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(連載35)カラオケとコスプレで、人生が意外な方向へ:ロサンゼルス在住アーティストの回顧録:1996-1998年

1996−1998年といえば、まあ、約25年前で、ありまする。。。

20歳の君っ! 君はまだ生まれとらん!!笑

その頃、このおばさんは、(あっ!おば〜あさんかも??汗)

こんな事を、アメリカでやっとったんですよ。。。っと。

今回は琵琶法師のグルーヴで、語らせていただきます。
べべん、べん、べん、べん。。。。

平家物語
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今となってみれば、25年前の事ですので、かなり俯瞰で、この頃を見る事ができ、ものすごく頭のいい人が、私の人生を学術的分析できるのかもしれませんが、、、、。うふふ。その頃の私は。

先のことなんか、なんも、考えとらんわ!


便利屋稼業フリーター(別名、ギグ・ワーク)

バイトですよ!


バイト!


ともかく、作品を作る事が優先順位の一位だったので、それ以外は、どうでもよかったんです。

なに?キャリアを極めるだと? 定職につくだと? 

お金持ちになって、安定な老後だと??

〜そんな考えは、この時点では、なんも、なし!!



1980年代の頃のそういう自分の人生のゴール設定には、すでに、失望していましたので、(働きすぎで、身も心もボロボロ状態)


いわゆる、コマーシャリズムがこぞってひき連れてくる理想の将来像には、まったく興味がありませんでした。別にそういうのを目指している方々を批判してるわけではないですよ。人それぞれだと思うし、いろんな未来像があっていいと思います。

ただ、自分は違ってた。

ともかく、ま、何があっても、自分の作品を作る。これが優先順位の一位!!

。。。何があっても、これだけは、やる!!続ける!!

別に世捨て人になったわけでもありません。ミニマリストでもないし。隠遁して黙々と作品だけに集中して、ゴッホのようにヒマワリだらけ。。。ってわけでもないんです。アートとは?美術とは?ゲイジュツとは?って毎日毎日、考え続けてるわけでもない。

ただ、普通に無理なく働いて、楽しく生活して、作品を作り続けていきたいだけでした。

そんな売れないアーティストだって、生きるための毎日のエンターテイメントが必要であります。気分転換っていうか、小さな楽しみっていうか、毎晩の晩酌みたいな。。。

で、この頃、90年代の後半ですが、自分向けのエンターテイメントはなんだったのか?

それは。。。。

このタイトルの通り。

カラオケにコスプレだったんです。




まず、時代背景からご説明させてください。

今ではカラオケっていうと、個室で友達で集まって、盛り上がる。。みたいなかんじですよね?

おばさんの世代は(おばあさん? ← 再び、これはちょっと。。。。汗)

おば(ーーーーー)さんの世代ですとっ。。。と、しましょう!

ご存知の方も多いかと思いますが、昭和のカラオケっていうのは、個室じゃなくて、バーで、ママさんに「これ、お願い」って、メモを渡して、カラオケ・マシンをセットしてもらって、歌う。という超アナログ設定だったんですよ。つまり、知らない人もいるところで歌う、パグリックなカルチャーだったんです。

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なので、カラオケ・バーで歌ってる人は、

1。歌唱が得意な人

2。歌のテクニックはそうでもなくても、それなりに知らない人の前でも歌う度胸のある人、歌いたいパッションに浸っている人

3。酔いすぎて、全てがどうでもよくなっている人。

でした。

ところが、90年代半ばくらいから、個室カラオケ?てのが、発明?されて、アメリカにもそれがやってきた。。という、まずこれが大きな骨格。。。

一方、私のその頃の生活環境というのは、アメリカに住んで10年が過ぎておりました。
そして、私にいつも撮影の仕事をくれてた日本人の女友達が、古着好きで、ウエスト・ハリウッドに、ビンテージ・ショップをオープンしたのです。(シャボンというお店で、今でもあります!)

その関係で、私の便利屋家業(バイト)の仕事のひとつに「ヴィンテージ・ブティックのお店番」という職種も増えおりました。お店なので、いろんな人が出入りして、次第に知り合いも増え、だんだん気のあった日本人の仲間みたいなのができました。

海外生活での、日本人同士の関係というのは、本当にありがたいものです。言葉の壁がないので、もうそれだけで、すぐ意思疎通できるし。。。お互いの経験や問題を話し合ったり、日本食を食べに行ったり、クラブに踊りに行ったり、バースデー・パーティをやったりと、同じメンバーで集まる機会が徐々に増えてゆきました。

で、カラオケの話にもどりますと、その集っていた仲間のほとんどが、昭和世代。なので、皆で集まっても、そういうパブリックの前で歌うカラオケには、かなり抵抗があった。

つまり、先ほどの1〜3の、どれにもあてはまらなく、つまり、誰も歌がうまいわけでもなく、そんなに歌いたいわけでもなく、ドロ酔いする程飲むでもなく。。なので、別に集まっても「カラオケ行こう!」っていう流れには、なりませんでした。

ところが、ある日。

仲間の何人かが、コリア・タウンというところで、焼肉を食べにいったついでに、となりに個室カラオケがあったので、「寄ってみたら、むちゃくちゃ楽しかったよ〜〜。今度、みんなで行かない?」との提案。

早速、みんなで押しかけてみたら、本当に、むちゃくちゃ楽しかった!!

