「人間は知覚像の束である」

「しかし、知覚とは、「わたし」という受容体があることによって初めて生じるものではないだろうか。「わたし」がなければ、知覚が生じる、あるいは知覚を感受する場というものが存在しない。知覚を知覚として認識する別の主体=主観が存在してこそ、知覚を受動として受け止めることができるのではのではないだろうか。知覚が能動性に属するものでないかぎり、それを感受するなにかがあらかじめ要請されてしまうのである。すなわち、「知覚以外にわたしはない」ということをいうためには、あらかじめわたしが必要なのである。」(小倉紀蔵『弱いニーチェ』筑摩選書2022年、p.55)
 ディビッド・ヒューム(1711-76)が「人間とは知覚の束」であると言うのに対して小倉は、「人間とは知覚像の束である」という。知覚像とは、「「あたたかさの表象」「痛さの表象」「甘さの表象」「まぶしさの表象」といったものであり、それぞれ「あたたかい」「痛い」「甘い」「まぶしい」という感覚とは異なり、あらかじめ「わたし」という個別の主体を前提とする概念ではない。つまり知覚像は「わたし」がいなくても成立しうる」ものとするのである。
 ヒュームの知覚も西田幾多郎の純粋経験も「わたし」という主体を必要としない経験について語ってるようであるが、どうもそれは少し違うようだ。
ヒュームの場合、「知覚」を感覚・情念・感動を含んだ現前性を特色とする単純な「印象」と、記憶と想像からなる精気を欠いた「観念」という性質の異なる二つのものに分けている。そしてその後者の観念こそが人間の精神に固有の本性=自然に属するものとするのである。小倉は「知覚像」という概念でこの違いを説明している。
「人間は、知覚ではなく知覚像を瞬時瞬時に意識上に生起させて生きている。おそらく、環境とともに生きている動物は瞬時瞬時に知覚(ただし印象など単純なもの)を生起させているのであるが(アフォーダンス)、<世界>の中に生きている人間は、瞬時瞬時に知覚像を生起させているのである。」(同p.56)
 西田の場合は知らないが、ヒュームも小倉も人間に特有な知覚の特質を、臨場性に拘束された、主体にとって「強い」現前性のあるものから、他者との間でやり取りされる「弱い」相互性のあるもの変化させているのである。
 おそらくこれは、ホモ・サピエンスが小さな群で狩猟採集経済を営んでいた遊動段階から大規模定住社会を営み始めた「こころ」の変化に対応した思考なのだろうと考えている。

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