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【甲陽軍鑑】甲州・小荒間合戦


甲陽軍鑑品第二十一に書かれた合戦を紹介します


天文9年(1540年)、信濃国の村上義清は、甲斐国への侵攻を決意し、清野、高梨、井上、隅田ら4人の武将を先頭に、2,500余りの兵を率いて甲斐国小荒間に進軍しました。

小荒間は甲斐国への入り口として重要な地点でした。
2月18日、村上方の軍勢は小荒間周辺を焼き払いましたが、当時はまだ雪が深く、他国から来た軍勢は思うように動けませんでした。

武田晴信は、この状況を見逃さず、地元の人々に雪かきを命じ、急いで出陣しました。そして同日、旗本の兵を率いて夜襲を仕掛け、見事に勝利を収めました。

この夜襲は、多田三八という武将の進言によって行われました。

しかし、雪が深く、味方も自由に動けなかったため、討ち取った敵の数は雑兵を含めて172人に留まりました。この戦いは「甲州小荒間の戦い」として知られるようになります。この戦いの後、多田三八は多田淡路守と名を改め、信玄の信頼を得て、後に信濃国の守将として活躍しました。彼は「鬼を斬った」と称されるほどの剛勇の武将であり、その子もまた父に劣らぬ武勇を誇りました。

この戦いが示すのは、雪深い厳しい環境下でも、状況を見極め、素早く対応することで、数に劣る軍勢でも勝利を収められるということです。武田晴信の戦略眼と、多田三八の的確な進言が、戦局を決定づけた一夜の物語です。

天文10年には大きな戦いはなかったものの、信濃と甲斐の国境では小競り合いが続き、武田軍と村上軍の対立は緊張感を保ち続けました。このような小さな戦いの積み重ねが、やがて大きな戦果をもたらし、武田信玄の名を天下に轟かせることとなります。

歴史の一ページとして、この「甲州小荒間の戦い」は、雪深い冬の夜に起きた決断と行動の物語として、後世に語り継がれています。

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