見出し画像

【計編】孫子の兵法と甲陽軍鑑

この記事の内容

武田流兵法(甲州流兵法)の教科書である甲陽軍鑑と孫子の兵法との関わりや両書の考え方などについて、甲陽軍鑑に書かれたエピソードを交えながら紹介します。

甲陽軍鑑とは何か?と言う方はこちらの記事を参考にしてください。

孫子の兵法と武田信玄の関わり

風林火山の旗

孫子の兵法と武田信玄と言えば風林火山を連想する人が多いと思います。孫子の兵法軍争篇の一節である「故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山、」から引用して風林火山の旗としています。武田信玄と言えば風林火山の旗のイメージが強いですよね。

武田信玄と孫子の兵法にはどんな繋がりがあったのか。
話は信玄よりも前の時代に遡ることになりますが
まずは甲陽軍鑑の記述を覗いてみます。

信玄公御旗(甲陽軍鑑品第四十三)

孫子の旗については甲陽軍鑑品第四十三に「信玄公御旗」として記述があります。

甲陽軍鑑によると風林火山の旗は川中島の戦いより使用していた事が分かります。以下、甲陽軍鑑の記載を紹介します。

「信玄公御旗」
赤地に八幡大菩薩の旗二本
赤地に将軍地蔵大菩薩の旗二本 
武田二十七代迄之御旗一本

其疾如㆑風 其静如㆑林 
侵掠如㆑火 不㆑動如㆑山

是は黒地に、金を以て此四ツの語を書給ふ、旗は四方也、此旗共に以上六本なり、川中島合戦から此旗を被㆑成又味方が原にて家康信長に勝て、殊に信長と手ぎれ有りて、東美濃発向の時此語を右のはたにいれ給ふ

天上天下 唯我独尊
右之古事を入てはたの仕やうは

其疾如㆑風  其静如㆑林  侵掠如㆑火  不㆑動如㆑山  天上天下  唯我独尊

 如㆑此御旗は、天正元年酉の三月もたせはじめられ、同四月十二日に御他界なり

此六本の御旗奉行一人、惣旗奉行一人それによりて二人也

右六本の御旗の内には、尊師
【尊師ハ孫子ナルベシ】の旗を肝要なり、口伝

源氏と孫子の兵法の故事

武田信玄より前の時代、源氏と孫子の兵法に関する故事を紹介します。

「日本兵法史上巻 石岡久夫 著」の一節を引用します。

※『』内引用文献
『源義家が大江匡房に兵法を学び、飛雁の列を乱すのを見て伏兵があるのを知り、勝利を得たという故事(『古今著聞集』武勇第十二)は、白河天皇の永保年間(一〇八一~一〇八三)にあった奥州後三年役(秋田県横手市金沢付近)のときの伝説であって、一般周知のことである。これは『孫子』行軍第九にある「鳥起者伏地、獣者覆也」という兵法知識を実戦に利用したことを証するものであるが、当代随一の頑学と称せられた大江国房が『孫子』を始めとする中国の兵法哲理に精通していたことを示すものである。それ以来大江家は兵法学に縁のある家と考えられるに至った。中世以後兵法家において信奉された伝説によれば、中国兵法の伝来系譜はほとんど大江系統に集約されるとともに、他方義家以後源氏に伝流するものである。』

この故事から源氏に孫子が伝わった事が分かります。

甲斐源氏の祖は源義光です。源義光は源義家の弟に当たります。源義家に孫子の兵法が伝わったことにより後世の武田家にも影響を与える事になったのです。

孫子の兵法とは

孫子の兵法と甲陽軍鑑について話をする前に孫子の兵法とは何かを紹介します。

「孫子の兵法」は、中国の古代戦略書で、戦争や戦術についての理論を述べた書物です。紀元前5世紀ごろ、兵法家の孫子(孫武)が著したとされています。この書物は、戦争の戦略、戦術、兵の管理、敵の分析など、戦争に勝つための原則や方法を詳しく解説しています。現在でも軍事戦略やビジネス戦略に応用されることが多いです。

