ラカン「三人の囚人」の寓話

1 三人の囚人A・B・Cがいた。所長がやって来てこう言った。「ここに5枚の円板がある。3枚は白〇〇〇で2枚は黒●●だ。これをお前達の背中に貼り付ける。他人の背中を見ることは許されるが、話をしてはならない。そうして、自分の背中の円盤の色が分かった者だけが、その理由を論理的に正しく構成できた者だけが解放される。」そして所長は3人の囚人の背中に、白い円盤を貼った。(A〇・B〇・C〇)
2 3人は同時に所長のところにやって来て、同じ論理を述べたので、3人とも解放された。

************* 以下が囚人の考察 ****************
 Aは、B、Cの背中が白であるのを見た。 (A→B〇、C〇)
          →自分は、白か黒だ。(A〇又はA●)

 仮に自分が黒だと考えると、(A●)
 (*以下はAがBの推論を頭の中で想像している。)
 Bは、Aの背中の黒とCの背中の白を見ているはずだ。(B→A●、C〇)

 とするとBは、自分が黒だと仮定したとき、
Cが、Aの黒とBの黒を見て (C→A●、B●)、黒は二つしかないのだから、自分は白であると結論して、走り出すはずだ。
 ところが、Cは走り出していない。

 ということは、Bは、自分が黒だという仮定が間違いだったと気づき
 Bは走り出すはずだ。

 ところがBは走り出していない。そしてBと同じように推論するはずの
 Cも走り出していない。

 ということは、Aが最初に自分が黒だと仮定したことが間違っていた
 ことに気づき、Aは自分が白だと結論づけて走り出す。

 3人の囚人は、Aと同じ推論で同じ結論に達して同時に走り出す。
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 Aは「B,Cが走り出さない」という静態的状態を終始見ている。「他の2人が走り出していないのを見た」という瞬間があるという事実は、他の2人に先がけて自分が走り出さないことには事実にならない。(新宮一成ラカン精神分析』p79〜)

 言葉を換えて言うと「走り出さないのを見ている」と「走り出すはずなのに走り出さないのを見た」との決定的違いである。前者の時間は実質的には流れていないのであり、時間が流れ始めるのは、Aが推論の結果に基づきB、Cが動いていないと確認した時点を起点としている。

 「〜であれば〜のはずだ」という推論・判断する主体が、同じ見ている状態に切れ目を入れて決定的に異なる事実を創り出したことになる。先がけて走り出す主体にとって「走り出さないのを見た」主体が過去形で存在することとなったのである。

ここで起きていること(時間の生起=出来事)は、B,Cは依然として「走り出さない」(何の変化も起きていない)にも関わらず、Aが判断を下した瞬間「走り出すはずなのに走り出さない」と意味を変えていることだ。つまり客観的には同じ外部の様態が主体の思惟によって全く反対の意味を持つようになるということだ。

卑近な例で考えると、道で会った普通のおじさんが、「この人はお父さんを殺した人よ」と教えられた瞬間、同じ人が憎き父の仇に突然姿を変えるのと同じなのである。
これこそが正に感性的・病理的・パトローギッシュな動機と言われるものだ。

 それはまさに走り出した者だけにしか、「走り出さないのを私は見た」ということを事実だと言うことが許されない、「走り出さない者」には「見た」ということが事実とならないということである。
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1935.2 シルヴアン・ブロンダン家夜会でのアンドレ・ヴァイスの挿話

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この話は、どこかおかしいところがある。全ての推論はAがBが行うであろう推論を想像することから始まるわけだが、このときAが「自分を黒であるとすれば」とした最初の仮定を、Bが行うであろう推論の中に持ち込んでいるということである。つまり囚人たちが所長の前で展開するであろう論理は詭弁なのである。

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