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「おいしかった」の正体 | 莉琴

わたしは「一食入魂」と言っても過言ではないくらい、毎回の食事を大切にしている。

おいしいものが大好きで、空腹ではなにも手につかなくなる食いしん坊だから、どうしても蔑ろにできない。
「これでいい」ではなく、
「これがいい」と選んだものを毎回食べる。

さらに、いま目の前にある食事が自分にとって世界で一番おいしいものだと信じている。
無理矢理に思い込ませるのではなく、そういう体(テイ)でいただくと自然と満足感が高まる。

忙しい中でも毎日夕食を作ってくれた母の影響だろうかと思ったが、ものの数秒で違うと感じてしまった。
妹は食に対する姿勢がわたしとは正反対なのだ。

母が夕食を作っても、妹は「太りたくない」という理由で自らスライサーでキャベツを山盛り千切りにし、1ケース取り寄せた味噌カツのタレをかけて食べていた。
しかも毎日、夕食はそれだけ。

またある日、お風呂に入ろうとしたら浴室に異臭が立ち込めていたことがあった。
慌ててリビングへ戻って訊ねると、小腹の減った妹が「痩せるため」と半身浴をしながら浴槽のフタの上で納豆を食べたからだった。

来る日も来る日も味噌カツタレキャベツ、お風呂で納豆…そもそも頭に浮かんでこないものばかりだ。
標準体型なのに、なぜか痩せることに興味関心が集中していた妹は食事に「おいしい」や「食べたい」を求めていなかった。
ノンオイルドレッシングやオリーブオイル&塩胡椒ではなく、味噌カツのタレというところが妹の僅かな「食べたい」だろうか。
同じ家庭で育っても、こうも違うとは。


実家を出た今、母の手料理を食べる機会は年に数回となってしまった。
好きだったのは油淋鶏、麻婆茄子、肉団子の甘酢あん…なぜか中華ばかりが思い浮かぶ。
花椒など凝った調味料は使っていない。
だがそれがいい。醤油・酢・ごま油など基本調味料のみで作った家庭中華はお店では食べられない。


おいしかった記憶はうれしい、悲しいのような強い感情を伴う記憶に比べると輪郭が曖昧に感じる。
「おいしかった」以外に的が合わず、説明することばがなんとなく上滑りしてしまう。
だから、食べる度にドンピシャの味と出会い直し、鮮やかなおいしさに毎回こころを動かされるのかもしれない。
いつもと同じ味なのに、いつも同じように感激する。
今年の夏も実家へ帰省したら、懐かしい味の鮮明さを「そうそう、これ!」と噛み締めるだろう。






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