「孫子の兵法」は、全13章から成り立っています。それぞれの章では異なる戦争や戦術に関する原則が説明されています。章の構成は以下の通りです。

計篇:戦争を計画する際の基本的な戦略と考慮すべき要素について。

作戦篇:戦争の実施方法と作戦の運用に関する指針。

謀攻篇:敵を騙し、戦わずして勝つための策略や計略。

形篇:戦いの形態や戦場の状況に応じた戦術。

勢篇:勢いを利用した戦術や軍の配置。

虚実篇:戦争の中での実際の動きと虚偽の使い方。

軍争篇:軍隊の運営と指導に関する指針。

九変篇:戦局の変化に応じた対応方法。

行軍篇:軍隊の移動と行動に関する考慮事項。

地形篇:地形や地理的要素が戦争に与える影響。

九地篇:戦場の九つの異なる地形とそれに対する対応。

火攻篇:-火攻めを含む攻撃の方法とその戦術。

用間篇:諜報活動やスパイの活用に関する指針。

孫子の兵法と甲陽軍鑑

今回は孫子の兵法「計編」と甲陽軍鑑の内容について考えていきたいと思います。まずは孫子の兵法「計編」を紹介します。

孫子の兵法 計篇書下文


 孫子曰わく、兵とは国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざるべからざるなり。

 故にこれを経るに五事を以てし、これを校ぶるに計を以てして、其の状を索む。

 一に曰わく道、二に曰わく天、三に曰わく地、四に曰わく将、五に曰わく法なり。

 道とは、民をして上と意を同うし、これと死すべくこれと生くべくして、危わざらしむるなり。 
 天とは、陰陽・寒暑・時制なり。
 地とは、〔遠近・険易・死生なり。
 将とは、智・信・仁・勇・厳なり。法とは、曲制・官道・主用なり。

 凡そ此の五者は、将は聞かざることなきも、これを知る者は勝ち、知らざる者は勝たず。

 故に、これを校ぶるにするに計を以てして、其の情を索む。

 曰わく、主 孰れか賢なる、将 孰れか能なる、天地 孰れか得たる、法令 孰れか行なわる、兵衆 孰れか強き、士卒 孰れか練いたる、賞罰 孰れか明らかなると。  

 吾、これを以て勝負を知る。


 将 吾が計を聴くときは、これを用うれば必ず勝つ、これを留めん。

 将 吾が計を聴かざるときは、これを用うれば、必ず敗る、これを去らん。

 計、利として以て聴かるれば、乃ちこれが勢を為して、以て其の外を佐く。

 勢とは利に因りて権を制するなり。 


 兵とは詭道なり。

 故に、能なるもこれに不能を示し、用なるもこれに不用を示し、近くともこれに遠きを示し、遠くともこれに近きを示し、利にしてこれを誘い、乱にしてこれを取り、実にしてこれに備え、強にしてこれを避け、怒にしてこれを撓し、其の無備を攻め、その不意に出ず。

 此れ兵家の勝にして、先きには伝うべからざるなり。


 夫れ未だ戦わずして廟算して勝つ者は算を得ること多ければなり。

未だ戦わずして廟算して勝たざる者は、算を得ること少なければなり。

算多きは勝ち、算少なきは勝たず。

而るを況や算なきに於いてをや。

吾れ此れを以てこれを観るに、勝負見わる。

孫子の兵法 計編 現代語訳


 孫子が言うには: 戦争は国にとって非常に重要な事柄であり、死と生、存続と滅亡がかかっているため、よく考えて戦争をする必要があります。だからこそ、戦争を始める前には、以下の五つの要素を考慮し、それに基づいて計画を立て、状況をしっかりと把握しなければなりません。

