【小説】先談③
木材に打ち込まれた釘に吊るされた、鎌や鍬やレーキ。
プラスチックのコンテナ一杯に入った、丸められた軍手。
じょうろ、鉄鋏、スコップ、草刈機。
〈今日は全国的に概ね晴れ模様。気温も穏やかでお出かけ日和となるでしょう〉
呑気に天気予報を伝える、フルボリュームの携帯ラジオ。
それらどれも、血が飛び散っています。
土埃の匂いのする畑の真ん中の小さな農機具倉庫で、仰向けに倒れている男性は口から上が爆ぜるようにありません。
私は男性と向かい合って尻もちをついています。死体を前に腰が抜けたのではありません。散弾銃の反動が想像よりも遥かに強かったからです。
記憶は消えたのではなくて、脳の中には確かにあって、記憶を引き出す取っ手を見付け辛くなり思い出せなくなっているだけ、なのだと思います。引き出しの取っ手の在り処を示す何かのキーワードや光景さえあれば、また取っ手を掴めるようになるのです。母が茜ちゃんの名前を聞いて、私の名前を思い出したように。
ただ、その取っ手を掴んだら必ず引き開けなければなりません。もう二度と思い出さないように、意図的に頭の奥底へと仕舞っておいた記憶であっても。
ご主人が歓喜の涙に濡れた笑顔で言い放ったその言葉が、私が農機具倉庫で男性を撃ち殺した記憶の取っ手を掴んで勢いよく開けたのです。
多分、その男性が、紅一でした。
「覚えてないなんて、酷なこと神様もしよる。誉れやのに」
ご主人はサングラスの飛んだ後の目頭を押さえて、悔しそうに泣きました。
女将さんが「あんた飲み過ぎよ」と肩を支えて端の席へと戻します。
「うるさい、今日は飲んでもええ言うたんはお前やろ! おかわりや。ツグミちゃんが帰って来た祝杯あげんと」
なあ、と続けて私に同意を求めました。苦笑いしか返せない私に「よお帰ってきた、あんたは偉い」と噛み締めるように言ってまた泣きます。
「お客さん、覚えてないんよ。知らないおじさんに泣かれても困るだけよ」
女将さんはそう言って、ご主人のグラスに棚から取って来たカガシ酒の瓶を傾けました。氷もない空のグラスになみなみと注ぎます。
「そうやんな、ツグミちゃん。ツグミちゃん、で、本当にあっとるんよね」
「はい、すみません、本当に覚えていなくて」
「楝のこともか」。ご主人が訊きました。
「楝って何ですか。さっき楝家が根絶やし、っておっしゃってましたけど」。私は訊き返しました。
「そうか」
残念そうにがっくり頭を下げたと思うと、グラスを口に、天井を見上げるようにしてカガシ酒を煽りました。恐らく、一気にグラスの半分ほどは飲んでいたと思います。
「お前は焼き場に回っとれ」と、女将さんを裏手で払いのけて、私を手招きしました。ご主人の隣の席に座れ、ということです。
私がご主人の隣まで行くと、サングラスを額に上げて、余りにも黒い両の目をかっ開いて私を凝視しました。その瞳は近くで見れば見るほど漆黒で、まるでこの山の夜そのもののよう。
「全盲ってわけじゃないけん。近くなら何となく形くらいはわかるんよ」
女将さんが焼き場の煙の向こうから言いました。女将さんのマスクも黒くて、思えば、黒いものばかりを目にしていました。
長く見つめ続けられたからか、ご主人の黒目が段々と大きくなっているような錯覚を起こして、気味が悪くなり目を反らしてしまいました。
「目え見える内に拝みたかったなあ、ツグミちゃんの顔」
ご主人は穴が開くほどの視線を私に向けたまま、微動だにせず囁きました。窓の外の闇に溶けて消え入ってしまうような、低く小さく暗い声。
しばらくは沈黙だったと思います。女将さんが何かを焼く音と、歯切れの悪い換気扇の音と、窓からの葉の揺れる音。それ以外は何もない時間が流れました。
「楝っちゅうのはなあ、皮頭村の汚点よ」
虫唾が走りました。ご主人が私の頬に触れ、親指でその形を確かめるように撫でたのです。今すぐ席を立って逃げたくなったのに、人間、本当に怯えると体が動かないもので。女将さんはそれを止めもせずに、せっせと、焼き場で串を裏返していました。
「カガシを崇める邪教やけん」
指は、耳に触れ、髪に触れーー。
