上西充子『呪いの言葉の解きかた』感想

「呪いの言葉」や「期待の言葉」が、その人を制約するものであるならば、これらの言葉から解放されることは、どういう状態になることなのだろうと考えたとき、思ったのは「自分自身」になるということでした。他人から定義を与えられた「誰か」になるのではなく、「自分自身」になるということ。それは個人の意見を持つということであり、自分の心に従うということになるのではないかと思います。

呪いが厄介なのは、ともすると呪縛の中にある方が「心地がよい」と感じるからだと思います。人はいきなり自由を手に入れると、かえって途方に暮れて、困ってしまうというのはよく言われる話で、なんの呪縛もない、自由な状態というのは場合によっては案外居心地の悪い環境かもしれず、いっそ呪縛の中に留まっていたいと思ってしまうものなのかもしれないと思います。誰も束縛しない代わりに、誰も「正解」を教えてくれないということだから。もちろん、人から与えられる「正解」は間違っているかもしれないわけで、呪縛の中にいることはすなわち、本当に正解というわけではないのだけど。もっと言えば、その「正解」なんてない、ということも知ってはいるはずなのに、とりあえずの「正解」に飛びついてしまいがちだと思います。

自由になるということは自分との対話が始まるということ、ある意味では孤独になるということでもあるのかもしれません。

呪いを振りほどいた先に何を目指すのか、どこに行こうとして、自由になりたいのか。そういったことを考える必要があるのだと思います。つまり理想を持つこと。理想を持つことで自分の内から湧き上がる力や言葉が呪いを振りほどいていくのかもしれないと思います。

理想を見定めて、自由という不安状態の中に孤独に立つこと。そしてその状態を呪縛の中の安逸よりも、「よい」と思える強さを持つこと。そういう自分を肯定すること。そういうことができなければ、ほんとうに、呪いから解放されるということはないのかもしれない。そんなことを思いました。

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