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【小説】先談①

【あらすじ】
 事故の後遺症により高校卒業以前の記憶が曖昧な日吉ひよしツグミの元へ、共に幼少期を過ごしたというあかねと名乗る者から、「会いたい」との手紙が届く。ツグミは同居する認知症の母・イヨの介護施設への入所を機に、茜が働いていると手紙にあった皮頭村の「とんがらし」という鷹の剝製が無数に並べられた居酒屋へ向かった。しかし、そこに茜の姿はなく、居酒屋の主人はツグミを「楝から村を救った英雄だ」と讃えた。主人と女将の口から次々とかつての自分、父、母の善行と悪行を明かされ、僅かに覚えている記憶と混ざり合い、ツグミは戦慄と混乱の坩堝にはまっていく。



 杜崎もりさきです。いつも僕の拙いnoteの記事を読んで下さり、誠にありがとうございます。
 贔屓にして下さっていた方々には大変心苦しいのですが、今日は皆様にお別れをする為に筆を執りました。
 この記事を書き終えたら僕は、いえ、私は、死ぬことに決めました。
 本記事が遺言書、と言うと読んで下さっている方にプレッシャーを与えてしまうかもしれません。でも、ここで死ぬ理由を書かせて頂くことをお許し下さいませ。noteを通して『スキ』をくれたり、コメントを通して交流してくれた方々は、私の心の支柱であります。そしてnoteは私の唯一の居場所です。私は大好きな人達に囲まれて、大好きな場所で、最期を迎えたいのです。我がままですみません。
 しかし思い返せば、noteに書いた記事といえば、認知症と片腕の神経麻痺を患う母・イヨとの介護生活を笑い話として記録した『介護日誌・イヨは忘れんぼシリーズ』と、皆様に触発され思い付きで書いた多少の小説くらいで、私が何者なのかついてはほとんど触れて来ませんでした。noteで最期を送ってほしいと頼んでいるのに、どこの誰なのかを伝えないままでは不誠実です。それに何より、死後、いつか忘れ去られてしまいます。
 死ぬ理由は、順を追って書かせて頂きますので、まずは私自身のことを沢山書かせて下さい。そして、厚かましいお願いではありますが、ここで書くことを、頭の奥底の方で構いませんから、ずっと覚えていて頂けると幸いです。