「昔から村に蔓延る寄生虫、その残党や」
額に触れ、鼻に触れーー。
「それをツグミちゃんが駆除したんよ」
唇に触れました。
「やめてください!」
私の体と口がようやく動きました。ご主人の手を払い除け立ち上がり、混乱と不安を当てつけるかのように、声を飛ばしました。いえ、一番の感情は恐怖を振り切りたくて、かもしれません。
「ちゃんと説明してください、私、何も覚えてないんですって。あなたのことも、女将さんのことも、何もかも。私が紅一さんという方の脳味噌をどうとか、父が朱子さんという方をどうにかしたって、何のことですか? 英雄って何ですか?」
息が上がっていました。乱暴に言うつもりはなかったのに、触れられた嫌悪感が語調を強めました。
「ごめんな、嬉しかったけん」と、ご主人は身を引き、サングラスを掛け直しました。
「ほんなら、長くなるが聞いてな。ほんで、これからの人生で覚えといてほしい。ツグミちゃんの人生の誇りやと思っておいてほしい」
そう言って、ご主人は咳払いをし、一口カガシ酒を舐めました。女将さんはこちらに見向きもせず、焼き場に立ったままです。まるで、ここにはいないかのように。
窓から一匹の大きい蛾が鱗粉をまきながらパタパタと飛んで来て、3つしかない豆電球の1つにとまりました。蛾の影がご主人の顔に被さります。暗い店内が更に闇を深めると、ご主人が朗々と語り始めました。
「楝っちゅうんは、楝神社を根城にしたカガシを神やと崇めよるカルト一族よ。ほれ、駐車場からこっち来るときに見たやろ、おんぼろな建物。あれが楝神社や」
あれは神社だったのか、とすると崩れた石柱は鳥居だろう、と納得しました。
「『楝』に『蛇』と書いて、カガシと読む。名字からして、江戸時代やらなんやらから、信仰しとったんやろ。神っちゅうても邪神も邪神よ。利益はないわりに、祟りばかり起こしよる。昔っから、カガシ様に供物を捧げんと村に災いが起こるぞーっちゅうて、食いもん巻き上げとったって話や。儂も村の爺ちゃんから聞いた話やから、詳しくは知らんがな。
やけんど、儂の若い頃でも祟りは健在やった。少しでも信仰の薄さが見えると、カガシに嚙まれたり、栴檀の毒におかされたり。そうや、店の裏の栴檀は見たんか? 気色悪いくらいの量の栴檀。栴檀っちゅうのはな薬草やけん、適度なら、鎮痛の薬効があったり、あか切れやらしもやけの塗り薬にもなるし、煎じて飲めば健康茶や。しかしな、毒性があるけん、量を違えば犬猫はおろか大の大人ひとりくたばらせることだって可能なんよ。
楝は『栴檀はカガシ様の化身や!』言うて、神社にぼこぼこ生やした。ほんで、そいつを、栴檀の毒性を利用して祟りやと称して村人を怯えさせとったけん。
その悪習を儂らの代で受け継いどったんが、楝朱子と弟の紅一や。神社で二人暮らし、姉弟に見えんほど仲良うて気持ち悪かったわ。近親相姦の噂もあったくらいにな。
朱子と紅一の手口はこうや。朱子が信仰心の薄い村人に栴檀の茶を飲ませる。栴檀の成分濃度を通常よりも何倍も濃くしたものをな。ほんで、当然飲んだもんは下痢やら嘔吐やら具合悪うなる。そこで常套句、『栴檀はカガシ様の化身、栴檀に嫌われているということはカガシ様が信仰心の無さにお怒りである証拠! このままでは死に至るぞ』と脅すわけや。紅一は本当かどうか定かやないが、個人医やった。神社だけでは食えんからな。ほんで命欲しさに、カガシ様を信じます、と口に出したもんだけを紅一は治療した。施術内容は、カガシ様を崇めた、と村人に伝えてな。つまり、信じたもんは救われる、の構図を姉弟で作ったんよ。
儂はその被害に見兼ねて、何度も朱子と紅一を村から追い出そうとした。元々猟師やったからな、脅しの武器ならいくらでもある。やけんど、その度に仲間がばったばったと祟りで倒れていったんや。どうやって祟りを起こしたのかは、未だにわからん。やけん、楝に対する仲間の恐れは増えていくばっかで、立ち向かう同志たちは儂の元から離れていき、もう万事休すかと思った。その頃よ。
救世主の登場! 日吉一家が皮頭村に越してきた! チョウジロウさん、イヨちゃん、そしてツグミちゃんや」
