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「いい人」になりたいという歪み

優しくしたい

傷つけたくない

どんな人でも受け入れたい

誰かを否定したくない


そんなことされたら「こころが痛い」
そいういうことはやらないって決めて生きてきた
されて嫌なことはしないって

でも知らないうちに傷つけたら?

そんな怖さから
たくさんの知識を求めた

生きるのさえ 怖くなった

* * *

「誠実でありたい」という願いは
既にある不誠実を肯定していることに過ぎない

同じように

光の中を歩むような人であることを願うのは
今ある「そうでないもの」を肯定することだ

この世界に闇に隠れるような生き方がある
その闇を肯定するのと

同じことだ

* * *

そうして闇があることを知りながら
目を背けてきた

「本当に悪い人なんていない」

どんなことにも必然性があって
本当には「悪い人」も「悪いこと」も

存在しない

ある意味真実である
その「認識」を採用することが

歪みも生み出す


そう、ただ逃げていたんだ

怖くて
この世に存在する痛みが怖くて

闇もない 悪もない
そう思いたかった

こどもが 夜中のトイレで
家中の明かりをつけて
まるで闇なんか存在しないと思い込もうとするかのように

この世の誰かの痛みが
なければいいと願うあまり


「闇も悪もない」ことに したがっていた

そう思いたがっていたんだ


否定したところで消えないのに

ただ「否定された人」と
「否定された事実」が

取り残されるだけなのに


喉元まで出かかって抑えられていた

「悪い人」ということば


ごめんね、わたし。
そうだよ、「悪い人」だよ。
そう思っていい。
あの人のやっていることを否定しないために。
自分のアンバランスから抜け出すために。

「ほんと、悪いことやってるよねぇ!」

そう声に出して 初めて笑えるから。
からだの緊張が取れるから。


どちらかが良くてどちらかが悪いわけじゃない
どちらかがあってどちらかがないわけでもない

どちらもある。

少なくともいま見えている世界には「ある」んだ。

外側にも。
内側にも。

それはバランスよく拡がっている。
その時のバランスでちょうどよく。

その中でただ立つだけ。
自分にとって居心地のいいバランスで。
どちらにも属さない

その場所で。


* * * * * * *

タイトルのお写真はコノハさんからお借りしました。
朝日を浴びる蓮、初めて拝見しました。
美しいお写真に胸を打たれました。ありがとうございます。

* * *

「蓮(レン)」とうお名前は最近はどうか知りませんが人気のある名前のひとつでした。

とある方がそうやって名付けようとしたところ、お坊さんだったかに「蓮は泥の中から咲くから、泥にまみれるから良くない」と反対された、という話を聞いたことがあります。
(田舎なので名付けの際に祖父母が勝手に檀家に相談してみて貰うような風習があるようです)

月は欠けるから良くない、糸は切れるから良くない、その名前で短命だった・・・

親心は様々に縁起を持ち出してきて名づけも一大イベントですね。


でもわたしは蓮のようでありたいと思います。

各転生のその時代でやったこと、それが合法か違法か、カルマだとかそうじゃないとか問わず誰しも決して美談ばかりに彩られた人生じゃありません。
平穏な時もあれば凄惨な人生もあります。

戦争が合法だった時代、殺人やなにかも物の怪や祟りのせいにされたような時代。

人間として転生を重ねて何もやってない人なんて殆どいないです。

そんな足をとられて沈んでしまうようなドロドロとした世界をこの大地の泥に例えるというなら、そこに根を張り自らの糧として水面からも高く茎をのばし美しい花を咲かせている蓮は、大地をしっかり踏みしめ自分が何者であるかを認識して雲の上も突き抜けた意識で生きるそんな在り方に繋がるように思います。

「自分はつま先ほども汚れていない」と否定するならば、大地に根を張ることはできません。
また「自分はこのように泥にまみれた人間だから」と否定するならば、そこから花を咲かせることもできないでしょう。

さて、蓮の心はなにを映し出しているでしょうか。


あのとき、名付けに反対された話を聞いたとき。

釈然としない気持ちを抱えたまま、かといって反論することばも見つからずそのままになっていた想いから、つい余分に言葉を綴ってしまいました。

今日もありがとうございます。


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