 私の本名は『日吉ひよしツグミ』と言います。先日25歳を迎えたばかりの、女性です。
 千葉県にほど近い東京都の安い二階建てのアパートで、高齢の母と二人暮らしをしています。ご近所付き合いが悪いわけではないのですが、隣室に住んでいるご老人の男性が少々厄介で。小学生でしょうか、10歳くらいの孫らしき少女が遊びに来ると、決まって大音量でアニメを観出すのです。うるさいので一度注意しに行ったのですが、耳が遠いようで会話が出来ずに断念しました。母は気にしている様子はないし、毎日ではないから我慢することにしたのですが、部屋から出てきた少女の姿を見た時のモヤモヤだけは今も気持ち悪く残っていて。
 腕や脚は痣にまみれていて、片目にガーゼを貼っていて、華奢きゃしゃな体は今にも崩れそうに思えるくらい傷だらけ。表情は鬱々としていて、まるでご老人と別れて帰るのを嫌がっているよう。最初は、学校で酷い虐めを受けているのかもしれない、と心配と怒りに燃えていたのですが、少女がご老人の元を訪ねるのは毎回平日の昼間なのです。本来、学校に行っているはずの時間です。その後も、傷は場所を変え生々しく、新しいものを負って少女はご老人の部屋を訪ねていました。
 ご老人が暴力を振るっているのでしょうか。いえ、私の予想では恐らく、少女は親から暴力を受けているんだと思います。親から逃げるようにお爺ちゃんの家に行き、家では見せてもらえないアニメで勇気を付けて、夕方になったら親の元へ帰っていくのではないかと。
 なんて、あくまで私の想像です。でも、だからと言って、私は少女に話しかけることも、ましてや児童相談所に連絡することも、しませんでした。だって、もし本当に少女が親から暴力を受けていたら、彼女の親にとっての悪は私になってしまいますから。私ってそういう人間なんです。責任を負いたくないんです。
 この記事は自宅アパートの部屋で書いています。今も隣室から、窓が揺れるくらいの大音量でアニメの音声が流れて来ています。今日も少女が部屋にいるようです。私には関係ありません。集中してnoteを書きます。
 すみません、初っ端から話が逸れてしまいました。まだ私、本名と住んでいる所しか書いていませんでしたね。私自身の話に戻ります。
 『杜崎まさかず』というペンネームは、当時よく観ていたアニメ映画の主人公の苗字と、好きな俳優田村正和たむらまさかずさんのお名前をくっ付けただけで、深い意味はありません。強いて言えば、男性名義にしようとは決めていました。以前、介護をしているのが20代の女性だから、という理由で周囲から可哀想だと憐れまれたことがあったから。いや、舐められることすらありました。私は自分のメンタルケアも踏まえて母の認知症を面白く笑い飛ばす記事を書きたかったので、切ない同情を買いたくなかったのです。
 でも、結局、介護生活の辛さに耐えられず、最近では母の愚痴をnoteに書くようになってしまいましたね。その度に、皆様が激励のコメントをくださり、支えて頂きました。本当に、ありがとうございます。特に、私がアパートのベランダで育てていたミニトマトとバジル、それとパンジーの花を母に引っこ抜かれて食べられてしまった時には、沢山の温かいコメントを寄せてくださって、涙が出ました。その時のコメント欄はスクリーンショットして、今でも時々眺めて励みにしています。
 それ以降、園芸や家庭菜園には手を出していません。もし、食用ではない花を母がまた食べてしまったら、体調を崩しかねませんから。もしかしたら、それがいけなかったのでしょうか。note以外での癒しと言えば、狭いベランダで花や野菜の世話をすることくらいでしたので。意図的に断った趣味ですが、それにより、介護疲れが加速していった気がします。
 どんどん記事の内容も荒んでいって、つい先日の記事には「いっそのこと母と心中してしまおうか。その方が母も幸せなんじゃないか」とまで書いていましたね。でも、母の現状をよく考えてみたら、心中は不幸なことだと気が付きました。前々から読んで下さってる方はご存知かと思いますが、母は、母が名付けてくれたらしい『ツグミ』という名前をすっかり忘れてしまいました。そんな中、誰とも知らない小娘が自分と心中を図ろうとしてきたら、それはもう立派な不幸です。
 こうして、心中という逃げ道は絶たれました。しかし、逃げ道の存在、を一度意識してしまったせいで、それからの介護の日々は一層辛いものに感じるようになったのです。今まで無償の愛などという綺麗事で目隠しをしていた、逃げたい=介護をやめたい=母と離別したい、という式を肯定する心が生まれてしまったわけですから。
 だから、頑なに拒否をしていた介護施設への入所を、フォロワーさんからの助言ですんなりと決心できたのです。
 母が入所するまで、つまり昨日までの日々は、上がっている記事の通りです。
 入所を決めてからはnoteと、見違えるほど明るく向き合えることをができました。生活の離別には悲しいものがありますが、永遠に別れるわけではありませんから。それに、私は母にとって、娘ですらなくなった見知らぬ小娘です。身体障害を持った介護の素人の他人に世話をされるよりも、五体満足のプロによる手厚いサポートを受ける方が、母も遥かに安心でしょう。
 書いていて気付きましたが、そういえば、皆様には私が身体障害者であることを言っていませんでしたよね。実は、左脚が上手く動かせないんです。全く、というわけではありませんが、屈伸運動はほとんどできません。なので、普段は念の為に杖をついて歩いています。公表しなかった理由は、男性名義にした理由と同じく、同情を買わない為です。とはいえ、こうして公表してみると、「その状態でよく頑張ったね」と励ましてもらいたいたくなりますね。
 生まれつき不自由だったわけではなくて、高校を卒業して直ぐに交通事故に遭って骨折したからなのだそうです。その時に手術で左脚にボルトを埋め込んだから、と聞きました。
 まるで他人事みたいですよね。でも、覚えていないんです。事故の後遺症で、高校卒業以前の記憶がかなりおぼろげで。だから、事故のことも、左足のことも、私が昏睡状態だった内に母が鬱病を発症したことも、その後若年性認知症になったことも、全て父から聞いた話です。
 父は私の脳から抜けた記憶を埋めるために、沢山の写真を持ち寄って、高校卒業以前の家族の思い出話を聞かせてくれました。お陰で今は、学校でのことは思い出せなくても、家族で旅行に行った思い出や、誕生日を祝ってもらった思い出、小さなことでは幼少期に公園で犬に追い掛け回された思い出まで私の脳の中には存在して、幸せな家族3人の記憶に満たされています。
 私の記憶を幸せで埋めてくれた父、退院当時既に成人していたのに沢山頭を撫でて「お前は子供の頃からずっと良い子だった」と何度も言い聞かせてくれた父、その頃もう私のことを忘れてしまっていて片腕も思うように動かせなくなっていた母を私以上に愛していた父。
 父は私が退院してから一年後に、失踪しました。母の介護に耐えかねたのか、元々は医者をやっていたそうですから医者を辞めた理由に何か関係があるのか、真相は不明です。
 その日から昨日に至るまで約5年間、私は自宅でできる簡単なオフィスワークをしながら、母の介護をこなして来ました。5年間……数字だけ見ると途方もなく長かったように感じますが、自宅仕事と家事と家計のやりくりをしながら未経験の介護に追われた日々はあっという間だったようにも思えます。
 心中を考えるほどに辛かった、とはいえ、四六時中二人きりで暮らしていた母です。母の体が自分の体のようにさえ感じるようになっていましたから、今でこそ解放感に溢れていますが、きっとこの先必ず寂しくなると思います。
 でも、そんな寂しさも感じなくて済むのです。だって、これから死ぬんですから。
 お分かりかと思いますが、私が死ぬ理由は介護疲れではありません。
 母と離れたその喪失感でもありません。
 私の頭の中から、すっかり消えてしまっていた場所に帰ったこと、にあります。