突然大声を上げて万歳をしたご主人に、驚いて肩が震えました。両手を挙げた拍子によろけて椅子から転げそうになったご主人を咄嗟に支えると、笑いながら続けました。
「親が何の仕事してたんかは知っとるか」
「一応、父は元々医者だったと聞いてますが、母の方は特に」
「医者! その通りや。夫婦で漢方医、チョウジロウさんは精神科医も兼任してた、偉い先生やったんよ」
「お待たせ」と、女将さんが話を遮って私の前に串焼きの皿を、音を鳴らして置きました。甘辛だれを纏った焼き鳥が5本、湯気を漂わせています。
「焼けたか。うちの名物やけん、炭火焼きよ、炭火焼き」
ご主人が手で早く食べるようジェスチャーします。勧められるがままに一口頬張ると、醤油味に仄かな炭火の香り。鶏もも肉の堅くもなく柔らかくもない食感。少しパサついている安い肉。名物と呼ぶには物足りない、安居酒屋の普通の焼き鳥でした。
「それ、何やと思う」
ご主人が前歯のない口をにやりとさせて訊きました。
「焼き鳥、ですよね。鶏ももの」
「蛇や」
蛇。棚の酒瓶の中、とぐろを巻くヤマカガシが目に入りました。
急に味がなくなり、急に臭みを増し、急に舌が痺れたような気がしました。
私は、その場で一口分戻してしまったのです。
その様を見て、いえ、見えてはいないのですが、私の嗚咽で察したのでしょう。ご主人が腹を抱えて笑い出しました。恐らく、今までも新規の客に毎回仕掛けて反応を楽しんでいたのだと思います。
女将さんは表情ひとつ変えずに、憐れみの眼差しをご主人に向けていました。
「何やお前、いつもは腹抱えて笑うとるのに今日は随分静かやないかい」
「飽きたわ」。言い捨てるような口調でした。
ご主人は気にしていない様子で、私に片手で謝罪をしながら「ごめんごめん。カガシは滋養強壮にええから、安心して食いや」と、へらへらしました。謝っているのは、黙って蛇を食べさせたことなのか、それを笑ったことなのか。
「こないカガシを焼いたり漬けたり出来るようになったんも、ツグミちゃんのお陰よ。話戻そうか」
笑って崩れた姿勢を直し、前屈みになって続けました。
「日吉一家がこんな辺鄙な村までわざわざ越して来たんは、栴檀の薬効の研究の為やったと聞いとる。楝がむやみやたらに植えた栴檀がこんなところで役に立つとはなあ。
研究をしながら、『日吉漢方医院』っちゅう小さな漢方医院兼精神科医院を営んで生活をしとった。いやあチョウジロウさんは誠実で、イヨちゃんは明るうてな、祟りに怯えていた村人の心がみるみる自由になっていたんや。流石、精神科の先生よ。来る客は皆楝が怖くて、眠れないやら、幻覚幻聴にうなされてるやら、そんなんばっかやったろうに、見事に払拭してくれた。もちろん、ツグミちゃんも村をパッと明るくしてくれとったよ。太陽や。村の連中皆の娘みたいに可愛がった。ほれ、儂の猟に遊びに付いて来た時なんか、猟銃の撃ち方なんかも教えたりしたんよ。今考えれば、それが儂の功績になったんやなあ。
面白くなかったのは朱子と紅一や。栴檀がカガシ様の化身、とやらの脅し文句が効かなくなったんやからな。チョウジロウさんとイヨちゃんは、栴檀を万能薬として宣伝し、実際栴檀を調合した漢方で村人の病気をばんばん治した。ほんなら、村人は自分で栴檀を使ったり、ましてや朱子から栴檀の茶をもらおうなんて思わんくなるやろ。こぞって、日吉漢方医院だけで栴檀を求めるようになったんよ。
朱子は栴檀の価値を取り戻すために、チョウジロウさんをターゲットに嫌がらせを始めた。直接、漢方医院に足を運んで、布教をし出したんや。実際、儂も仲間も、何人もが朱子が医院に、それもやらしく裏口から通っていたのを見た。カガシ様とやらがいかに村に災いを起こす畏怖すべき存在か、栴檀がなぜカガシの化身なのか、大方そんなことを説いとったんやろう。チョウジロウさんは無論、聞く耳を持たなかったが、村の新参者でそれも真面目な性格やったから、邪険にはできんかった。
