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自分の思い出

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2020年9月の記事一覧

父とキュウリの酢の物

父とキュウリの酢の物

私の実家には広くはないが家族が食べる野菜くらいは収穫できる畑がある。子どもの頃は四季折々の様々な野菜を毎日毎日たくさん食べていた。当時はその贅沢な食生活に感謝することもなく野菜料理を食べていた。

夏になるとキュウリが毎日毎日たくさん収穫できる。キュウリは浅漬けにしたり、生でマヨネーズをつけて食べるのも美味しいが、一番好きなキュウリ料理は酢の物だ。キュウリを薄い輪切りにし軽く塩もみし水分を切る。ス

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カラオケと恋する気持ち

カラオケと恋する気持ち

40歳くらいまではカラオケで歌うことが大好きだった。最近は前ほど楽しくなくなった。とは言え、コロナ対策が始まるまで私は職場仲間とカラオケに行ったら結構歌うタイプの人間だ。しかし歌うことへの情熱が前のように湧いてこない。ずっと何故だろうと疑問に思っていた。歳かなあ…とか新しい歌の音程が取れなくなったからかなあ…とか思っていた。
先日娘とラインしていたら、お母さんは今恋の歌を歌う時どんな感情で歌ってる

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筋トレと私

筋トレと私

私は生まれつき筋肉質で比較的力も強かった。高校1年の時過激なダイエットをして10kg痩せたが贅肉と共に筋肉も落ちてしまった。そこで1人で簡単に出来そうな筋トレの本を買った。その本の通り腹筋、背筋、二の腕筋、ヒップアップを鍛える体操をした。1年位続けたがある程度筋肉が戻ってきて辞めたと思う。

結婚して子育てしていると毎日が筋トレだ。重い子どもを抱っこしたり、一緒に公園で遊んだりして筋肉が自然とつい

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鯛のあら炊きと大根

鯛のあら炊きと大根

実家の向かいの家は日本料理屋だ。私が子どもの頃腕の良い料理人のおっちゃんがいた。おっちゃんは子どもがいなかったから私達兄妹を我が子のように可愛がってくれた。以前もnoteに書いたがよく私の目の前で鰻をさばき鰻丼ぶりをご馳走してくれた。

おっちゃんは店で鯛を料理に出した時必ず我が家に鯛のあらをたくさん持って来てくれた。母はその鯛のあらと大根を一緒に甘辛く煮て鯛のあら炊きを作ってくれた。骨の近くの魚

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散歩と懐中電灯

散歩と懐中電灯

私の実家にはたくさんの懐中電灯がある。家族全員散歩が大好きで夜になると皆で散歩に出かける。母は全員に懐中電灯を持たせる。田舎道なので車に轢かれないためではなく、用水路や川などに落ちないための懐中電灯だ。

懐中電灯を照らしながら散歩に出かける。春は田んぼに流れ込む用水の流れを感じ、夏はカエルの大合唱を聞き、秋は虫の声を楽しみ、冬は寒空に輝く満天の星を見上げる。もちろん夜空の星を見上げる時は全員が一

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遠足とリュックサック

遠足とリュックサック

小学1年の徒歩遠足。田舎の小学校の一大行事。普通なら凄く楽しみな行事だ。しかし私は前日から憂鬱だった。夜明日の遠足に持っていくハンカチやお菓子をリュックサックに入れた。私のリュックサックの絵柄は仮面の忍者赤影だった。きっと8歳上の兄のお下がりだったんだろう。どう考えても小学1年生の女の子のリュックサックとは思えなかった。

遠足当日仮面の忍者赤影のリュックサックを背負い目立たないように登校した。同

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回転寿司の色んな思い出達

回転寿司の色んな思い出達

私は高校生になり下宿で一人暮らしを始めた。同じ中学の同級生の女の子と一緒の下宿だった。帰省した時はよく彼女の両親が車で一緒に下宿まで乗せてくれた。そしてその時彼女の家族は私を一緒に回転寿司に連れて行ってくれた。

