純粋経験


「「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」とは、誰かその経験と独立のある人物がたまたま持った経験を述べている文ではないのだ。もし強いて「私」という語を使うなら、国境の長いトンネルを抜けると雪国であったという、そのこと自体が「私」のである。だから、その経験をする主体は、存在しない。西田幾多郎の用語を使うなら、これは主体と客体が別れる以前の「純粋経験」の描写である。」(永井均『西田幾多郎』角川ソフィア文庫2018年,p.17)


「西田の考え方では、あえて「私」ということを言うなら、そのときそのように聞こえてくる雷鳴、そのように見えている稲妻が、そのまま、私なのであり、そうした純粋経験そのものを離れて、それを経験する(それらとは独立の)私など、存在しない。」(同p.19)

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