ある日のことや。朱子が楝神社、要は自宅にチョウジロウさんを招いたんよ。茶を飲みに来ないか、と。例の、濃度を何倍も濃くした栴檀の茶を飲ませて具合悪くさせようって作戦や。人の良いチョウジロウさんは誘いに乗ってしまったが、結果はなんと、大団円! 具合悪うなったのは朱子の方やったんや!」
ご主人は叫んで、まるで子供がはしゃぐように白杖で床を何度も叩きました。けたたましい音を立てながら上下左右に当たり回る白杖は、私の動かない方の脚に幾度もぶつかります。それでもご主人の手は止みませんでした。
「馬鹿やろ、阿呆やろ、朱子は栴檀の茶を、その薬効を知り尽くしたチョウジロウさんに飲ませようとしよったんやから!」
ご主人が高笑いをすると、唾とカガシ酒の混じった飛沫が床に飛び散りました。
「儂ら村人は栴檀に囲まれながら生活しとるけん、香りに慣れ切って鼻が馬鹿になっとる。しかし、チョウジロウさんは違う。村に来て間もない新参者や。出された茶の濃過ぎる匂いを嗅いですぐに気付いたんやろ、この茶には致死量すれすれの栴檀の毒素が入っとるってな。朱子はチョウジロウさんを安心させる為に、自分の分も茶を出しとったんや。当然、自分の方は無毒の、何てことない健康茶よ。それをチョウジロウさんは、朱子がよそ見をしている隙に自分のものと入れ替えた。
朱子が今まで村人にしくさっておった祟りとやらが、自分に振りかかって来た時にゃ悔しかったやろうなあ。苦しかったやろうなあ。その惨めな姿を想像するだけで酒が飲めるわ」
カガシ酒を煽るご主人。恍惚な表情は泥酔から来るものだけはなさそうでした。
致死量すれすれの栴檀の毒素。チョウジロウさんが朱子をカタワにした。ご主人はそう言いました。しかし、同じ方法で脅された村人は命乞いの末に治療を施されたはずです。
「でも、朱子さんにはお医者さんの弟がいたはずでしょう。カタワになんて……」とまで言って心が痛み、口が動かなくなりました。片脚が動かない自分に対して、その言葉を言われているような気がして。言った自分に吐き気がしました。しかし、ご主人はーー自身だって目の見えないご主人は、その言葉を嬉々として私に向かって何発も、何発も飛ばしてきました。
私の罪と一緒に。
「神が力を貸してくれたんよ。偶然同じ時間に、紅一の脳味噌はツグミちゃんが吹き飛ばしてくれとったんよ! 結局朱子は、望みの紅一もおっ死んで、カタワ! 後遺症が残って、カタワ! 今もカタワのまんま孤独に神社で生き地獄や!」
執拗に心を殴られた感覚。
でも、この感覚が、私の記憶のキーワードだったのかもしれません。
また頭の中に映る、農機具倉庫で倒れる頭の無い紅一らしき男性と、向かいで散弾銃を持ったまま尻もちをつく私の記憶。数々の農機具、土埃の匂い、携帯ラジオの天気予報。先程の思い出よりも増えていたのは、紅一を撃った理由でーー。
「しかも、頭までおかしくなりよったみたいでな、呻き声しか聞こえんのよ。神社から」
飛び上がってしまいました。痛みの末に呆然としていて、ご主人の顔が近付いていたことに気が付きませんでした。
神社から微かに聞こえていた声は、朱子さんのものだったのです。それを女将さんが聞かせたかった理由は、その時はまだわかりませんでした。
「もう、止しておいたら、お酒」
女将さんが遅過ぎる制止をしました。しかし、止めるべきはお酒ではなく、ご主人の発言の方じゃないかと、思ったものの言葉にはできませんでした。
「ああ」と、ご主人は女将さんに生欠伸のような返事をして、グラスに半分残ったカガシ酒を一気に飲み干しました。湿ったアルコール臭と一緒に吐き出る言葉は続きました。
「ツグミちゃんはほんとに家族想いや。お父さんが楝に嫌がらせされているのが我慢ならんかったんやろうなあ。儂がツグミちゃんに猟銃の撃ち方を教えたんも、きっと神の恵みや」
「その後は」。言葉が押し出されました。聞きたかったわけではありません。ただ、私が殺人を犯した後、ちゃんと人間として罪を償ったのかを確認したかったのです。
「言いづらいんやけどなあ」と、全く言いづらくなさそうに言いました。
「少年院に入ったって聞いたんよ。チョウジロウさんとイヨちゃんが、この村を出て行く時に。それ聞いて、儂らの為に若い人生を削ってまで成敗してくれたんやって、感激したんよ」
