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【古文書訳】武田晴信文書(天文十七年(1548年)三月七日【村上義清に大勝したよ(嘘)】

:原文

【向山所迄一札披見、仍村上義清逆心附而、去月朔日出馬候処、不慮遂一戦、得大利候、随而伊奈郡地下人少々相替就企逆儀、為其成敗、當郡迄納馬候、兼又氏康追日入魂申候条、宜預馳走者可為喜悦候、猶向山又七郎可申越候、恐々謹言 三月七日 晴信(花押) 真月斎】

:意訳

【向山の所に届いた手紙を見ました。村上義清が逆心したので、先月出馬した所、思いがけず一戦を遂げ、大勝利しました。伊奈郡で百姓や町人が反乱を起こしたので、成敗する為に(伊奈郡まで)馬を納めました。前から氏康が日増しに親しくなりたいと申したこと、貴方が奔走して下さればとても嬉しいです また向山又七郎が申します】

※入魂=親密・昵懇の宛字と解釈したが、「口添えすること」かもしれない 

背景:

【天文十七年2月14日村上義清との上田原の戦いにて、板垣や甘利など重臣を失った戦の後に大石真月斎(道俊)へ出された手紙である。
甲斐国と隣接していた大石氏が、武田と北条の同盟関係の連絡を担っていた事が考えられるもの。村上義清はこの頃、山内上杉氏と同盟を結んでいた事もあり、氏康も動向が気になっていたのだろう。山内上杉家の重臣だった大石家が取り次いでいる事も興味深い。大敗を喫した晴信の「大勝利」という情報操作(強がり)が伺える】

参考:
「清瀬市史3 資料編古代・中世」
「市史研究きよせ 第2号」
向山又七郎については
「武田氏家臣団人名辞典」「武田氏研究第34号・史料紹介」
大石道俊については
「武蔵大石氏」「大石氏の研究」「多摩の大石氏」「多摩のあゆみ」
等が詳しい。

他:史料メモ
晴信との初同盟1544年の記述

【勝山記】 天文十三年(1544年) 
「此ノ年極月ニ小林宮内助殿「・白ス殿」相模ノ屋形氏貞(氏康)様へ御参候、

【妙法寺記】
此ノ年極月ニ小林宮内助殿(白エ衆)相模ノ屋形氏貞(氏康)様へ御参候、


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