「究極の他者としての死者」

末木文美士の思考は「究極の他者としての死者」という発見から始まっている。 他者とはそもそも理解不可能なやっかいな者のことであるという認識はパラノイアである人間にとってどれだけ救いとなることか。

【決定論と主体的実践の意味】
唯識法相宗で立てる五性各別(ごしょうかくべつ)説は、「誰でも仏になり得る」とする悉有仏性(しつうぶっしょう)説に対して、それは先天的に決まっているという決定論であるという。これはインドのカースト制度に由来する考え方だというが(末木『仏典をよむ』p.179)、「神は救う者を予め決めている」というカルヴァンの二重予定説と構造は一緒だ。決定論に立てば、いくら努力しても無駄ということになるが、誰もが自分がどう定められているのかは分からないということであれば、取り敢えず可能性に賭けて努力するしかないということになるのだろう。カルヴィニズムにおいて決定論は、救いの確証を求めるだけの利己的な生活実践になるのに対して、仏教においては悟りに向かう修行段階としての利他行の実践と言うことになる。

「親鸞に従えば、他利行は還相(悟りの世界から現世に立ち戻る状態)において成り立つのに対して、法相系統では往相(悟りに向かう修行の段階)で実践されなければならない。・・・菩薩としての実践は自己責任のもとに主体的な努力を必要とするからである。・・・ところで、ここで注意を要するのは、〔悉有仏性説でいう〕仏性の平等ということは、現実の不平等を少しも解消しないということである。むしろ現実の不平等を隠蔽する理論として用いられる可能性も大きい。」(末木『仏教vs.倫理』ちくま新書2006年,pp.68-69) 初めから「みんな(誰でも)が仏になること(成仏)ができる」考えるのと、主体的な倫理的実践においてのみそれは実現していると考えるのには自ずと雲泥の差がある。「教えを人々に説いてその苦しみから救うということはブッダの最高の慈悲の行為であるが、それが必ずしもその悟りの真理の中核になかったいうことは驚くべきことである。・・・すなわち、慈悲の原理はブッダの悟りの原理とは違うところにあるということである。」(末木『仏教vs.倫理』,p.42)

「大乗仏教は「空」の思想を確立するよりも前に、「他者としての仏」という思想を経典中に展開してきたことが知られる。・・・しかし、「空」よりも前に他者や死者の問題が大乗仏教の最初の問題だったとするならば、従来の大乗仏教理解はもう一度問い直されなければならなくなる。「空」が問題になるのは、むしろこのような他者問題を前提としている〔から〕とも言える。なぜなら、他者とは、客観的にそれ自体として存在するものではなく、私との関係において問われるものであり、存在より関係が優先されなければならない。関係とは、初期仏教以来の用語で言えば「縁起」であり、存在の優位性を否定する「縁起」=関係の立場が「空」とされるのである。「このように文献に基づく思想史の読み直しは、ステレオタイプ化された哲学の再検討を要求し、他者論を根底に置く新しい哲学の可能性に道を開くものとなる。」(末木文美士『死者と菩薩の倫理学』ぷねうま舎2018年,p.132)

【顕の生者、冥の死者】
「仏教で言えば、表面的には個の信仰として近代的な宗教の装いを取り、仏教は死者のためではなく、生者のためのものだと言いながら、実際に仏教が社会的に機能してきたのは、葬式仏教という形で死者とかかわることであった。」(同p.134)

大乗仏教において死者の問題がクローズアップしてくる理由は、釈迦がすでに決定的な死者であることと無関係でない。死者という物言わぬ究極の他者こそがわれわれ衆生の生に寄り添い続けることを高らかに宣言しているのである。それは釈迦の実人生の転換点を脚色して神話化した逸話(仏伝)のなかで語られているとおりだ。
「梵天という神は、ブッダがせっかく悟ったことをそのまま説かずに亡くなったら、苦しんでいる人々が救われないと考え、ブッダに対して教えを説くことを請うた」(梵天勧請)。
ブッダにしてみればこの梵天こそが「つきまとう他者」の代表だろう。しかし勧請を受けて、決して短くない生涯にわたって自らが悟ったことを説き続けたブッダもまた、われわれ衆生の生に寄り添い(=つきまとい)、励まし(=叱咤)続けたうるさい他者だと言えないことはない。大乗仏教というのはある種のパラノイアの宗教ということになる。

「上原〔専禄1899-1975〕によれば、生者が死者を裁くのではない。死者が生者を裁くのである。・・・死を超えて他者〔としての死者〕とかかわり続け、他者へのケア(配慮)を持続させていくこと、それはまさしく仏教で言う菩薩のあり方に他ならない。」(同p.200)

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