今度は、ボロボロと大粒の涙を流しだしました。どう見ても、泥酔してる人の不安定な情緒でした。
感情が、一線を越えたのでしょうか。もう、私は冷静にその話を受け止めていました。
私は、少年院に入っていたそうです。本当の記憶なのか、嘘の記憶なのかわかりませんが、殺人を犯したのなら当然の人生です。きっと父が、出所後を高校卒業後へと、収監されていたことを家族旅行をしていたことへと、運良く交通事故で記憶障害を起こしたのを機に思い出をすり替えてくれていたんだと思います。犯した罪が今後の人生の足枷にならないように。
なんて。なんて、嘘ですよ。そんなの、常識的な親の感性じゃないですもの。
子供であっても、いや、子供だからこそ罪を償わせるものなんじゃないですか。その罪の上で道徳を学び直させ、身を引き締めさせ、贖罪と更生の日々を送らせたいものなんじゃないですか。第一、重罪ですよ。
「おい」。ご主人が酔っぱらい特有の、声量を調整できなくなった声で、私の逡巡を遮りました。女将さんに呼びかけていました。
「ツグミちゃんに今朝採れた野菜でも焼いてやらんか」
「焼くから、あんた、もう休んだら」
女将さんの声は出会った当初よりもいつの間にかずっと無機質なものに変わっていました。夫婦で軽快なやり取りをしていた女将さんとは、別人のよう。ご主人が泥酔するといつも嫌がって態度が変わるのでしょうか、ご主人が女将さんの冷たさを慣れた様子で無視し胸を張りました。
「ツグミちゃんが少年院に入っとる間に畑を始めてな、今時期やとアスパラとか新生姜が採れるんやぞ。これも、ツグミちゃんのお陰で、祟りを恐れずに生活できるようになったからできることやけん。カガシ酒やって、串焼きやって、そうや。以前は祟られちまうんやないかとカガシを殺せんでいた。今じゃ浴びるほどにカガシ酒が飲めとる。本当にありがとう」
そう言って会釈をしてカガシ酒をまた煽りますが、中身は空。
「おい、おかわり」と、グラスを掲げました。
「いい加減にしくされよ。自分が目え潰した畑で偉そうに。もう奥へ引っ込みや」
堪忍袋の緒が切れかかっていたのでしょう、女将さんの鋭い語調がご主人に刺さりました。あれだけ横柄だったご主人もさすがに静かになり、カウンターにもたれながら席を立とうとします。
滑った手が触れ、カウンターからグラスが落ちました。パリンと割れたその音が、店の中では最も綺麗な音に聞こえました。
その拍子にグラスの破片の上に転びそうになったので、私は咄嗟に手を差し伸べ支えます。
「畑でこけた時もこんな感じやった。イノシシ対策で土ん中隠しといたククリ罠に足取られてな、顔からこけて。偶然、顔を埋めたとこに石灰が山んなっとんたんよ」
ご主人は独り言のようにこぼしました。
石灰。素人ながらに家庭菜園をやっていた私は、畑の土作りに石灰が欠かせないアイテムだと知っていました。それが目に入ると失明する恐れがあるため、取り扱いには十分注意しなければならないことも。
女将さんが小走りで駆け寄り、ご主人に肩を貸します。白杖を掴んで、カウンターの奥に見える小上がりへと足取り重く二人で向かいました。ご主人と女将さんの生活スペースへと繋がっているようでした。
「会計は気にせんでええよ。今日は帰って来たお祝いや、好きなだけ飲み食いしてき。その代わり」とご主人は言葉を止め、振り返りました。
「話、忘れんでな。目には目を歯には歯を。やってのけたツグミちゃんの栄光や」
すぐに女将さんに促され、暗い小上がりの向こうへと消えていきました。
見知らぬ店でひとりになって、思い返すのは、先程の紅一を撃った時の光景でした。ご主人から聞いた話で、唯一、自分が確かだと思える記憶。ただ、その記憶で動いている感情まで信じるのならば、ご主人が言っていた「父が受けていた嫌がらせに我慢できなくなった」という動機ではないはずでした。
記憶の糸を少しずつ手繰ります。多分、父は朱子さんから嫌がらせを受けてなんていませんでした。寧ろ、嫌がらせを受けていたのは私の方でーー。
