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「治安の体感」・・・

被災された方には、お見舞い申し上げます。


日本は治安が良いとよく言われる。
だが、それが逆転する事がある。

被災した時のことだ、
災害などのあとには、「泥棒、強盗、などが増えて現地は大変な事になっている」というような噂やフェイク、偽情報が広まりやすい。

実際には数日の内には、他府県からの警察官が現地に入り、普段より犯罪の発生は減るらしい。
でも、犯罪多発、と考えてしまうのは、
不安が増幅されていて、まるで犯罪の数が必要以上に増えたように
感じてしまうという。

思い込みを扱った作品を紹介します。


・・・・・・・・・・・・・・

『紫陽花の香り』

「あなたの彼氏と日曜日にデートしたから、って、
裕子が言ってきたんです。酷いでしょう」

私は、三日前に学食で起こった出来事を
研究員の三崎さんに報告した。

「それそれ、その調子。もっと怒って」

三崎さんは、薬棚の試験管やビーカーをいじりながら、
どんどん煽ってくる。
私は、遠慮なく怒りをぶつけた。

「ちょうど、ハンバーガーにかぶりついたところだったから
喉がつかえて反論も出来ないし。
ああ。もう思い出すだけで腹が立つ」

「OK。そろそろ良いだろう。これを嗅いでみて」

三崎さんはガラスの瓶の一つから
小さな紙をピンセットで摘まんで差し出した。
このパフューム・テスターの香りを嗅いで感想を伝えるだけ。
化粧品会社のバイトって超楽だ。

高ぶった気持ちを抑えるアロマオイルを開発するための
実験だという。
最近腹が立った出来事を思い出してから、
サンプルの香りを嗅いでみる。
それで気持ちが落ち着けば成功らしい。

「どうだい?」

「そうですね。新緑の林みたいな香りがします。
森を散歩してると急に回りが静かになるあんな感じ。
ああ。なんだか裕子への怒りが収まって
親友の事が頭に浮かんできました。
喉を詰まらせた私の背中を優しくさすってくれた千恵美。
フフフ。その子変わってるんですよ、
ってこんな話、実験から逸れちゃってますかね」

「いや。構わないよ。続けて」

三崎さんはメモを取りながら私を促した。

「時々奇妙な言い回しをするんです。
その時も、

『ぎょへ~! 夏奈殿。彼氏とは大丈夫でござるか?』

とか言って。
ちょっとオタクなのかな、見た目も地味だし。
いつも流行の服を着てお高く留まってる裕子とは正反対。
あの女! 親がお金持ちだから我が儘なんですよね。
そもそも日曜日は一日中、彼氏と一緒だったんですぅ。
きっと裕子は、すぐバレる嘘をついて他人の幸せを壊す、
ラブ・クラッシャーなんですよ!
あ、すみません。もう怒りが戻っちゃいました」

三崎さんは腕時計を見て、時間をメモした。

「32秒か。この香りはあまり鎮静効果がなさそうだな。
じゃあ、次はこれね」

真面目な研究員は、
女子大生の人間関係には全く興味がないらしい。
三崎さんは、薬棚から薄紫と黄色の瓶を下ろし、
まず薄紫の瓶に入った透明な液を
一、二滴テスターに垂らして差し出した。
私は紙を手で仰ぎ、匂いを嗅いでみた。

「何も香りませんけど」

「そう。こっちは?」

今度は、黄色い瓶の液を垂らしたテスターだ。

「これはなんだか、爽やかな香りがします」

三崎さんは、いたずらっ子みたいな目つきでこちらを見ている。
実験の目的に近づくと、いつもこんな顔をする。
「それじゃあ。後の方を鼻に当てながら、
もう一度最初のを嗅いでみて」

ちょっと警戒しながらも私は、
言われた通りに二枚のテスターを重ねて嗅いでみた。

「うえ。生臭い。さっきと全然違う、
苦みを感じるような嫌な匂い。何でこうなるの?」

勝ち誇ったように三崎さんが答えた。

「最初のは紫陽花から、
二つ目はカタツムリの分泌液から抽出したアロマなんだ。
紫陽花の葉には毒があって、カタツムリは近づかない。
だからこの無色無臭のアロマも、合わせると嫌な匂いに変わる。
一種の警告反応を利用しているんだ。
江戸時代には、追跡香と言って
盗賊を捕まえるのに使われていたらしい。
香りが無いから、気付かれないうちに移り香が広がり、
カタツムリの香りを使えば、盗賊の仲間がすぐに分かる」