長い海外生活で、日本を思い出して、あーこんな曲あったよね?とか、わ〜懐かしいね?などと、日本人同志ならではの、感情を共有できた事もありました。

そして何よりも、その仲間というのは、アメリカ生活で、みんなキャラが必要以上に濃くなってしまった人が多かった。(自分筆頭ですが。汗)

なので、その盛り上がりが、異常なほど、そしてどんどんエスカレートしていった。

それぞれのキャラを全面に押し出したカラオケ・パフォーマンスの連続!!おもしろおかしく歌ったり、替え歌にしたり、振りをつけたりと、テーブルに座ったり、寝ころがったり、など、個室で可能な事は全部やってた。もう歌というレベルを超えた、個人芸の大宴会と、なったのでした。

なんか昭和のお正月の特番、「スター隠し芸大会」みたいな

盛り上がるんだったら、なんでも、アリな状態!


それまでの、昭和のカラオケとは全く違う、こんな楽しみ方もあるんだな〜と、新しい発見があり、自分にとって、それはそれは、もう超ド級でエンタメになった。

お酒も出してくれるところ、しかも友達だけなので、タガがいくら外れても、心配な〜い!
私も、好きな歌を大声をだして、歌った。、、歌うというより、叫びました。。

お腹の底から叫んで歌うと、楽しいだけでなく

本当に、すっきり!!しました。

文字通り、私の心の叫びでした。笑 


といっても、和製ソウルというのではなくて、ヘビメタに違いですが。爆


なんでもかんでも、叫んで歌いました。

理由:すっきりするから。


都はるみ、叫んで歌いました。

藤圭子(宇多田ヒカル母)、叫んで歌いました。

山下達郎、叫んで歌いました。

植木等、叫んで歌いました。

ユーミンを歌おうとすると、、、、、


仲間の一人の男性は「その歌だけは、僕の思い出の曲で、大切にしてるから、ルンナちゃん、お願いだから歌わないで!!!」と言いましたが、、、、


、、、、叫んで歌いました!!


その音量がすごいので、スピーカーが壊れました。(実話です)


そんなこんなで、そのあまりの楽しさに、頻繁にそのカラオケに行くようになったんです。


そして仲間は私も含めて、服飾関係の人が多かったので、何度かカラオケに行くうちに、「仮装して、カラオケやったら、もっと盛り上がるかも!」となって。

つまり、コスプレっていう言葉以前!ですよ。

我々は『仮装』って言ってた!!笑


もちろん、その仮装カラオケの大宴会も、超絶盛り上がったのは、言うまでもありません。


またしば〜らく、、、、その仮装カラオケを続けてるうちに、だんだんそれが進化?というか、エスカレートして、苦笑

みんなで集まる時は、カラオケだけじゃなくても、なんか仮装する、それが当たり前という、恐ろしい暗黙の了解ができあがってしまった。

もうみんな服のプロですから、自分でいうのもなんですが、仮装の完成度も高く

たとえば、これ、、、、意味もなくの仮装です。笑

アタクシのお茶目な お茶の水博士!

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胸にはアトムのワッペン!という凝りよう。

これは夫のトッシュ(太宰治)と、あきちゃん(金太郎)オノ付き

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みんな小道具にまでコダワル


こんな仮装して、今日はボーリングしよう、とか、クラブに踊りに行こうとか、

(もちろん、左がアタクシ。昭和の肉体労働者)

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トランスジェンダーだらけ!笑

みんな仮装=コスプレ

これが、もう楽しくて、楽しくて!!

何度もなんどもやった。

今、日本でハロウィンが盛り上がってますが、まさに、あんな感じですね。

あれが、一年に一回じゃなくて、毎月って感じ。笑

ストレス発散?なのか、もともとストレスなどないのに?笑

どんどんエスカレートして。いったい何のために?

答えは

ただ、楽しいから。。。そんだけ。

でした。

そして、これがどんどんと、日常化。


カツラをかぶって、キラキラしたラメの服や、毛皮とか、羽のついた帽子とか、極端なベルボトムとか、厚底シューズとか(当時のコギャルとかぶる)もうそういう衣装のような派手な格好で出かけるのが当たり前になっていきました。とくに、当時の私は70年代のアフロ好き。

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デカすぎるアフロ。

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なんでも、大き方が偉い!と勘違いしてた時代。


そして、だんだんと、我々日本人のコスプレ仲間は、周りのアメリカ人の友達のパーティなどでも、目立つ存在になり、

その友達周辺の友達から、DJが来るようなパーティーにも誘われるようになり、やたらパーティーに顔を出す回数が徐々に増えていった。

ついに私は、気がついたら、チャラくて立派な!