その頃の回転寿司は皿の色によって値段が違った。100円寿司はまだ無かった。ご馳走される立場の私は一番安い皿を選んでたべた。自分で払うと言っても受け取ってくれなかった。穴子、玉子、かっぱ巻

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徳島県の一番恐い橋を紹介します

徳島県の一番恐い橋を紹介します

20年前位、同僚から三好市池田町に敷之上橋という恐い橋があると聞いた。恐いのが大好きな私は同僚と池田出張の時、敷之上橋に寄ってもらった。同僚は超高所恐怖症で橋の近くにも近づくことも出来なかった。
敷之上橋は池田ダム湖に架かる195mある長い歩道橋だ。そして何故その橋が恐いかというと通路が粗い網目になっており、そこから随分下にあるダム湖の美しい水面が丸見えだからだ。私が初めて敷之上橋を渡った日は綺麗

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相撲と私

相撲と私

私が育った家では相撲が強いことに大きな価値があった。祖父、父、叔父さん達は自分達の相撲自慢をよく話していた。その影響で従兄弟達が集まると家の庭や近所の神社で相撲大会が始まった。親子、従兄弟同士で相撲をとり大いに盛り上がった。日常的に家でも兄や姉と相撲でよく遊んでいた。歳の離れた末っ子の私は兄や姉にはずっと負け続けていたが毎回毎回いつか勝とうと兄や姉に勝負を挑んでいた。小学校の体育の授業で砂場で相撲

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一番楽しかった映画の試写会

一番楽しかった映画の試写会

昔は徳島県にもたくさん映画館があった。中でも一番収容人員が多かったのが徳島ホールだ。大学生の頃、新聞に新作映画の試写会募集の案内が掲載されたらよく応募していた。

人気映画の試写会はなかなか競争が激しく当たらない。私はくじ運がすこぶる悪い。しかしある時珍しく話題の映画ターミネーターの試写会に当選した!テンション上げ上げだった。試写会当日意気揚々と徳島ホールに向かった。早めに着いたが既に席はたくさん

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兄と彼岸花

兄と彼岸花

私が小学5年生の頃、週末下宿していた兄が帰省した。兄が散歩に行こうと誘ってきた。兄は自然の中を歩くのが大好きで暇があれば散歩していた。

一緒に散歩に出かけようとすると兄が「僕がいいと言うまで目を開けるなよ」と言った。私は目を閉じたまま兄に手を引かれて歩いた。結構長い距離を目を閉じたまま歩いた。やっと兄が「目を開けていいぞ」と言った。

目を開けると目の前に真っ赤な彼岸花が道に沿っていっぱい咲いて

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仮性近視と秘密基地

仮性近視と秘密基地

小学6年生の春、視力検査で仮性近視と診断された。眼鏡をかけるのが嫌だったので自己流の目の体操を始めた。
家から少し離れた場所に私だけの秘密基地があった。毎日学校から帰るとその秘密基地に行き目の体操をするのが日課になった。秘密基地は竹藪を抜けると急に景色が開け、崖の下には川が見える場所にあった。崖にひとり腰掛け美しい空や山々を飽きることなく眺めていた。
3ヶ月後視力の再検査をしたら正常の視力に回復し

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両手の指の傷跡

両手の指の傷跡

4歳くらいの頃、座椅子の金具に両手の指を挟み怪我をした。今も左手の中指と右手
の親指に大きく縫った傷跡がある。
怪我をした日、私は祖父母の部屋で6歳上の姉と一緒に多分テレビを見ていた。姉の背後にいた私が突然火が付いたように泣き出した。姉が振り返ると両手から血をボタボタ流しながら大泣きする私が見えたらしい。
その恐ろしい座椅子はその後もしばらくの間祖父母の部屋にあった。座椅子を眺めても、どのように自

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