電球に貼り付いていた蛾がぼとりと落ちました。影を落としていた、ご主人がいた席の辺りが明るくなりました。それがすごく眩しく感じて。街の灯りやなんかと比べたら、ずっと仄暗いはずなのに。
微かに、炭の火種がパチパチと弾ける音がしていました。
「迷惑ばっかりかけてごめんね」
女将さんが和やかな笑顔で戻って来ました。私が会った時の表情に戻ってくれて安心したのも束の間、女将さんは少し変でした。
女将さんはご主人のいた席に腰かけると、私と向かい合って言いました。
「ウーロン茶」
「え?」
「ウーロン茶、全然手え付けんね。栴檀の毒でも入っとると思った?」
混乱と冷静が行き来する中ですっかり忘れていました。ですが、そう言われてみれば、ウーロン茶が怪しく感じて戦慄してしまいまいた。
「いえ、そんなことは、全然」と、焦って、取らない方がいいのに元の席に置かれたまま結露したウーロン茶を取りに立ち上がってしまいます。
「冗談よ」
ふふふ、と笑い、女将さんは私を制止してウーロン茶を取りに行ってくれました。
割れたグラスを気にもせず、シャリシャリと踏み鳴らしながら。
「私ね、ツグミちゃん達と入れ違いで村に越してきたもんやから、あの人が言う話知らんのよ」
「そうなんですか」
「そう、私もツグミちゃんたちと同じ余所者よ」
女将さんは私の前にウーロン茶を置きました。
失礼、とまでは思いませんでしたが、違和感がありました。自分のことを余所者と卑下するのならわかります。でも、私たちのことまで余所者だと並べて言うでしょうか。
私は違和感を打ち消すように、ウーロン茶を流し込みました。栴檀の、あのバニラのような甘い香りの一切しない、普通のウーロン茶でした。
「でも、あの人の話は嘘ばっかり」。女将さんは虚を見ながら呟きました。廃墟、いえ、楝神社の栴檀を見上げた時と同じ表情で。
「店の前に鷹の剥製がいっぱい止まっとったでしょう。気味悪くなかった?」
「はい、実は、正直。すみません」
「謝らんでええのよ。私だって気味悪いもの」
女将さんは串の載った、私が小さく嘔吐した跡のある皿を指差しました。
「それ、蛇じゃないけん、ただの鶏肉よ」
「え」。じゃあ私はただの焼き鳥を気持ち悪がって戻してしまったのか。申し訳なさが込み上げて来ました。
「あの人は蛇だと思っとるよ。でも裏に水槽があってね、今でもそこに蛇が入っとると信じとる。ちょっとしか見えない視界ん中、祟りが怖くなったら蛇に悪態ついたりしとるんよ。入っとるのは、黒革のベルトやのに」
それを面白がって話す女将さんに寒気がしました。あの漫才のような軽妙な夫婦のやり取りは嘘だったのでしょうか。それに、「怖くなくなったんじゃないんですか、祟り」。あの話も嘘だったのでしょうか。
「あんなのただの強がりよ。祟りが怖いから、カガシを殺して食うんよ。鷹の剥製もそう。あれ、主人の指示で私が置いたんやけどね、楝家の祟りが怖いからなんよ。ほら、鷹は蛇の天敵でしょう」
「もしかして、『とんがらし』って名前も」
「そうよ。鷹の爪、だから。駄洒落やんね」
女将さんは皿から、私の嘔吐混じりの串を一本取って頬張りました。美味しそうには見えませんでした。
「そんなことしよったら、報復が怖くなって、余程恐怖心が強くなるに決まっとるのに。鷹の剥製置いて、カガシ山ほど殺した後に、失明しとるけん。馬鹿やね。やのに、祟りじゃなくて、それを事故だと自分に言い聞かせとる。祟りだと認めたら、自分が築き上げた、この祟り対策の要塞が無意味だったって、祟りは結局何やっても消せないんやって、わかっちゃうから」
「じゃあ今でも祟りは続いてるってことですか」
ううん、と女将さんは|頭《かぶり》を振りました。
「祟りなんて存在せんよ。ずっと昔から、存在したことなんて一度も」
訳がわからなくなりました。では、ご主人の失明は祟りではなく、本当に事故で、ご主人は本心では祟りだと思っていて、それを認めたくなくて事故だと思い込んでいて……でも、ご主人の仲間が祟りの被害に遭っていたことは本当なのだと思いました。そうじゃないと、ここまでの恐怖心は抱かないはずだから。
