擬似的な因果関係

最近次々と映画化されて注目される佐藤康志の小説では昭和50年代構造不況下の函館の職業訓練校が描かれる。失業者に職業訓練をする職業訓練校には、自動車整備工の養成科と大工養成の建築科があったという(中澤雄大『狂伝佐藤泰志』中央公論新社)。

なるほど確かに、前者はモータリゼーション、後者は個人住宅投資という外需から内需への拡大策による生産構造問題の打開策だった。高度成長が終わった日本経済は半世紀かけてその転換を行ってきた。現代は再びまたその転換が求められている時代だと言うことだろう。

経済の基本は需要と供給の関係で、その均衡を目指すとされている。ところで需要と供給の関係というものはどちらかが先でどちらかが後といったものなのだろうか。需要(欲望)があれば供給(充足)を作り出さすことも出来るし、供給が可能だから需要することが出来るともいえる。
しかしそれは需要があれば(全部)供給できる、供給があれば(全部)需要される訳では必ずしもないということである。需要と供給の関係には、因果関係があるとは必ずしも言えないということだ。

因果関係のないところに擬似的な因果関係を作り出すのが知識であり、技術であり、言葉である。人類のこれまでの歴史は、人間による自然の計算可能性と操作可能性を作り出すために費やされてきたといっていいだろう。
その前の先史時代といえば呪術という「技術」の時代だったのだろう。シャーマニズムというのがそのもっとも古い技術の形だったのだろう。もちろん呪術は廃れてしまったわけでなく、宗教という高度に言語化された形で姿を変えて歴史時代にも生き残っている。

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