 もう少しだけ、私の話を続けさせて下さい。
 ちょうどnoteに母の入所を決めたという旨の記事を上げたその週に、私宛に一通の手紙が届きました。
 薄紫色の和紙の封筒には、送り主の住所も名前も書いてありませんでした。不審には思いましたが、いたずらにしては上品過ぎる筆文字で宛名が書かれているし、封筒の中には便箋以外に何か入っている様子もなかった為、開けてみたのです。
 3つ折りの便箋が3枚。開くと、達筆な字でこう書かれていました。

 お久しぶりです。皮頭かわず村のあかねです。
 ツグミちゃん、覚えていますか。ツグミちゃんが東京に越してからもう十年ですね。早いものです。東京での生活はどうですか。体を壊さずに、元気に過ごされていますか。
 子供の頃、ツグミちゃんにはよく遊んでもらっていましたね。ツグミちゃんのお母さんがくれたあめ玉を舐めながら、二人でかくれんぼをしたり、けんけんぱをしたり。今になって思えば、ツグミちゃんが十五歳で私が十歳の遊びにしては随分幼いことで笑い合っていましたね。きっと私の子供っぽさに、ツグミお姉さんが付き合ってくれていたのでしょう。
 ツグミちゃんは、私と5歳しか離れていなくても、とっても大人でした。友達がいない私に夕方暗くなるまで付き合ってくれて、善い事はたっぷり褒めてくれて、悪い事はしっかり叱ってくれる、綺麗で頼れる素敵なお姉さん。
 ツグミちゃんのような女性になりたいと憧れ続けて十年、私も二十歳になりました。
 二十歳になった私はツグミちゃんにどう見えるのかな、少しでもツグミちゃんに近付けているかな……そんな風に想いを馳せていたら、ツグミちゃんに会いたくなりました。
 今私は、大学の学費を補う為に、皮頭村の『とんがらし』という居酒屋さんでアルバイトをしています。送り先の住所が、『とんがらし』のものです。ほとんど毎夜働いていますから、来てくれたらきっと会えると思います。
 お店の宣伝じゃないよ! 来てくれたら、全メニュー食べ放題飲み放題でサービスさせてね。親友が来るからお願いって、明日から店長に頼み込まなきゃ(笑)
 あの頃を思い出していたら、言葉が崩れちゃった。ツグミちゃんに大人になったって思ってもらいたかったのにな。
 私から会いたいって言っておきながら、ご足労かけるようなことをお願いして、ごめんなさい。学費の為にもアルバイトを休むわけにはいかなくて、東京に住んでいるツグミちゃんに無理を言ってしまいました。
 でも、きっと、来てくれるって信じています。覚えたてのお化粧も頑張って、いっぱい待っています。

