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暮しの手帖

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春を憎む

春を憎む

丘の上の古ぼけた病院から放たれると「一日二本まで」という主治医との約束などはな忘れ、実家のベランダで春の突風に吹かれながら、大事に喫んだ三本目の吸い殻を携帯灰皿で折り畳むように念入りに押しつぶした。
かねてからやめろ、やめろと再三言われ続け、まるで喫んでいないかのように振る舞っていた手前、私も喫煙をねだるのをためらっていたが、呂律の回らない舌で獣のように心を熱り立たせながら家族にねだった喫煙だ。フ

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日記

日記

客観視したとしてもそれは他人の目ではないんでほんとうの自分のことはわからない。逐一具体例を羅列するのも疲れてしまうのだけれども私にはどこかずれているところがあるらしく、それが原因だろう、時々いない人のように扱われてしまうことがある。ずれているくせにそういうところには気がつくしとても傷ついてしまうのである。コンビニの弁当。開かない自動ドア。薄い壁、顔も知らない隣の住人が立てる生活音。誰とも話さず終わ

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田園記

田園記

中央線長野方面の鈍行電車に乗り、電波の届かない、不便で、暗くて長いトンネルを抜ける。ああ開けてきた、と思う頃には、景色ががらりと変わって、あたり一面田んぼだらけ。そうして、だいたい特急の待ち合わせが15分というお決まりのルートで今回も帰省した。開け放しになっているドアを出ると、目の前に広がる果樹園の懐かしい匂いがした。冬来た時は冬の匂いだった。田舎は夏の青々とした草木の匂いに変わっていたのだ。私は

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おいしいはなし

おいしいはなし

生まれる前の草原で、大きな神様がちいさなわたしたちを呼び集めてこう言った。「地球は本当にいいところです。緑が多くて、生き物たちはのびのびと暮らしている。あなたたちの多くはきっとヒト、として生まれるでしょう。」ヒト、ヒト、ヒト、とはじめて覚えた言葉を頭の中で何度も反芻する。わたしたちはまだ体も持たない、ただの光だった。だから、顔があることに憧れた、体を持ちたいと切に願っていた。「どんな形になれるかな

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ずっと夏休み

ずっと夏休み

自然の中にはたくさんの学びが詰まっている。きらきらした樹液の塊を太陽にすかしてながめたり、道端で息絶えたちいさなすずめを埋めたり、ひまわりの種をもぎっておやつにしたり、畑で骨が浮いた猫の死体に手を合わせたり、おばあちゃんと畑に行き青いきゅうりをもいだり、竹藪へ入ってたけのこを掘りに行って怒られたり。

思えばたくさんの体験をさせてもらった。けれどわたしはときどき退屈で、周りの子が持っているゲーム機

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さあ夏休み

さあ夏休み

久しぶりに労働へ出た。社会不適合と言われてしまうことを甘んじて受け入れてきたわたしにも務まるのだろうか、とおそるおそる向かったけれども、結果的にとてもたのしかった。

恐竜博の化石発掘体験のワークショップのアルバイトで、子供に案内したりやり方を説明したりするというのがわたしの主な仕事である。「これはティラノサウルス!」と自慢の知識でもって恐竜についてをわたしに教えてくれる子供、目を輝かせながら化石

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祖父の煙草、祖母の指

祖父の煙草、祖母の指

「おまえを道志川で拾ったんだ」と冷たいことを言われても、寂しさはともかくそこに何も疑問を抱かなかったほど、わたしは家族の中でひとりだけ異色と言うか、浮いているというか、年月をいくら経ても誰ともなじめなかった。父のような運動神経は皆無、母のような真面目さもまた皆無、似ているところが全くない。両親を本当の両親とも思えなかったし、一体誰の遺伝子なのだろうと長いこと不思議に思っていた。

もう6年も前にな

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誰かわたしのチェーンスモークを止めてくれ

誰かわたしのチェーンスモークを止めてくれ

行き場のない感情は絵の具に溶かすか煙草の煙とするか、心の苦しさを紛らわすためにわたしはいまのところそういうやり方をしてきた。誰かわたしのチェーンスモークを止めてくれ。

祖母の家の近くの湖で、毎年花火大会があった。まだたばこも男もしらない時分、親戚や兄弟とおしゃれをして連れ立ってでかけた。あたりにたくさんの露店が並んでいてわくわくしたけれど、わたしははぐれないようにするのに一生懸命だった。気づいた

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異邦人

異邦人

わたしは甲州の生まれである。山に360度囲まれていて、大きな果樹園と田んぼばかりが続く。5時のチャイムの音が鳴れば、あたりはしんと静まり返る。冬には八ヶ岳おろしがびゅうびゅうと吹きあれる。向かい風の中よろよろとしながら、時々めくれそうなセーラー服のスカートを押さえながら、毎日6kmほど通学のために自転車を漕ぐ。イヤホンで耳を塞ぐ。夜は強い風が吹くとマルフクの看板とトタンのぶつかるガタガタバタバタ、

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