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音は一つの「繰り返し」で、波だった。
音は一つの「繰り返し」で、波だった。鼓膜が揺れるのを感じる。音を聞くということが鼓膜が揺れることであることをかつてないほど意識していた。鼓膜が揺れているのを感じていた。音が空気の振動であるということがわかった。音は抽象的な経験ではもはやなく、具体的な手触りを伴う何かだった。形のある波だった。僕は音の波に包まれているのを感じた。聞いているのではなかった。むしろ「ただ、そこにいる」という感覚。音が領土
もっとみる心地よい疲れのなか、なんとなく退屈で
心地よい疲れのなか、なんとなく退屈で、何を言いたいわけでもなく、言葉を連ねていた。
言葉はもう意味を運ぶものとしての価値はなくて、ただ、前にある言葉と、後ろにくる言葉とをつなぐものでしかなかった。
意味に価値を置かなくても半自動的に連なっていく言葉が何を表現するのか、まるで見当がつかなかった。自我もなく、誰の言葉でもなく、あてもなく、ただ続いていくのだった。
動き出してしまえば、推進力がその瞬間か
頭の中に音楽が鳴り響き
頭の中に音楽が鳴り響き、止めることができなかった。感情や思索に関係なく、流れ続けるメロディが、僕を押し流していくのだった。どこに行くのか分からない。どこに行きつくのかもわからなかった。
冗長に、無駄に繰り返しを繰り返し、無駄なことを無駄に繰り返すことが必要なことだった。それだけが必要だった。何故それが必要と言えるのか、確たる証拠などなかった。証立てる必要すらなかった。
それが「存在」という概念に関
いつも何かを注釈してる
いつも何かを注釈している。
言いたいことのほとんどは言葉で表しても何か違和感を残すもので、ぴったりはまって何かを表現し切れたと思うことは少なくて、その分どんどん言葉を注ぎ込んでいくしかないって気分になる。
言い切れてないことを常にパラフレーズしてる。注釈に注釈を重ねてる。
言葉はいつも不完全で、抽象的で、過剰があったり、逆に不足があったりする。
不完全な言葉を尽くして、言葉を重ねるごとに矛
上西充子『呪いの言葉の解きかた』感想
「呪いの言葉」や「期待の言葉」が、その人を制約するものであるならば、これらの言葉から解放されることは、どういう状態になることなのだろうと考えたとき、思ったのは「自分自身」になるということでした。他人から定義を与えられた「誰か」になるのではなく、「自分自身」になるということ。それは個人の意見を持つということであり、自分の心に従うということになるのではないかと思います。
呪いが厄介なのは、ともすると
いろいろと思うことはあるけれど
いろいろと思うことはあるけれど
形にはならない
そうやって
表に出てこないままになってしまったことが
今までどれほどあったろう
わずかながらに
表に出てきたものも確かにあった
でも出てくるときには
既に形を変えている
ということが常なのだ。
自分が思ってることの全体を
自分でもよくわからない
誰かの言葉を使って
自分の言葉だと偽って
表せることは
たかが知れているのではないか
連歌作ってみたら楽しかった
連歌を作ってみたら結構楽しかった。以下試しにつくってみたもの。
①ひとり傘 雨降りそぼる 夕闇に
②かじかんだ手よ 春は遠けり
③如月の 雪解け水を 掬い取り
④のどを潤す 早起きの熊
⑤朝まだき ゆうべの酒に 揺れながら
⑥明日を語らい ともに見る夢
・・・・・・
読む順番が面白くて、①-②と読んだら、次は③-②と読むんだそうですね。で、その次に③-④と読む。それでどんどん繋げて
女王陛下のお気に入り 感想 憎み合う幸せ
エマ・ストーンが好きなのでこの映画も好き。
彼女が心の底から笑うのを見ていると幸せな気持ちになる。意地悪なことをしてても彼女は可愛い。その自由さ、奔放さを表現することが、彼女の幸せだったんだと感じる。
この映画も『半世界』のように三角形の映画で、罵りあって憎み合いながら愛しあって、そういう関係を続けることが3人全員にとっての幸せだったんじゃないかと思った。毒が三角形を破壊し、修復不可能なものに