 手紙はお店の住所と名前で結ばれていました。
 私、この文章を読んだ時に、便箋を持つ手が震えるくらいに感動しました。
 父に教えてもらっていない記憶の中で、唯一残っている友人との思い出があって。それが女の子と二人、畑道のようなところで地面に棒で描いた円を飛んで遊んでいる光景、つまりけんけんぱをしている記憶で。私も女の子も飴を舐めていて、女の子は年齢よりも精神的に幼げで「いっぱい、あまい」と私に前歯の片方抜けた口を開いて笑うんです。転んだら「いっぱい、いたい」、日暮れまで遊んだら「いっぱい、つかれた」って言うような、何でもいっぱいって付ける子でした。
 女の子の名前は思い出せないんですが、手紙を読んで記憶の彼女が「茜ちゃん」だということを確信したのです。胸が熱くなりました。
 あんなに幼くてドジだった子が、自分のことよりも先に私の体調を気にかけてくれて、しかも居酒屋さんでアルバイトをしているんです。それも学費を稼ぐために。最後に「いっぱい待っています」なんて、子供の頃の自分の口癖を冗談で添えて。自分なんかよりもずっと大人に成長した歳下の旧友から「憧れ」だと書かれた文章を見て、感動しない人がいるでしょうか。
 私はすぐに手紙の返信をしました。事故で左脚に障害を負ってしまったこと、母の介護をしていること、そして母が近々介護施設に入所するからその後必ずお店に伺うということ。子供の頃の記憶がすっかり抜け落ちてしまったことは、書きませんでした。何だか、思い出を添えて手紙を送ってくれた茜ちゃんに対して、覚えていないなんて情けなくて。
 一応母にも、「私、茜ちゃんって子と友達だった?」と訊ねましたが、案の定うーんと唸って無表情でテレビを眺めているだけでした。そりゃあそうです。私のことすら覚えていないんですもの、友達のことなんか覚えているわけないのです。
 でも、この一応が、母の記憶の引き出しの取っ手を1つ掴んだのかもしれません。
 昨日の昼過ぎ、介護施設の送迎バスが家まで来てくれるほんの5分前、泊り荷物に囲まれた母が私に茶封筒を手渡しました。ペンの字が青く色褪せた古い手紙です。
 こんな物どこで保管していたんだろう、なぜ今渡すんだろう。様々な疑問は、送り主の名前を見て吹き飛びました。
 『日吉チョウジロウ』。私の父の名前です。宛名は書かれていませんでしたが、受取拒否の印が押されていました。つまり、何かの事情で送り先に読まれずに返って来た手紙ということです。勿論、封は切られていません。
「読んでいい?」
 母に訊きました。母は何も返すことなく私の目を見て、手紙を持つ手を弱々しく、それでも強く握って、きっと私に届くように言ってくれました。
「ツグミ、誰の子でもないと思って」
 ツグミ、は私の名前。事故後に初めて母が呼んでくれた、私の名前です。
 母は、親のことを忘れて好きなように生きなさいと、誰かの子供である自分のことを忘れなさいと、そう言いたかったんじゃないかと思いました。
 だから、「そんなこと、できるわけないじゃん」なんて泣き言を吐いて、母の膝に崩れ落ちてしまったんです。介護中はあんなに辛くて、心中なんて都合のいい殺人まで犯そうとしていたのに、馬鹿ですよね。
 今になって名前なんて呼ばないでよ、って、そう笑い飛ばしたかったのに。そしたらnoteのネタにもできたのに。

 私自身の話は、これで以上です。長々とありがとうございました。
 ここから先は、私が死ぬ決心をするに至った理由を書かせて頂きます。
 そういえば、書き漏らしていたことが、ひとつだけ。
 私、生きてきた記憶が人よりも少ないから、事故以降は会話だとか風景だとかを一生懸命覚えて記憶量を増やそうと努力する癖があるんです。だから多分、他人よりも記憶力は良い方なんじゃないでしょうか。
 なので、ここから書く昨日から今日にかけての一夜の出来事も、覚えている限り出来るだけ細かく思い出して書きます。いえ、書かせて下さい。
 そして、繰り返すようですが、読んだ方は出来ることなら、ずっと覚えていて下さい。
 どなたかがこれから書くことを、私のことを行方不明の父に伝えてくださるよう、切に願っています。







【2話目】



【3話目】


【4話目】


【5話目 最終話】


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