「でも、カタツムリが紫陽花の葉っぱに乗ってるイラストとか
よくありますよね」

「あれは人間が生み出した勝手なイメージ。
香りを知らない人が作りだした妄想だな」

私の疑問を一蹴して、三崎さんは仕事の話を始めた。

「それで。今回の仕事なんだけど
この追跡香が、今の社会生活の中でも
効果があるか確かめたいんだ。
持って帰って、こっそり友達同士で試してみてよ」

「え~。嫌ですよ。友達に黙って匂いをつけるなんて、
騙すみたいじゃないですか。
あ、さては、三崎さん、実験にかこつけて、
私の浮気問題を面白がってるんでしょう。
そうはいきませんよ。ラブラブですから!」

「へ? 何が?」

三崎さんがキョトンとした。
しまった! 
研究者は女子大生の恋話なんかに興味無いんだった。

独り相撲を取ったような恥ずかしい気分になったのと、
バイト代が思いのほか魅力的だったので
結局私は、仕事を引き受けることにした。

日曜日は実家の用事があって会えないという卓也を
土曜日の内に呼び出して、
紫陽花の香りをこっそり服に吹きかけた。
特にパンツには念入りに。
匂いは全くしない、これなら気付かれることはないだろう。

『卓也、実験台にして御免。でも信じてるから』

それでも私は、心の中で手を合わせた。

そして、週明けの学食。ついにその時がやってきた。
いつものようにハンバーガーを食べていると、
例によって裕子が近づいてきたのだ。

「土曜日にあなたの彼氏とデートしたわよ」

もう聞き飽きたセリフだ。
それに卓也は土曜日、私と一緒にいた。

私は口を拭うふりをして、
カタツムリの香りを滲みこませたハンカチを鼻に当てた。

「卓也。信じてるから・・・」

覚悟を決めて大きく息を吸い込んでみる。

・・・匂いがしない!

良かったぁ。やっぱり浮気は無かったんだ。
心の隅にあったオリのような不安が一気に吹き飛んだ。
ラブ・クラッシャーの嘘なんかに負けるもんか。

その時私は、おそらく世界一幸せな顔をしていたのだろう。
ニコニコと笑い続ける私にあきれたのか
裕子は怪訝な表情で学食を出て行った。

入れ替わるように、慌てふためいた千恵美が飛び込んできた。

「ぎょへ~! 全くあの女、諦めが悪いのぅ。
なぜあんな余計なことを言うのであろうか。
夏奈殿と卓也殿は、お軽と勘平。ロッキーとエイドリアン。
離れていても、固く結ばれたオシドリ夫婦なのに」

「やぁだ。まだ夫婦じゃないわよ」

千恵美の大げさすぎる褒め言葉が可笑しくて
私は思わずハンカチで口元を隠した。
その途端、生臭く苦い匂いが鼻を突いた。

「え? これは」

確かに研究室で嗅いだ匂い、さっきはしなかったのに
どうして今?

目の前では相変わらず千恵美が、
歴史上のベストカップルについて熱く語っている。
私は、もう一度ハンカチを鼻に当てた。

やはり生臭い嫌な匂いがする。
少し気持ち悪くなって、思わず顔を逸らした。

その目線の先、学食から続く渡り廊下に裕子が立っていた。
裕子は、渋い顔をして、憎らしげに私を見ている。
いや、見ているのは私ではない・・・千恵美だ。
卓也の浮気相手は、目の前にいるオタク女だったんだ。

私は、話し続ける千恵美を遮った。

「ねえ。カタツムリは、
絶対に紫陽花に近づかないって知ってる?」

「へ?」

あっけにとられる元・親友を置き去りにして、
私は学食を出て行った。

廊下で腕を組んで待ち受けていた裕子が話しかけてきた。

「やっと気が付いたのね。
私、千恵美と卓也君がホテルに入るところを偶然見ちゃったの。
でも、あの子はいつもあなたの側にいるから、言いづらくて。
だから嘘の浮気自慢をすることで、
『あなたのやってる事、知ってるわよ』って
千恵美に警告を与えたの。
大事(おおごと)になる前に浮気が終われば、それがベストでしょ」

私は、裕子を誤解していた。
敵も味方も分からないで御免なさい。
反省しきりの私に、裕子は続けた。

「それに、直接伝えるのはちょっと野暮だし、
浮気の可能性を匂わせるくらいの方が、
見てて面白いかなって思ったのよ」

前言撤回! やっぱりこいつは、ラブ・クラッシャーだ。
私は周りの目も気にせず叫んだ。

「人の恋愛で遊ぶんじゃねえよ。この匂わせ女が!」

女たちの裏の顔は、アロマのバイトのようには、
簡単に嗅ぎ分けられないのであった。

        おわり

*加筆再録。

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