道: これは民衆が大将と目標を共有し、命をかけて戦う意志を持つことを意味します。民衆と大将の考えが一致し、戦争の目的を理解していることが重要です。

天: これは天候や季節などの自然条件です。陰陽、寒暖、時間の流れなどが戦争に与える影響を考慮します。

地: これは戦場の地形や距離のことです。地形の険しさや戦場の位置など、地理的な条件を把握することが求められます。 

将: これは指揮官の資質です。智恵、信頼、仁愛、勇気、厳格さなど、指揮官の能力が重要です。

法: これは軍の規律や組織に関する法律です。規律、官僚制度、指導者の指示の実行などが含まれます。 

 これらの五つの要素は、どの将軍も知っておくべきものですが、これを理解し、適切に評価できる者が勝利を収め、理解できない者は敗北するでしょう。

したがって、戦争を始めるにあたっては、計画を立ててその状況を詳しく調べるべきです。 具体的には、次の点を評価します:

主君は誰が賢いか
将軍は誰が優れているか
天候や地形はどれが有利か
法令や規律はどれが整っているか
軍勢はどれが強いか
兵士たちはどれが訓練されているか
賞罰の基準はどれが明確か
これらの要素を評価することで、戦争の勝敗を判断することができます。


 指揮官が私の計画を受け入れるなら、その計画を実行することで必ず勝てるでしょう。そのため、この国に留まる。

しかし、指揮官が計画を受け入れないなら、その計画を実行しても必ず負けてしまいます。その場合はこの国を去ります。

計画は実際に利益が見込めるかで判断されるべきです。利益に基づいて計画を実行することで、その計画の力を引き出し、状況を有利に進めることができます。


 戦争とは敵を欺く事です。

 だから、できることをできないように見せ、役立つことを役立たないように見せ、近くにいると遠くにいるように見せ、遠くにいると近くにいるように見せる。利益を示して相手を誘い、混乱を引き起こして相手を捉え、実際には十分に備え、強いと見せかけて避け、相手を怒らせて動揺させる。そして、相手の無防備なところを攻撃し、予想外のタイミングで出撃する。

戦況は変わるので状況に応じて対応が必要となるので先に伝えるものではない。


 戦わずして勝利する者は、事前に十分な計画や準備をしているからです。戦わずして勝利できない者は、計画や準備が不足しているからです。計画や準備が多ければ勝利し、少なければ勝利しません。ましてや、計画や準備が全くなければ勝つのは難しいでしょう。これを基にして戦争の勝敗を判断できます。

計編と甲陽軍鑑

道と甲陽軍鑑

「計篇」は戦争を実施する前の段階での準備と計画の重要性を説き、成功するための基盤を築くことを目的としています。

五つの要素の内「道」では民衆と大将が同じ意識や目的を持つ事の重要性が書かれています。

甲陽軍鑑にも意識をしてか、武田信玄や家臣、領民が同じ意識や目的を共通認識として持てるような記述が確認できます。

該当する品はこちらです。

甲陽軍鑑品第一 甲州法度次第
甲陽軍鑑品第二 典厩異見九十九カ条

甲州法度次第は領国内の法律です。
この法律の特徴的な点は武田信玄にも適用されました。

甲州法度次第 55条

「晴信於​テ㆓行儀其​ノ外之法度以下​ニ㆒有​ラハ㆓旨趣相違​ノ事㆒者、不㆑撰​バ㆓貴賤​ヲ㆒、以​テ㆓目安​ヲ㆒可​シ㆑申、依​テ㆓時宜​ニ㆒可​キ㆓其、覚悟​ス㆒者也」

(信玄行儀その外の法度以下において、意趣相違を撰ばず目安をもって申すべし。時宣によりその覚悟をなすべし)

武田信玄は同じ意識で同じ目的(規律)に従う事をを実践しています。

典厩異見九十九カ条は家訓ですが
道徳的や規範的な内容が多く
家臣一同がどういう意識で奉公に励むかを示すものになります。

意識をしていたのかは不明ですが
孫子の兵法で言う「道」について
甲陽軍鑑の冒頭から記述があることになります。

「計篇」は戦争を実施する前の段階での準備と計画の重要性を説き、成功するための基盤を築くことを目的としていますが

戦をする前の段階で武田信玄や
家臣、領民の意識や行動の統一を事前に行う事で
領国統治はもちろん戦争を有利にする側面があったのだと思います。
まさに徹底した事前の準備です。

