです!

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