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有余涅槃への途を求め続けて、路半ばで倒れるのかもしれない。

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有余涅槃への途を求め続けて、路半ばで倒れるのかもしれない。

記事一覧

お金で友達をつくる

若きマルクスは、「君は、愛をただ愛とだけ交換できる。」(『経済学哲学草稿』)と言った。貨幣を否定してしまったのである。しかしそれよりも2千年近くまえに聖書は貨幣…

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10か月前
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誤解というコミュニケーション

「〔中沢〕・・犬と人間との関係は、わずかなコミュニケーションとほとんど大部分のディスコミュニケーションでできています。おたがい誤解だらけです。・・・犬と散歩している…

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10か月前

答えがあってはいけない

「・・・生きることの意味。これらの問いは、答えではなくて、問うことそれじたいのうちに問いの意味のほとんどがある。これらの問いとは一生、ああでもないこうでもないと格…

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10か月前
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ベンヤミン 死後の生 希望ということ

アーレントは「歴史の概念について」の筆写稿のひとつを生前のベンヤミンから託されていて、ベンヤミンの死ののちに、ニューヨークへ向かう船の出航を待つあいだ、リスボン…

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10か月前

グラウンディング(グラウディング)について

「思い切って何かに自分の行為を委ねてしまおうという無謀ともいえる身体の振る舞いを、『投機的な振る舞い(entrusting behavior)』と呼ぶことにしよう。一方、そうした投…

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10か月前

隣人を愛すること

ひとまず、母が子を愛するのは自然、或いは自明なことか?ということから考える。 A 他者からの贈与と他者への贈与が一つのことであるような生を考えてみる。(母−子) B…

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10か月前

自我・・・自己とその像との分裂

この分裂は人間の欲求の鍵をも握っている。その分離を再びもとの一体のものにまとめ上げたいという熱望こそが、人生そのものである。・・・この分裂に由来する欲求こそが、世…

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10か月前

世界を認識する最初の規則

ベイトソンの考えを簡潔に言えば、音声言語では何かがないことを、つまり「〜がない」という否定を表現できるようになったことが身振り手振りとは決定的に違う点だ、という…

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10か月前

ゲーテのデモーニッシュdämonischなもの

「この<デモーニッシュなもの>の概念をもってゲーテは、その自伝作品の最期の章を書き出している。 「この伝記的な報告を進めるなかで、子供が、少年が、青年が、それぞ…

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10か月前
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「綜合とは内容に従えば自然支配にひとしい」

「≪・・・われらは前の方をもうしろの方をも/見ようとしない、波の動きに身をゆだねて、/海に浮かんでゆらぐ小舟に乗っているように。≫ ・・・それにしても最後の三行は、静…

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10か月前

特権的な視点を獲得してしまうということ

「存在(<存在>という視点の設定という出来事)を畏敬し、それに随順し、それと調和し、いわばそこに包まれて生きることと、その<存在>をことさらに<それはなんである…

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10か月前
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擬似的な因果関係

最近次々と映画化されて注目される佐藤康志の小説では昭和50年代構造不況下の函館の職業訓練校が描かれる。失業者に職業訓練をする職業訓練校には、自動車整備工の養成科と…

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1年前
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「人間は知覚像の束である」

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1年前

ラカン「三人の囚人」の寓話

1 三人の囚人A・B・Cがいた。所長がやって来てこう言った。「ここに5枚の円板がある。3枚は白〇〇〇で2枚は黒●●だ。これをお前達の背中に貼り付ける。他人の背中を見る…

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2年前

「究極の他者としての死者」

末木文美士の思考は「究極の他者としての死者」という発見から始まっている。 他者とはそもそも理解不可能なやっかいな者のことであるという認識はパラノイアである人間に…

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2年前

純粋経験

「「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」とは、誰かその経験と独立のある人物がたまたま持った経験を述べている文ではないのだ。もし強いて「私」という語を使う…

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2年前
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お金で友達をつくる

若きマルクスは、「君は、愛をただ愛とだけ交換できる。」(『経済学哲学草稿』)と言った。貨幣を否定してしまったのである。しかしそれよりも2千年近くまえに聖書は貨幣を積極的に肯定している。

イエスは、「友達こそがお金を愛に変換してくれる」と言ってるのだ。赤の他人がうまく分業・共生するために発明された貨幣経済が、世界中に拡大する時代に興ったキリスト教は、何千年かかけてヒトが手に入れてきた貨幣という知恵

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誤解というコミュニケーション

「〔中沢〕・・犬と人間との関係は、わずかなコミュニケーションとほとんど大部分のディスコミュニケーションでできています。おたがい誤解だらけです。・・・犬と散歩していると、世界ってこんなふうにできているんだなって、しばしば感動を覚えます。・・つまり、違う意識の構造を持った者同士が、誤解を伴ったディスコミュニケーションをすることによって世界は成り立っている。そこには、無数の誤解やずれがあるけど、そのディ

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答えがあってはいけない

「・・・生きることの意味。これらの問いは、答えではなくて、問うことそれじたいのうちに問いの意味のほとんどがある。これらの問いとは一生、ああでもないこうでもないと格闘するしかない。」(鷲田清一『わかりやすいはわかりにくい?』ちくま新書2010年,p.18)

「よく知られているように未来を探ることは、ユダヤ人には禁じられていた。トーラーと祈禱書は、それとは逆の、回想することをかれらに教えた。」(鹿島

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ベンヤミン 死後の生 希望ということ

アーレントは「歴史の概念について」の筆写稿のひとつを生前のベンヤミンから託されていて、ベンヤミンの死ののちに、ニューヨークへ向かう船の出航を待つあいだ、リスボンの港でまわりの難民たちにそれを読み聞かせていたといいます。…この一節をたずさえて海を渡ってゆくアーレントの姿も、二〇世紀の思想史を考えるうえで、私たちが逸することのできないものです。(細見和之『フランクフルト学派』、89頁)