パーティー・ピーポー(通称 パリピー)

になっていたのでした。 

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カラオケから、コスプレになって、、、、。

このなんかワケわからない事でも、

続けると、気がつかないうちに、何かになってしまうんですね?

知らんけど、、、。苦笑


そして、ある日の事です。

人の家のダンスパーティーに招待されて、みんなで、いつものハデハデ衣装で出かけて行って、もともと踊り好きなので、ナイスな音楽で、ノリノリに踊っていたら、

ミュージシャンの友達が「今度、僕ら、ライブやるから、来てくれない〜?」と言われたので、私は「オッケー!!もちろん!」と答えました。パリピーは、こういうのは絶対に断らないですからね。

そのライブ会場は、有名な「トルーバドール」というところでした。
ここは、ハリウッドにある由緒あるライブハウスで、古くはボブ・ディラン、からニール・ヤング、新しいところではラジオヘッドとかストロークスとかもやった、キャパ500人くらいのところ。
もちろん今でもあります。

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で、私は、全身真っ白のフリフリパンツで、会場に行きました。これです。

これ、その時の貴重な写真。会場に入る前にストリートで待ってる時。

私の服はどう見ても、見にきた人じゃなくて、出演者。。。。苦笑

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夫のトッシュと、あのヘアメイクアップ・アーティストの中野明海さんです!!!たまたまロサンゼルスに遊びにきてたのでした。



そして、この写真の10分後!!

思ってもみなかった私の人生の、


どこでもドアが開いてしまったのだ!!


中にはいり、彼らが「踊ってね〜!!」っていうから、「はーい」て。

そしたら、なんと!その踊る場所ってのが、ですね。

ステージの下でもなく、横でもなく、脇でもなく、後ろでもなく



((((((( 舞台の上 )))))))


へ?


あの、ボブ・ディランとかガンズ・アンド・ローゼズとか、フィオナ・アップルとかが立ったステージに??

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私はてっきり、サクラの観客で、フロアでの盛り上げ役だと思っていたら、な、なんと?ステージの上ですとぉ???

でも、、、、、、今更、「いやだ」とも言いにくい。。。

もともとこんな出演者レベルの衣装を着てノコノコやってきて、今更、恥ずかしがってるお年頃かい? ぶぶっ〜。

それに、まあ、多少お酒がはいってれば???

個室カラオケで、仲間とテーブルの上で阿波踊りと、そんなにちがわないような気もしてきた。。。。

昔だったら、私はいつも舞台裏の人間でした。。。
自分が表舞台で何かやるなんて、考えた事もなかったし、やりたいとも思った事もなかった。しかし、この場に及んでは。。。。、もう、コスプレ・カラオケのバカ騒ぎで、さんざん鍛えられていたので、顔のツラが、知らない間に100倍くらい厚くなっておりました。

ま、カラオケ・コスプレの延長さ〜!


で、舞台の上で、彼らのノリのいい音楽に合わせて、ぐるぐる腕を回したり、右を見たり、左を見たり、いつもカラオケでやってるような、ウケ狙いの大げさな踊りをやってたら、ライブは、あっという間に終わった。

あれ?もう、終わり?

そして、これで、祭りの後??、、、

どころか、、、。
なぜか私の踊りが、意外にも好評で、またライブやる時は、是非!また、きてよ〜!と、なってしまったのです。

もちろん、ボランティアなので、お金はもらえませんが、もともと、カラオケ個室では、お金を払っての馬鹿騒ぎが、今度はタダで、ドリンク付き!しかも友達のナイスなライブの音楽に合わせて、踊れるなんて、最高やん!
で、自然に「オッケー」てな、流れに、なった。

で、コレをですね、何回かやってたら、今度は、その友達からも、僕のバンドでも踊ってくれない?と。
そして、また、その友達の友達からも僕のライブでもお願い!。。。ってなって。。。。。。


あれよ、あれよ、というまに、3つのバンドの掛け持ちとなり、舞台で派手な衣装を着て踊る役が、次々に押し寄せてきて、もう夜が、むちゃくちゃ忙しくなった。

つまり、ふと、気がついたら、

((( ロスの踊り子 )))

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私は、ただのパリピーでよござんしたのに? 

カラオケ → コスプレ → パリピー → ロスの踊り子 

ただ、楽しい事をやってて、気がついたら舞台で踊ってた??て?

これって、どーいう事? 

ナニやってんだろ?アタシ。。。



、、、、しかも、これは、まだ、ほんの入り口だったのだ。

パンドラの箱が開いた瞬間であった

さて、アタイの人生は、いかにぃ〜〜??

ぺぺんぺんぺん、、、、ペンペンペン
冒頭の琵琶法師を思い出してください。

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ペペンペンぺん。。。。
このお話は、次回へつづくぅ〜〜〜〜〜

こんなに長い記事を読んでくださり、本当に有難うございます。
次回もよろしく、お待ちいたしております!!


L*



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