戦争は騙し合いだけれども

「兵とは詭道なり」とあるように戦争は騙し合い、欺きあいの繰り返しです。

あらゆる情報戦術で相手を出し抜き戦争に勝利をする事が孫子でも説かれています。

甲陽軍鑑にはそれに道徳的なニュアンスを補足するかのような一文があります。

甲陽軍鑑品第七
「口にて偽いつはりを云は口の盗、主の使に行とて私の用にわきへよりて久しく居り遅参して主を待せ遅く返事を申は足の盗と是を云ふ侍武略仕る時は虚言を専と用る者也それを偽と云は不㆑知㆓案内」

意訳をすると
嘘をついて人を騙すを事はは良くない事である。しかし、武士が武略として嘘をつくのはごく当たり前である。嘘や騙し事がなんでも悪だというのであれば、その者は武略を知らないな武士である。

戦争での嘘と日常での嘘には違いがある事を示しています。

武士道という言葉は甲陽軍鑑が初出

孫子の兵法と甲陽軍鑑の違いの一つに武士道精神があると思います。

孫子の兵法は戦争についてできるだけ戦わずに勝つ事を示している兵法書です。

甲陽軍鑑は兵法はもちろんのこと武士道という武士の思想についても示している兵法書となります。

武士道は日本独自の考え方です。
先程の嘘について、道徳エッセンスが加わっているように武士のあるべき姿について示された書物が甲陽軍鑑です。

甲陽軍鑑に出てくる武士道のセンテンスを抜粋して掲載します。

甲陽軍鑑/品第六
御歳増し次第に先へ之を書く若し此反古落散他国の人之を見て我寺の仏尊しと思やうに書ならば武士の道にて有まじきなり弓矢の儀は唯敵みかた共に賁なくありやうに申をくこそ武道なれかざりは女人或は商人の法なり一事をかざれば万事の実皆偽也天鑑無㆑私 

甲陽軍鑑/品第七
のしわざなり其㆑猶女の如し女人は多分理を不㆑知、知と云共男中の分別程にも劣りなん直なる女は千人に一二人も有ぞせん然る故にや理非をしらずつたなき武士を女にはたとへたり右に云ふ武略の虚言不​(ト)㆑苦云は国を持給ふ主君へさしそへての義なり国を持大将人の国をうばひ取給ふこと国に罪はなけれ共武士の道

甲陽軍鑑/品第十一
介は牢人にて草履取さへ一人つれねばそしる人こそ多けれども能く申立る人もなし是れは今川殿御家にて万づ執失ない御家末に成り武士の道無案内ゆへ山本勘介身上の批判散々あしきさたならん既に臨済寺雪山和尚唐の物の本にて義元公へ異見の間は駿河遠州三河…

甲陽軍鑑/品第十二
るごとく時により町人侍の真似を仕つりても商人の意地失せずしてケ様の威勢の時物をしため奥々引つこまんと思ふて武士道の役に立つこと聊かもなし無分別にて口たけてもとより町人なれば商利銭のことには金言妙句を申し武道はしらねども時のはゞに任せ無案内成る男道の穿鑿中々お…

甲陽軍鑑/品第十六
武士の道すたり上の御ためあしう候其いわれは当屋形信玄公廿歳の御時信州海尻の城にて是にまします四人の御検使の内長坂長閑は座敷などにては尤能き人なれ共右海尻の城にて男道のきつかけをちがへ城をあけて甲州へ帰らるゝに小山田備中が男道…

甲陽軍鑑/品第廿四
弓矢功者にて仕様の上手哉(かな)昔しより弓矢を取て代々其誉れ有る事当屋形晴信公迄廿七代と申し来る中に信虎公の御代より一入弓矢に念を入給ふ上、晴信公武士道のせんさくなされ侍大将侍大小下々迄戦の仕るすべを存する様にと晴信公の八年巳来あそばす中に甘利備前板垣信形飯富兵部とて三人晴信公先を被㆓仰付㆒候信形…

