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【甲陽軍鑑】甲州・韮崎合戦

甲陽軍鑑品第十八に書かれた戦いを紹介します。

甲州・韮崎合戦は、1538年(天文7年)に、信州の諏訪頼茂と小笠原長時が、甲斐国の内紛に乗じて侵攻した戦いです。この内紛の背景には、甲斐国を治めていた武田信虎と、その長男・晴信(後の武田信玄)の対立がありました。信虎は次男を後継者にしようとしたため、晴信との親子仲が悪化し、最終的に晴信が今川義元の助力を得て父を駿河に追放しました。この状況を知った諏訪頼茂と小笠原長時は、甲斐国内の混乱を好機と見て、甲斐一国の支配を狙って軍を動かしたのです。

7月19日、諏訪軍と小笠原軍は合計9,600の兵を率いて甲斐国韮崎に侵入し、四度にわたる激しい戦闘が行われました。これに対し、甲州側の武田晴信は、わずか6,000の兵で応戦しました。晴信は、この時わずか18歳でありながらも、父を追放した直後の不安定な状況で指揮を執ることとなりました。

戦いは、飯富兵部、甘利備前、小山田古備中、板垣信形といった重臣たちが率いる部隊がそれぞれ勝利を収め、四度にわたる戦闘を通じて、信州軍を次第に追い詰めていきました。しかし、最終局面では、甲府の留守役である原加賀守が、西郡・東郡の地元住民や甲府町人を集め、古い武具や竹槍を持たせた5,000の兵でで戦場に押しかけました。この増援により、敵軍はついに崩れ、晴信は見事に勝利を収めました。

この韮崎合戦は、武田晴信(信玄)がその武勇を世に知らしめた最初の大きな戦いでした。特に、小幡山城は三度の戦闘で一番槍を立て、四度目には敵中に突入して七か所の傷を負いながらも、見事な戦功を挙げました。その功績は信玄公にも認められ、感状を授けられました。

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