天文11年(1542)9月25日は諏訪氏庶流の高遠頼継が武田晴信(信玄)に宮川合戦で敗れた日。諏訪氏惣領を目指す頼継は晴信に与し7月に諏訪氏を滅ぼした。しかし領土配分に不満を持ち武田領へ侵攻して宮川にて合戦となった。この後も晴信に歯向かうが3年後に高遠城が落城し降伏することに。
天文16年(1547)6月1日は武田晴信(信玄)が分国法の「甲州法度之次第」を制定した日。当初は26ヶ条として制定されたが徐々に追加され天文23年には57ヶ条となった。御成敗式目や今川氏の今川仮名目録に強い影響を受けた内容。領主と百姓の紛争や質入れや売買、借財に関する規定が多い。
天文17年(1548)2月14日は武田晴信(信玄)が上田原の戦いで北信濃・葛尾城の村上義清に敗れた日。父信虎時代から仕えた晴信の傅役・板垣信方や甘利虎泰など約700人が戦死し晴信自身も負傷したといわれる。この敗戦は順調に進んできた晴信の信濃侵攻作戦でのはじめてのつまづきだった。
弘治3年(1557)11月19日は武田晴信(信玄)が長女・黄梅院のため富士浅間神社に安産祈願文を出した日。天文23年(1554)に武田氏・北条氏・今川氏による甲相駿三国同盟のため北条氏康の跡継ぎ氏政に嫁いだ。黄梅院は嫡男・氏直などを産むが晴信は病弱な娘の懐妊のたび安産祈願をした。
大永元年(1521)11月3日は甲斐国守護・武田信虎の嫡男として武田晴信(信玄)が生まれた日。信虎の甲斐統一戦の最中で躑躅ヶ崎館ではなく大井夫人の避難先の要害山城で生まれた。前月の飯田河原合戦で今川軍に勝利した直後に生まれた男子だったため勝千代(太郎とも)と命名したとされる。