甲陽軍鑑/品第廿六
将にも如㆑此成はまれ成べしと、めし出されざる以前に、我等つもりのことく、政道賢き、名大将にてましますなり名将は必人の取なしにも男ぶりにも搆ひ給はず武士道の武畧智畧の侍を第一馳走あり崇敬なさるゝ物なれバ我等は晴信公の御意に是非とも取入申べきと、兼て覚悟仕るごとく我等甲府へ参りて手柄は今迄四年の間に八…

甲陽軍鑑/品第廿七
衆を破られ候はゞ管領をすてまいらせかけ落すべきと両出頭人からして、覚悟たて如㆑此なるを管領旗本衆皆まねて武士道をば帰依(きゑ)なく悪分別故、人をそしり様ほめ様をしらず候扨侍道をもつはらに思ふ武士は老若共に指かゝりたる事をまはさずしてはなしうちの成敗者など仕り候へバ能はいはずして年のよりたる者をば年…


甲陽軍鑑/品第廿九
兵衛  一荻原助四郎  一春日源五郎  右弓箭の時軍場への使能致して後 備への釘くさびに成る故弓矢ことにえぬ人をきらふ子細は武士道のえぬ人は必ず弓矢の取沙汰きらひなり、武士道きらひなれば弓箭の勝負見はからひ不案内なり其所不案内の人御旗本より、さき備へ御使に参るに先衆、敵とちかうして戦やがて有べきを…

甲陽軍鑑/品第三十
かひ給ふ様あしく御座候と、先日も大形申上るごとく皆逆にて御座候、其子細は譜代が外様に成、新参が奥衆に成て、本参衆に機づかひあり、新参に心をゆるし、武士道の役にたつ者をば米銭の奉行、材木奉行或は山林の奉行などに被㆑成、又は武道無心懸にて、物やわらか過て、大略はよはきかたへつりたる人の、諸人に随ひ結搆…

甲陽軍鑑/品第卅四
武士と云者は香車に有て其上武篇よき事是本の道なり香車なりと云て容顔美麗にばかりあれバ西国の大内義隆が風のごとくに成候遠からぬ駿河氏真の家老武藤新三郎行義、香車、過候て今川の家に武士道

甲陽軍鑑/品第卅四
の大内義隆が風のごとくに成候遠からぬ駿河氏真の家老武藤新三郎行義、香車、過候て今川の家に武士道手柄者共多数ありと雖ども父義元の吊合戦ならずして申の年より当年迄九年の間香車風流の沙汰斗り候て武士の道すたりたる様にみゆるは武藤新三郎が氏真の…

甲陽軍鑑/品第卅七
てあり其上父信虎以来弓矢功者の家老、足軽大将又は諸国のよき武士をあつめ国々の弓矢かたぎを聞、就㆑中山本勘介と云弓矢智識の如く成武篇剛の者を扶持して武士道の善悪をわけ、勝利の武略しやうを信玄よく定候へば以来信長家康合て十三ケ国の大将を両人よせ、信玄は越中飛弾の国はしをそへ四ケ国の人数をもつて遠三尾濃…

甲陽軍鑑/品第四十上
いへ共此人公事にかゝりてはもろ〳〵の境目、武士道の御用かくるとて奉行を上らるゝに其後暫く二三ケ月も職定まり候はぬ事美濃殿程公事の理篇批判致す人なきとの儀は信玄公御工夫あさからず候へばこそ如㆑此、さる間何方へ御馬を向られ、然も敵国へふかく働き有時も諸々の武士大小共に侍衆の事は不㆑及㆑申候誠に雑人迄定…

