MP068_「自分を甘やかしすぎ」と思えることは、ある種安心できることなのかもしれない
忘れられないこと、忘れてはいけないと思うことが人生には起きる。
そのことの1つについて今日は書いてみようと思う。
買い物に行き、自転車の後ろの席に当時2歳のわが子を座らせたまま、八百屋に入った。子どもを連れ買い物をすることは、とても手間がかかる。目に見える範囲に自転車を置けたので、子をそこに残して買い物をしていた。
早く終わらせようとセカセカ買い物をする中、私の近くに来ようと自力で子どもが自転車から降りようとした。自転車はバランスを崩して後部座席の子ども、そして前かごに乗っていた、スーパーで購入した大量の商品が一緒に倒れてしまった。自転車の転倒を防ぐことができなかった。
そこで私がとっさにとった行動。
それは、子どもよりも先に卵が割れていないかを見て、子どもに対してこう怒鳴りつけた。
私 「勝手に降りたら駄目でしょ。卵が割れたらどうするの。」
子 「(大粒の涙を何個も流しながら)ごめんなさい、ごめんなさい。」
この時の子どもの顔と、私の行動が忘れられない。
幸いにも子どもに怪我はなかった。けれども、私は子どもの心を傷つけたことを確信した。
なんでそんな行動をとってしまったんだろう。
子どもよりも大切なものがある訳ないのに。
自転車の乗り降りをさせることが面倒だったこと
八百屋には2歳の子どもにとって魅力的な ”遊び道具” が多すぎて、注意して買い物をするのが疲れること
八百屋の前にスーパーにも行ってきて、そこで「あっちに行ってはいけない」「走ってはいけない」「触ってはいけない」など、子連れの買い物に疲れていたこと
魔の2歳児にしては落ち着いているわが子、それでも私にとってはキャパオーバーの行動をする日々で、毎日イライラしていたこと
うまくいかない子育てと、理想のお母さん像に程遠い自分とのギャップに葛藤していたこと
どれも行動の理由にならないことばかりしか思い浮かばない。
けれども、雫程度の水でも、コップに注ぎ続ければやがては溢れるかのように、人間小さいことが積み重なり、追い詰められていると、思いもよらない行動や態度をしてしまうことがある。
それは自分だけを傷をつけて終わらない。自分が周りに与えてしまう影響が大なり小なりある。
その相手が子どもだった場合、まだ自分でうまく解釈ができないことがほとんど。そんな子どもに対して、一生モノの傷を残したり、命の危険にさらしたりすることに繋がってしまいかねない。
自分のキャパシティー=心の状態について、メンテナンスする時間を怠ってはいけない。今回のことを思い出すと、自分を責めると同時に、このことについて痛感する。
「追い詰められたからやってしまった・・・」
ニュースを見るとこの状況で取り返しのつかないことをしてしまう人がほとんどだ。ただ、誰しもが望んでやって訳ではないと思う。どうしようもなくなってしまった・・・これを言い訳にして大事なものを失いたくなかったはずだ。
「自分を甘やかしすぎ」
自分自身をメンテナンスするのは、難しい。気づかないうちにすり減っているものがあるから。目に見えないことは、失ってから、傷ついてからでしかわからないことが多い。充電のように何パーセントか表示されているといいのに。
だから、周りから見たら「自分を甘やかしすぎ」と思えることは、ある種安心できることなのかもしれない。充電が切れてしまったら、合図を自分を含め誰も気づくことができないから。
ダイヤモンドは傷をつけるほど輝くように、こういう経験から学んだ教訓・気づきを、心を痛めることだけに使うのではなく、自分の輝きに変えていきたいと強く思う。
身をもって教えてくれた子どもに感謝すると共に、日々起きる出来事が私に伝えていることを見過ごさないようにしていきたい。
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