グラウンディング(グラウディング)について

「思い切って何かに自分の行為を委ねてしまおうという無謀ともいえる身体の振る舞いを、『投機的な振る舞い(entrusting behavior)』と呼ぶことにしよう。一方、そうした投機的な行為を支え、その意味や価値を与える役割を『グラウンデイング(grounding)』と呼ぶことにしたい。‥『私たちは地面の上を歩くと同時に、地面が私たちを歩かせている』―ちょっと意外だけれども、このように『私』を主語

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隣人を愛すること

ひとまず、母が子を愛するのは自然、或いは自明なことか?ということから考える。

A 他者からの贈与と他者への贈与が一つのことであるような生を考えてみる。(母−子)
B 他者のための生産が自己のための生産に帰結するような行為を考えてみる。(分業)
C もっと抽象的に母から一方的に愛を受けていた子が、母として一方的に子に愛を与えるようになるという反転を考えてみる。(成長)

 Aは、母が子を育てなけれ

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自我・・・自己とその像との分裂

この分裂は人間の欲求の鍵をも握っている。その分離を再びもとの一体のものにまとめ上げたいという熱望こそが、人生そのものである。・・・この分裂に由来する欲求こそが、世界に意味を与え、私たちに意味を求めさせるものだ。・・・意味はそこにあるもの自体によって生じるのではなく、外面的には既にあるものの間に発生する分裂、内面的には他の何かとの関係によって生じるのである。私たちのもとの一体に戻ろうとする本能的な欲

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世界を認識する最初の規則

ベイトソンの考えを簡潔に言えば、音声言語では何かがないことを、つまり「〜がない」という否定を表現できるようになったことが身振り手振りとは決定的に違う点だ、ということである。(ジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論』,pp24-25)

ウィルデン(Anthony Wilden)は・・「〜ない」という単語はもともとは、単にAまたはBを選ぶ行為の規則そのものだということを示した。しかし、このAまたはBを

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ゲーテのデモーニッシュdämonischなもの

「この<デモーニッシュなもの>の概念をもってゲーテは、その自伝作品の最期の章を書き出している。

「この伝記的な報告を進めるなかで、子供が、少年が、青年が、それぞれに異なった道をたどって、超感性的なものに近づこうとした様をつぶさに見てきた。初めは心の向くままに、自然の宗教に目をやり、次には愛情をもって既成の宗教につながり、さらに自分自身のうちに集中することによって己の力を試し、そして最後に、普遍的

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「綜合とは内容に従えば自然支配にひとしい」

「≪・・・われらは前の方をもうしろの方をも/見ようとしない、波の動きに身をゆだねて、/海に浮かんでゆらぐ小舟に乗っているように。≫

・・・それにしても最後の三行は、静かな侘しさをたたえてかすかに揺いでいるような音調において比類ない。

「アドルノはこれを解釈して、前の方を見ないのは抽象的なユートピアを求めることが許されないからであり、後ろを見ないのは、崩れ去ったものはもはや取り返しがつかないと自

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特権的な視点を獲得してしまうということ

「存在(<存在>という視点の設定という出来事)を畏敬し、それに随順し、それと調和し、いわばそこに包まれて生きることと、その<存在>をことさらに<それはなんであるか>と問うこととは、まったく違う‥。

「そのように問うとき、すでにあの始原の調和は破れ、問う者はもはや原始の出来事のうちに包み込まれていることはできない。こうして<叡知>との<調和>がそれへの<欲求>、それへの<愛>に変わり、<叡知を愛す

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擬似的な因果関係

最近次々と映画化されて注目される佐藤康志の小説では昭和50年代構造不況下の函館の職業訓練校が描かれる。失業者に職業訓練をする職業訓練校には、自動車整備工の養成科と大工養成の建築科があったという(中澤雄大『狂伝佐藤泰志』中央公論新社)。

なるほど確かに、前者はモータリゼーション、後者は個人住宅投資という外需から内需への拡大策による生産構造問題の打開策だった。高度成長が終わった日本経済は半世紀かけて

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ラカン「三人の囚人」の寓話

1 三人の囚人A・B・Cがいた。所長がやって来てこう言った。「ここに5枚の円板がある。3枚は白〇〇〇で2枚は黒●●だ。これをお前達の背中に貼り付ける。他人の背中を見ることは許されるが、話をしてはならない。そうして、自分の背中の円盤の色が分かった者だけが、その理由を論理的に正しく構成できた者だけが解放される。」そして所長は3人の囚人の背中に、白い円盤を貼った。(A〇・B〇・C〇)
2 3人は同時に所

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「究極の他者としての死者」

末木文美士の思考は「究極の他者としての死者」という発見から始まっている。 他者とはそもそも理解不可能なやっかいな者のことであるという認識はパラノイアである人間にとってどれだけ救いとなることか。

【決定論と主体的実践の意味】
唯識法相宗で立てる五性各別(ごしょうかくべつ)説は、「誰でも仏になり得る」とする悉有仏性(しつうぶっしょう)説に対して、それは先天的に決まっているという決定論であるという。

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純粋経験


「「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」とは、誰かその経験と独立のある人物がたまたま持った経験を述べている文ではないのだ。もし強いて「私」という語を使うなら、国境の長いトンネルを抜けると雪国であったという、そのこと自体が「私」のである。だから、その経験をする主体は、存在しない。西田幾多郎の用語を使うなら、これは主体と客体が別れる以前の「純粋経験」の描写である。」(永井均『西田幾多郎』角川ソ

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