甲陽軍鑑/品第四十下
武士道無案内のやうに候と小宮山内膳小山田彦三郎両人にもろが入道が教へたるを高坂弾正聞き候て、くどけれども紙面にあらはし、わかき衆にせんさくよくなされよとの儀なり、右もろが入道は信濃侍也是も信玄公へ忠節の人にて候が弓箭の功者ほまれの武士なり…

甲陽軍鑑/品第四十三
武士道、取失ふもあり、又は大将の武道を取失ひ給ひ家老のよきも有、此様子色々なり 第一に大将よくして家老功もなく、武道無案内に、然かも無心がけにてこれある家中には、忠節忠功の侍を家老衆そねむ故、臆病にて軽薄なる者、おほく繁昌して、よき武士…

甲陽軍鑑/品第四十七
ゝ其趣きは、今度むかさ与一郎を、逆心の科ほど申しつくる事は彼のむかさ、男武士道不穿鑿の科なれば、以後又かやうのさたにては、よき侍をあしういひ、あしき侍をほめたて、ひいき〴〵のさほうにては信玄が家の侍、大小共に善悪同事にてよき武士も悉く勇なうして、第一は軍法見だりなるべし、軍法あしければ、晴信勝利を失…

甲陽軍鑑/品第四十七
武士の道も是にひとしからん、猶以て親兄弟の敵をうつ近付へ頼もしつく仕るは、をのれ〳〵が親兄弟への孝行にも通じて、一入是も剛の武士なり、さりながら長沼長介長八、両人が存知よらずは、無理に傍の者、すくふ事、叶ふまじ、すくはれて入魂をもちなり共、親兄弟の…

甲陽軍鑑/品第五十三
がゝりの事、合三ツから口伝有 武士道の沙汰褒貶六ケ条の事 敵討は、親の敵きを子のうつは順、兄のを弟のうつは順、子の敵き親の討は逆、弟のを兄の討は逆なり叔父の敵きを甥の討も順なれども、うたざるとてもくるしからざるなり 合戦せり合にあひうちは非義なりつよき武士、大かたの人にしるしをくれ候てよき武士…、

北条家を騙したエピソード 

甲陽軍鑑品第三十九には信玄の遺言が記載されています。自分の死は3年間隠すようにという内容の遺言です。

「何れも仕候へば三年の間我死たるを隠して国をしづめ候」

しかしながら武田信玄の死に関する情報は周辺国に伝わってしまい、北条家が信玄生存のために板部岡江雪斎を使者として甲斐へ送ってきます。

その際に信玄弟の武田信廉が信玄のふりをして
気付かれずに済んだと言うお話があります。

甲陽軍鑑品第五十一
「小田原北条氏政より信玄公御他界かと有義、能く見届申べきためにいたひえ岡江雪を差越なされ候武田の家老各はかりごとをもつて江雪をしばらくとゞめ仕様を仕り、其後夜に入逍遥軒を信玄公と申御対面なされ八百枚にすへをき給ふ、御判の中にていかにも御判の不出来なるを、えらび御返事をかき江雪にわたし候へばさすがにかしこき江雪もまことに仕り、小田原へ帰り信玄公は御在世也と氏政へ申上候故、御他界のとりさたなきなり」

死んでいるものを生きているようにみせる。
まさに兵は詭道なりですね。

最後に

孫子の兵法と甲陽軍鑑を比べて読んでみると共通している点がある事が分かります。

信繁家訓を見れば分かるように、武田家は孫子に限らず中国書の影響を深く受けていた事と教養が深い事が分かります。

孫子の兵法の他の篇とも追々比較して記事にしていけたらと思います。

一歴史ファンの拙い文章ですがお読みいただきありがとうございました。

参考文献

・甲陽軍鑑 (1979年)
 (教育社新書―原本現代訳〈4~6〉)
・孫子の兵法がわかる本: 中国古典に学ぶ
  ‎日東書院本社 (1988/3/1)
・日本兵法史 上巻(1972年)石岡久夫 著
 雄山閣


よろしければサポートお願いします! いただいたサポートは古書古文書などの資料収集や現地確認などクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!