「ご主人の話、どこまでが本当なのでしょうか」
私はこんがらがる中、余所者、だと言っていた女将さんに対してわかるわけのない質問を投げかけていました。
「ぜーんぶ嘘」。女将さんは、焼き鳥の串で円を描いて寂し気に目を瞑りました。
「いや、嘘って言うのは違うかもしれん。そう思い込んどるだけ、か。一部分しか知らないのに、自分の頭の中の偏見で勝手に考えを組み立てて、自分ひとりだけが一番納得のいく想像をして処理しとるんよ。こういうのを、専じて判断するって書いて『専断』って言うんやて。花の栴檀と同じ音なんて皮肉やね」
全部嘘、と、そう女将さんは言いました。しかし、ご主人の話の中に私の真実をひとつだけ見付けていました。紅一を撃ち殺した記憶です。そして、話とは異なる、英雄と讃えられるような要素はひとつもない動機の記憶。
私は、話とは異なる方の記憶を、女将さんに確かめたかったのでしょう。
「でも、私が紅一という人を殺した、という話は嘘じゃないと思います。思い出したんです。私が、紅一という人にレイプされかかっていたのを。いえ、きっと」。言葉が詰まりました。思い出したくなかった、嫌な記憶だったから。
「何度もされていました」
女将さんは目を丸くした後、すぐに渇いた笑いを吐きました。
「何、英雄の次は被害者?」
言い終わりには嘲笑が含まれていて、大きな笑い声に続きました。嗄れた声が、何度も連続します。
同情されても、嘲笑われるようなことは何もないと思いました。特別な理由がないと許されない笑い方でした。
「何か知ってるんですか」
女将さんは笑い疲れた声で返します。
「親御さんから本当に何も聞いとらんの」
「はい、その年の頃といえば家族旅行の話くらいで」
「よっぽど忘れさせたかったんやろうね」
きっと、そうなのでしょう。私が一方的な恨みで殺人を犯した記憶なら、決して消さずに一生忘れさせてはなりません。しかし、相手に非があり、それも娘に深いトラウマを抱えるほどの傷を負わせた者の記憶となれば、私が親でも消してあげたいと思うはずです。
女将さんからは笑みが消えていて、心なしか奥歯を強く噛んでいるような表情で俯いていました。
「イヨちゃんは村を出てからどうしてたんかね」
「鬱病になったと聞いています」
「今も?」
「今は認知症で、私のことを思い出せなくなりました」
「じゃあ一緒に暮らしとるの」
「ずっと二人暮らしだったんですが、今日介護施設に入所しました」
「二人暮らし? チョウジロウさんは?」
「私が事故に遭ってから1年後に行方不明になって」
「事故じゃなくて出所や」
女将さんの顔が一瞬険しくなりました。その間違いを二度とするなと言わんばかりの眼光を向けて。ご主人の話は全部嘘だったんじゃないのか、女将さんの示す嘘とは何なのか。私はまた混乱の渦中に突き落とされてしまいました。
「そう」。女将さんは溜め息と一緒に言葉を吐いて、串を皿ではなくグラスの破片の上に放りました。鶏肉にガラスが刺さりました。
「行方不明になってもおかしくないことしてたけんね」
独り言のように呟いて床に落とした串を見つめました。
行方不明になってもおかしくないこと、とはなんでしょうか。そんな危ない橋を渡るような漢方医だったのでしょうか。誰かの恨みを買うような父には到底ーー。
そこまで考えたら、一人だけ恨みを買っている人が浮かびました。朱子さんです。ご主人の話を信じるならば、栴檀の毒を飲まされ後遺症を抱えることになってしまった朱子さんが父を恨まないはずがありません。でも、行方不明って、朱子さんの体でどうやって。
勝手な考えです。頭の中だけで勝手に想像し、勝手に朱子さんが父を行方不明にさせたと結論付けようとした自分に腹が立ちました。仮に朱子さんが行方不明にさせていたら、何だと言うのでしょうか。父の自業自得ではないですか。
想像をすればするほど、父は、英雄なんかじゃないのです。
「父は何をしたんですか。ご主人は英雄と語っていましたけど、父が犯したのは傷害じゃないですか。どうしても私、善いことをしたようには思えないんです」
そして、私も英雄じゃないんです、殺人犯なのです。
「聞きたいの?」。女将さんが目だけを私に向けました。
「はい」。女将さんは私たちと同じ、外から越してきた人間。それなのに父をチョウジロウさんと呼び、母をイヨちゃんと呼び、そして父が行方不明になるような人間だと言いました。
「そう、それじゃあ、話したるわ」
女将さんは顔を上げて、そのまま窓の外の闇を見ました。しばらくの、間。
カウンターの奥からは、ご主人のいびきが聞こえました。あれだけ多量のお酒をハイペースで飲んでいましたから、きっとこのまま朝まで起きないだろう、と、場にそぐわない気の抜けた考えが過りました。
女将さんがじっと何を見ていたのかはわかりません。言葉にはせずに、窓の外の闇と会話をしているかのような表情をずっと向けたままでした。長い、長い時間でした。
「茜ちゃん」
沈黙の末の一言目は、私が会いたかった人の名前。
私の方をゆっくり向き直りました。
「あなたの探しとった茜ちゃん、おるよ」
私はその名前を聞いて、ご主人が茜ちゃんを知らなかったことなんて吹き飛んで「どこに」と女将さんに言いました。
「裏の楝神社に。朱子と一緒に、住んどる」
「朱子さんと、ですか」
「そうよ、親子やけん」
朱子さんの娘、ということは茜ちゃんも楝家ということになります。村人から虐められたりしなかっただろうか、というより虐められているんじゃないか、と心配の感情が真っ先に湧きました。その次に、涙。その中で立派な手紙を書いて送って来てくれた苦労に感動と感謝が込み上げました。そして、後遺症によって障害を持ってしまった朱子さんとの二人暮らしは、私の数年間の人生と重なりました。
本当に、本当に、人間って簡単な生き物です。混乱の渦中で殺人を犯した記憶と対峙していたはずなのに、茜ちゃんがいる、って聞いただけで気持ちが上向きになってしまうのですから。浮かれてしまったんです。浮かれるべきではなかったのです。
「じゃあ、茜ちゃんもお母さんの介護を」
私は目に溜まった涙をこぼさないように、言いました。
「いいえ」。女将さんは、一言、その涙を払いのけて続けたのです。
「朱子が、おかしくされた茜ちゃんを支えてるんよ」
耳を疑いました。そんな、おかしくされたなんて、まるで茜ちゃんが毒を飲んだみたいな言い方じゃない。
でも、残念なことに、私の耳は、正しく反応していました。
「体の半分と口が麻痺した茜ちゃんを、朱子は10年間ずっと支えとるんよ。ツグミちゃん、女の子と遊んだ記憶だけはあるって言うてたよね。覚えてない? 飴舐めとったでしょ?」
表向きと本心が違う時に、目だけは笑っていない、という表現をしますが、この時の目だけが笑っている女将さんは、どう表現すればいいのでしょう。
私は、その目が怖くて、「覚えてないです」って嘘をついてしまったのです。
「ほんなら誰が舐めさせたんやろねえ。許容範囲を振り切った量の栴檀の成分をたっっっぷり混ぜ込んだ飴を、茜ちゃんに渡したんは誰なんやろか」
本当は覚えていました。茜ちゃんと、けんけんぱで遊んだ記憶。それどころか、また、昏い記憶が足されました。
「ねえ、ツグミちゃん」
女将さんの口角が、先に笑っていた目に遅れて、上がりました。
15歳の私と、10歳の茜ちゃん。
畑道の地面に円を描いて、交代で跳びます。
夕暮れ時、落ち行く陽に向かって、いつか陽に着くよと言って、跳びます。
飴を舐めながら、跳びます。
遊びながら舐められるからと、母が茜ちゃんと遊びに出る前に二人分手渡してくれた飴を舐めながら、何度も何度も、跳びます。
その日の飴はミルクキャンディでもなく、パイン飴でもなく、母が作ってくれたべっこう飴。
先にゴールしていた私に向かって、地面の輪っかを全部跳んだ茜ちゃんが、口の中の飴を片方抜けた前歯の穴から覗かせて、笑って言うんです。言わないでほしいのに、言うんです。
記憶の取っ手は、掴んだら、引き開ける他ないんですから。
「いっぱい、あまい」
続
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